1,2 邂逅
1
帰り際もらった初入店記念写真の裏には
またきてにゃん
と、書かれていた。
檜原真洋は、もう二度と来てやるかにゃん、あんな小さいオムライスに千円以上徴収するとかどこの闇市やねんにゃあ! ふざけんにゃあ! と叫びながらその写真を地面に叩きつけようとしたがやっぱり止めて、歩行者天国の中を再び歩き始めた。
暗く深い、谷底を這っているような心境だ。
ビル群のただ中。生ぬるい空気のたまった電気街。これだけ密集しているのに、肩さえ触れ合わずすれ違っていく人々。一瞬で数百人とすれ違い、また一瞬、また一瞬と一期一会が消費されていく。
そんな人々を横目で見ながら、彼は鬱屈した心をぶくぶくと膨張させ、今にも破裂してしまいそうだった。
理由も分からないフラストレーションが、彼の心をそうさせていた。
現代という、この先どうなるのか全くよく分からない時代への不安。友人一人作ることができず、孤独にならざるを得ない現状への不満。
彼はそんな不満を狭い心の中に無理やり詰め込み押し込み、しかし発散させることはなかなかできない。このままではいずれ爆発してしまうだろう。それは周りの人を巻き込みながらの爆死。うぎゃああああとか言いながらナイフを振りかざし走り回り、警察に捕まる前に自殺する。人間として最悪の結末。ふとそんな映像が彼の頭をよぎった。
田舎町を脱出してこの電気街へ来たのはいい。だが目的がない――そう気づいたのは、街を移動する恐ろしいほどの人だかりを見てからだった。ああ何のためにここまで来たのか、自分にもさっぱり分からない。別に熱中するアニメもないし、メイド喫茶へ行きたいとも思わない。じゃあ何で来たんねん、と自らにツッコむ。何でだろうね、と力なく答える。
とりあえずメイド喫茶へ足を踏み入れてはみたが、予想通り緊張しすぎて楽しめなかった。
たとえば「いらっしゃいませご主人様」と言われた時、人はどう反応すれば良いのだろうか。店の扉の前でそんなことを小一時間悩んだあげく、彼が下した判断は「できるだけ慣れ慣れしく応える」ということだった。
むろん、その判断に行きつくまで彼は様々な意見分別と論理的思考をたどってきたのだが、それについては省くことにする。
彼は扉を開いた。
「いらっしゃいませ、ご主人様!」
並ぶメイドの威圧感。
できるだけ馴れ馴れしくできるだけ慣れ慣れしく。そう考えた彼は何を思ったか右手を挙げた。友人に、よっ、と声をかける時のごとく。あとはセリフだあとはセリフだ、と彼は焦る。次第に薄れていく意識。混濁する思考。今から何が起こるのか期待しているようなメイドさんたちの視線。そりゃ彼が右手を挙げてしまったのだから、メイドさんは「今からお客さん何かすんのかな」と待機してしまう。
でも彼は何を言うのか考えてなかった。考えてればよかった。でも何も考えてなかった。
舌が勝手に、SとYとUを混ぜ合わせたような音を出してしまった。
焦った。彼は非常かつ異常かつ尋常なく焦った。
メイドさんたちもお客様の緊張を察したようで、目の色に困惑を混じらせている。
もう、突っ切るしかない――
「しゅ」
彼はそう思い、声を、声を、
「しゅ、しゅっ……」
吐き出そうとすぼまる喉を一気に解放したら脳の中の混沌が口から一気に垂れ流された。
「しゅ、しゅっしゅぽおおおおおおおお!」
彼は頭が真っ白になった。
その後のことを、彼はよく覚えていない。
ただ、オムライスの値段の高さは異常だったと思う。
それにしてもいろんな人がいるもんだ、と歩行者天国を歩きながら彼は思う。
「うふーん、我的に言うとソラたんの萌えポイントは小動物的なのに本能にありのままに従っているといいますか、人間らしさを感じさせない小動物的エロスといいますか」とか言ってる見るからにオタクっぽいのもいるし、「まんぼう」と書かれたTシャツを着て、道行く人々を木刀できりきりまいしながら「介錯! はらきーり! すきやき!」と叫ぶ外国人もいたりする。
そんな変人ばかりかと思えば、一歩進むたびに最敬礼を行うサラリーマン。親子連れに普通の学生。たぶん主婦。じいさん。ばあさん。猫、メイド。
彼はそんな人々を、神仏が天空から眺めるような目つきで見ていた。口元には微かな笑みを浮かべている。アルカイック・スマイルである。これこそがアルカイック・スマイルである。さきほど感じたあまりの羞恥に、彼は悟りを開きつつあったのだ。
世界はこんなにも素敵なんだね。
いろんな人がいる。みんなちがってみんないいなあ。にんげんだもの。なんでみんなあんなに素敵なんだろうなあ。ここにいる人たちはみんな輝いているなあ。なんでみんなあんなに輝いているんだろう。
彼はそう考えている内、泣きだしそうになった。ぼやけた騒音で頭の中がいっぱいになる。ふいに一つの考えが彼の頭を突いた。
そうだ――みんな、何かに熱中しているのだ。
アニメ。PCパーツかもしれない。アイドルか、それとも薄い本だろうか。
とにかく、ここへ辿りつく人には各々の目的がある。みなそれぞれの目的を持ってここへ、様々な文化の集約する、まさに闇市のようにゴテゴテしたこの場所へやってくる。
そうじゃなければ、なんでこんな場所くるん、といった感じである。わざわざストレスを感じるために来るのか。群集に囲まれることによって快感を覚える人ならまだしも。人間観察のためならこの場所はうってつけかもしれないが。
だがしかし、彼にはそういった性癖があるわけでもないし、そういう趣味も持ち合わせてもいなかった。
そう、彼には趣味がない。
熱中することが何もない。
ゆえに彼は泣きそうだった。
自分が果てしなくみじめな存在に思えてきて。
――だから彼はいち早く、ここから逃げ出すことに決めた。
彼はさっそく駅へ向かうため、出発前にあらかじめ印刷しておいた地図を取り出そうと、背中のリュックに手をかけようとした。結局何も詰めるものがなかったリュックはとても軽い。まるで何にも背負っていないみたいだ。
次の瞬間、彼の背中から冷や汗がぶわっとふきだした。
あれ、ほんとになんも背負ってないんじゃね、と思ったからだ。
第六感以前に五感の全てが警鐘を鳴らす。あまりの背中の軽さに、大空へ飛んで行ってしまいそうだった。身体ではなく、意識の方が。精神体が。幽体が。魂が。
彼はシュレディンガーの猫作戦をとることにした。自分が背中をチェックさえしなければ、そこにリュックの存在があるかどうかなんて分からない。
そう、あるかもしれないのだ。そこにリュックが存在するかもしれないのだ。リュックの中には地図の他、携帯電話やら財布やら旅に欠かせぬものがたくさん入っていて、彼はそれらを駆使して無事田舎に帰ることができるのだ。やったね。
しかしよくよく考えればリュックサックまたはバックパックあるいは背嚢というものには肩紐があった。それを肩にかけることによって、我々は荷物を入れる袋部分を背負うことができるのだった。
彼は自らの二の腕あたりを見てしまった。
そこには何もなかった。
彼は爆死した。
2
歩行者天国が終了し幾時間。ナニガシ電気街はまさに電気の街といった様相で、目の奥を刺すまばゆい灯光を全身に帯び始めていた。
四車線道路を走る車はまばらだ。架橋の上を弾丸のように電車が飛び交い、人々は相も変わらず、林立するビルディングに吸い込まれたり吐き出されたりを繰り返している。そんな中、真洋一人だけが建物に入ろうにも入れず、ただひたすら街中をぐるぐるぐるぐる回っていた。
リュックはどこだ。
リュックがあるかもしれないあのメイド喫茶はどこにある。
記憶だけを頼りに彼はさまよった。確か結構入り組んだ道の途中にあったはずと思ったので、とりあえず入り組んでいそうな道に入ってみた。
道に迷った。
気がつけば駅の方角さえもよく分からなくなっていた。
しかも、何かぬめぬめした空気感の界隈に立ち入ってしまったようだった。路面は狭く、歩く人種は大概がおっさん。道を圧迫するように両側に並ぶ店の外装は、都会というより、祭りの屋台に似た猥雑な雰囲気を放っている。時々洒落た外装を見かけると思ったら、狭い入口の前に「60分○○円」という意味深な表示を載せた看板がピカピカ光っていた。
都会のあんなところやこんなところを見せつけられているような感じだ。でも彼はちっともドキドキしなかった。割とどうでもよかった。
そんなことより腹が減っていた。
性欲より食欲を優先するんだな人間って、と思いながらも足取りが危うい。五時間そこらぶっ続けで歩いているせいで、彼の膝は笑いに笑い転げていた。彼は全く気付いていないが、ハアハア言いながら脚をぶるぶるさせて歩く彼の姿は、外から見るとまるで性欲の亡者だった。
猫耳をつけたおっさんメイドも引いていた。あいつどんだけ飢えとるんねん。
「ちょいちょいそこのお兄さん」
何か背後から男性の声が聞こえたような気がしたが、幻聴だと思って彼は振り返らなかった。
次の瞬間、「どーん!」という声と共に、右目に何か鋭いものが突き刺さった。
反射的に目を閉じたため直接的なダメージは避けられたが、まぶたの上から受けた衝撃で思わず眼球がこぼれ落ちそうになった。
ぐおおおおと悶え、右目を両手で押さえながら彼は膝をつく。
「なんで無視するんや!」
降りかかってくる声に頭を上げると、そこには学ランに身を包み、黒い山高帽をかぶった紳士様の人物が、自分に向かって指を差しているのだった。どうやらその指で目を突かれたらしかった。
幻覚だろうと思って彼は立ち上がり、再び歩き出す。
「なんで無視するんや!」
再度人差し指が彼の目を襲ったが、彼はうつむくことによってその攻撃を回避した。
謎の紳士は勢いよくやりすぎたため、彼の頭で指を突き、ぐおおおおと悶えながら地に膝をついた。
ところでその時の彼はとても焦っていた。幻聴でも幻覚でもないとようやく気づいたのだ。それはつまり他の人を無視したということで、それはとても罪深いことで、冷や汗から身体じゅうが、じゃなくて、身体中が冷や汗から、じゃなくて、とにかくものすごく焦ってそして頭の中が真っ白になった。彼はどもりながら叫んだ。
「ぱっぱぱぱぱぱぱぱすみません!」
「なんでそない『ぱ』を連呼すんねん!」
関西弁の学ラン紳士は驚くほど俊敏な動きで立ち上がり、彼の胸に手の甲を叩きつけ――つまりツッコミを繰り出した。それは恐るべき速度だった。立ち上がる仕草を誰も目に入れることはできなかった。まるで瞬間移動したかのように素早く、そして鋭いツッコミだった。
彼は心停止に陥った。