きょうこう
夢現で朦朧とする意識を叩き起こして、俺はベッドの上で体を起こした。
スマートフォンで時刻を確認する。丁度丑三つ時だった。スマホの画面の明かりが消えて、部屋は真っ暗闇になる。
冬の凛冽な空気が毛布を通り越して襲ってくる。思わず身震いして、溜め息を吐く。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ。
狭いワンルームの物件。この部屋の閉じられたドアの向こうの廊下。玄関まで真っすぐと繋がったそこから、何かを歯で磨り潰すような音がしていた。
俺は慄然とする。
最近になって寝付いてもすぐ目が覚めるようになった。丁度、一刻の狂いもなく、丑三つ時に。
原因はこの歯軋りの音である。
どこから発生しているのか、全くもって見当が付かない。かと言って、ドアを開けて音の鳴る場所を探しに行く気にもならない。
俺は耳を手で押さえながら、もう一度寝転がった。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ。
音は絶えず鳴り続けている。
結局、眠れたのは丑三つ時が過ぎてからだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
緑風が薫る花々のにおいを漂わせる季節。俺はとある安値のアパートへと引っ越した。元々実家暮らしで、今回の引っ越しで初めての一人暮らしとなる。
最初に自分の部屋へ訪れた時の印象は、「薄暗い」だった。
目の前に高層マンションがあるせいで、光が遮られているのだ。そのせいか、今まで生活してきた中、よく黴のにおいがした。
掃除は怠っていない。しかし、廊下の方に問題があった。風呂に入ると必ず床が湿気る。水分を孕んだ空気がどんよりと重く、正直言って最悪の気分になる。
冬になってこの部屋に異変が現れた。俄かには信じがたいが、異音がするのだ。
ギコリ、ギコリと歯軋りの音が廊下の方から聞こえてくる。音の発生源は分からない。調べようとも思えない。
俺は毎晩その音に起こされる。
どうしてか今日は眠る気になれなかった。電気を点けたまま、長時間スマートフォンで動画配信サイトの動画を見漁っていた。
スマートフォンの画面の左上を確認する。丑三つ時になった。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ。
やはりいつものように歯軋りの音が聞こえてきた。
心臓の鼓動が速くなる。頭から生温い汗が噴き出る。
この部屋と廊下とを繋ぐドアにはすりガラスが嵌められてあって、ぼやけてはいるものの、向こうの景色を確認することができる。
俺の視線は、ドアに吸い寄せられるように動いた。向こうは暗く、景色は確認できない。
だが、『何か』が迫って来た。白い『何か』はすりガラスに付着する。
どうしても目線がすりガラスから離れなかった。『何か』が動く。そして、その『何か』と俺は目が合った。
酷く白い肌の、瓜実顔。真っ黒い目が俺を見ていた。
何かは歯を食いしばっていた。そして左右に揺れ動かして、
――ギコリ、ギコリ。
俺は息を荒げる。途轍もない恐怖が心を支配した。鳥肌どころの騒ぎではない。全身からどっと噴き出る生温い汗と、無意識の内に顫動する両手。
しばらくその『何か』と俺は目が合っていた。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ。
何かは歯軋りをしながら離れていく。俺は恐怖の緊縛から解放されて、なんとかスマートフォンを操作した。
時刻を確認する。
丑三つ時を過ぎていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
事故物件を調べる有名なサイトで、俺の家を調べてみたが、何の情報も記されていなかった。
昨日見た『何か』はつまりここの土地に纏わるものではないということだ。事故物件であれば納得がいくが、どうしてその『何か』は現れるのか。
俺は会社へ通勤するまでの電車の中、そのことだけを考えていた。
家に帰宅して早々、風呂に入った。風呂を上がるとやはり空気はどんよりと重くなっていた。
髪を乾かしながらふと、洗面所の鏡に映る自分の姿を眺めた。
目の下に隈ができている。連日続く異音のせいだろう。睡眠不足になりつつあってか、体が悲鳴を上げているのだ。
それから俺は、効果があるのか甚だ疑問だが、盛り塩をドアの近くに幾つか置いた。怪しい札やお守りが部屋のどこかに隠されていないかも調べ回った。
特にこれと言って怪しい物は見つからなかった。
頬が強張る。今日はベッドに寝転び、明かりを消した。
緊張のあまり上手く寝付けないまま、丑三つ時がやって来た。
――ギコリ、ギコリ。
あの歯軋りの音が聞こえる。俺は毛布にくるまって、ドアの方から目を離した。昨日見た怪異を、今日もまた目に焼き付けるつもりはない。
心臓の鼓動がやけにうるさく響いて、ふと俺は、この鼓動の音が『何か』にまで聞こえないだろうかと不安に思う。
『何か』とはドア一枚でしか隔たれていない。盛り塩が効果を発揮してくれれば、これ以上俺の身に近付く危険性はないだろう。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ。
すると、突如として音が止んだ。俺はゆっくりと枕元へ置いていたスマートフォンへ手を伸ばす。時間は確認したがまだ丑三つ時の最中だ。
盛り塩が効いたのだろうか。『何か』を撃退してくれたのだろうか。
――カタッ。
音がまた聞こえた。しかし、今度は歯軋りの音ではなかった。上下の歯を思い切り打ち合わせるような音だ。
――カタッ、カタッ、カタッ。
音数が徐々に増えていく。
――カタッ、カタッ、カタッ、カタッ、カタッ。
丑三つ時が終わるまで歯を打ち合わせる音は続いた。
時刻をスマートフォンで確認して、俺は恐る恐る起き上がった。明かりを点ける。ベッドを降りてドアの近くまで行くと、ふと、盛り塩が黒く変色しているのが目に入った。
盛り塩は効果があったのだ。俺は盛り塩を新しい物に交換して、ベッドへ戻った。今夜はすぐに寝付くことができた。
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今日は地元の神社に行って、魔除けの札を幾つか買った。札を部屋に飾って、丑三つ時まで待機する。
その時はすぐにやって来た。
俺は眠ることなく、耳元へ意識を集中させた。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ。
いつもの『何か』の音だ。今日は電気を点けている。
俺はベッドの上に座ったまま、すりガラス越しに廊下の方を観察していた。
白い『何か』が近くまでやって来たのか、白いシルエットがぼんやりと窺える。
固唾を飲む。これからが勝負だ。
――カタッ。
音が変わった。ここまでは前と同じだ。
すると『何か』がドアに顔を近付けた。あの蒼白な瓜実顔が視線をキョロキョロと動かしている。
――ギコリ。
音が戻る。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ、ギコリ。
慌ただしく音が連続した。途端に部屋に飾っていた全ての札が床へ落ちた。
俺は思わず体を跳ねさせた。
盛り塩の方を見ると、黒く変色している。ドアの向こうにいる『何か』はじっとこちらを見ていた。
――ギコリ。
するとドアノブが動いた。ゆっくりと無造作にドアが開いて、部屋に『何か』がやって来る。
俺は心臓が止まりそうになった。
『何か』は俺を見据えたまま、四つん這いになって歪んだ四肢でこちらへ寄って来る。
体は皮と骨だけでできているような細さ。ぼさぼさの長い黒髪で顔はよく見えない。
俺は身動き一つ取れずに、目の前に迫り来る恐怖を見ているしかできなかった。
『何か』が目の前に。やっと顔が見えた。
――グガッ。
『何か』は喉に粘っこい水でも詰まっているのか、汚らしい音を鳴らした。血だ。血が口からぼとぼとと床に落ちている。
血管が透けて見えるほど蒼白な顔。眉毛はなく、ただ真っ黒な眼球があるのみ。鼻は穴だけを有していて、口は異常なほど裂けていた。
――グガッ。
『何か』がまた喉を鳴らす。
すると、『何か』が口角を吊り上げて笑った。
――ギコリ、ギコリ、ギコリ。
顎を左右に揺らして歯軋りをする。『何か』は依然として俺を見据えたまま。俺もまた『何か』から目を離せずにいた。
動悸がする。頭がちりちりと焼けるように痛い。
――グガッ。
『何か』がまた喉を鳴らした。口を開いて、血の泡を破裂させる。
「きょうこう」
『何か』は獣のように低い声で、俺を見据えながら告げた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
あれから『何か』は出てこなくなった。俺は札も盛り塩も全て撤去して、元通りの生活へ戻ることができた。
唯一、『何か』が口から落とした血の痕は消えてくれなかった。赤黒いシミと化して、床に残り続けている。
「きょうこう」と、『何か』が言った言葉が頭を離れなかった。考えても分からない。何かの意味があるかもしれない。
俺は地元の神社や寺を巡り、『何か』について尋ね回った。インターネットでも情報を集めようとした。
だが、一切の情報は得られずに終わった。
数年が経って、彼女ができた。俺は彼女を家に招いて、共にベッドへ入った。
何事もなく、眠る。
スマホのアラームが鳴って、体を起き上がらせる。朝を迎えたのだ。
彼女は俺よりも先に起きていたようで、じっとこちらを見ていた。
「ねぇ」
彼女が言う。どこか怯えているような顔をしていた。
「あなた、どうして目をあけたまま歯軋りをしていたの」
俺は耳を疑った。彼女は一体何を言っているのだろうか。
その言い方ではまるで、俺が『何か』になったみたいな――。
「ごめんなさい。私たち、別れましょう」
彼女はそう言って家を出て行ってしまった。俺は呼び止めることができず、呆然としたままベッドに座っていた。ふと、部屋のドアへ目をやった。
すりガラス。その向こうに、『何か』の顔があった。
――ギコリ、ギコリ。
『何か』の歪な笑みは、ガラス越しにもはっきりと映って見えた。
翌日、彼女は交通事故に巻き込まれて死んだ。




