02. その日は薄く紗を掛けた雨が降っていた
紫央は夢を見ていた。温かい夢だ。藍色の世界に、ふわふわと漂う夢。暗い色なのに、どうして温かいのだろう。微かに香るのはバニラの様な甘い匂い。とても、落ち着く。その夢の中で、紫央は頭を撫でられていた。優しく、優しく、壊れ物を扱うように。脱色し過ぎた髪は細くて、指に絡まりやすいので撫でにくいのに、“彼女”は絡まることなく撫でてくれた。不眠症気味の紫央は、体を酷使して疲れないとなかなか眠れない。しかし、今はとても心地のいい眠りだった。優しい匂いと不思議な藍色に包まれ、紫央はゆらゆらと意識を浮上させる。起きたくなかった。このままでいられるなら、死んでもいいと思える程。
ぱちりと目を開けると、視界いっぱいに薄紅色が広がった。そう言えば、桜の木の下で寝たのだと、紫央は思い出す。ぽたぽたと枝から水滴が落ちてきた。どうやら、雨が降り出したらしい。霧雨に近いその雨は、酷く憂鬱にさせた。今までが良い気分だっただけに、酷く不快だ。
――ぱさり。
起き上がると、何かが膝の上に落ちた。それは藍色のカーディガンだった。
「誰のだ……?」
誰にでもなく紫央は呟く。雨のせいで少し湿っていたが、これのお陰で雨でも寒くなかったのだろう。紫央は目の前にカーディガンを広げる。それはどうやら女物の様だ。ふと、ポケットに何か入っているのに気付いた。手を突っ込んでみると、それはどうやらスティックキャンディーのようだ。誰のものだか分からないのだが、紫央はそれの包装紙をぺりぺりと剥がし始める。剥き終わったそれを口に放り込み、ぽつりと呟いた。
「甘いな」
口に入れた飴を、ころころと転がす。バニラ味のようだ。人工の甘みがじんわりと口いっぱいに広がる。紫央は甘いものが好きではない。でも何故か、このバニラ味の飴は美味しいのだ。夢の中で香った匂いに似ているから、かもしれないと、紫央は思った。
春先の雨は、上着のない紫央の体温を奪っていく。紫央は手に持っていたカーディガンを着た。少し小さいが、細い紫央はなんとかなった。カーディガンからは、仄かにバニラの匂いがする。
「すげー眠い」
このカーディガンを着ていると、不思議と眠くなった。まるで、今までの不足分を補うように。霧雨のような細かい雨が、さあさあと降っている。ぼやけた視界の先に、ビニール傘を握った男がいた。こちらに歩いてきているようだ。紫央は、その男に見覚えがあった。幼馴染の不知火御門である。
「紫央、こんなところで何やってんだ?」
濡れるぞ、と言いながら傘をさし出す御門。強面のくせして、オカン気質なのである。紫央は、御門が持っていたもう一本の傘を手に取った。
「昼寝」
「眠れたのか?」
「昼休みからぐっすり」
紫央の言葉に、御門が目を見開く。紫央の不眠症のことを知っているのだ。御門曰く、今は放課後らしい。そうなると、紫央からすればかなり寝た事になる。疲れてないのに、不思議な事だ。
「そのカーディガンは何だ?」
御門はふと、紫央が着ているカーディガンに目がいった。紫央の体にぴっちりとしたそれは、明らかに着ている人のものではない。
「んー? 安眠枕的な」
「はあ?」
紫央は、至極嬉しそうに笑う。御門は、そんな紫央を見て絶句した。浮かべとしても、作り笑いか嘲笑、冷笑だった紫央の、嬉しそうな笑顔を始めて見たからだ。いや、初めてとは言えない。紫央が誰かをとことんまでボコボコにした時も、こんな笑みを浮かべていた。御門は、そっと頬を緩める。親友が、健全的に嬉しそうで何よりなのである。
「ねえ、御門」
「なんだ」
「このカーディガンの持ち主、分からないかな」
「……何故だ」
「ちょっと、お礼みたいな?」
彼女が着ていたカーディガンだけで、安眠出来てしまう。それならば、本体ならば? 本体に触れ、抱き締め、その香りを堪能したら、どうなるだろう。紫央は、確かに歓喜していた。見付けたのだ、自分を安心させる存在を。自分の渇きを潤す存在を。
「出来るだけ、探してやるよ」
だから貸せ、と御門が手を差し出す。暫し躊躇ったのち、渋々カーディガンを差しだす。紫央が、これは俺だけのものなのに、と言いたいのが御門には分かった。苦笑しながらも、御門はそれを嬉しく思う。他人にとことん興味がない紫央が、初めて自分から興味を持ち、それも相手を渇望するなんて。
「頼んだよー」
軽い調子で言う紫央だったが、内心では懇願するような思いだった。絶対に見付ける。誰が、何が邪魔をしようとも、彼女を手に入れてみせる。その思いが伝わったのか、御門がくつくつと笑った。
「任せろ」
「任せた」
どうかどうか、俺の世界に様々な色を与えてくれ。どうかどうか、俺の乾いた心に慈雨の雨を降らせてくれ。
紫央は、静かに願った。