第一話_突然の異世界転移
江戸の夜は、生き物の吐息さえ凍りつくような静寂に包まれていた。
八丁堀のさらに奥、陽の光さえ届かぬ入り組んだ路地裏。
湿った月光が、泥濘に浮いた油のように鈍く光っている。
「十五。」
鈴の鳴るような、透き通った声が闇に響く。
そこには、十六、七の可憐な少女と見紛うばかりの優男が微笑んでいた。
白磁のような肌に、切れ上がった涼しげな目元。
風に揺れる前髪をかき上げるその仕草は、どこかの良家の若君を思わせる。
だが、彼の足元には、物言わぬ肉の塊が山を成していた。
飛び散った鮮血が、ここで起きた惨状を物語っている。
「ひっ!…ああっ!」
腰を抜かし、尻餅をついたまま後ずさる小太りの男。
この一帯を牛耳る悪徳商人、石黒屋の番頭である。
「ま、待て!金だ、金ならいくらでもやる!蔵の千両箱をすべて差し出そう!だから、命だけは…っ!」
そんな番頭に、清十郎は困った子供をあやすような柔和な笑みを浮かべ、音もなく間を詰めた。
「お金でしたら、貴方が生きていても死んでても、頂く予定なので交渉にはなりませんよ。」
細く、しなやかな指が漆黒の鞘にかけられる。
彼の名は朽木 清十郎。
江戸の闇を牛耳る始末屋『伊多田鬼屋』の刺客――通称『皆殺しの清十郎』である。
「十六。」
清十郎の身体が、独楽のように鋭く回転した。
抜刀。
吸い付くような手応えと共に、男の首が宙を舞うはずだった。
――だが、その刹那。
視界が、飴細工のようにぐにゃりと歪んだ。
踏みしめていた土の感触が消え、脳を直接かき回されるような激しい悪寒が清十郎を襲う
◇◇◇
「…何でしょうか、ここは?」
激しい目眩に襲われながら目を開けると、そこは江戸の路地裏ではなかった。
鼻をつくドブの臭いは消え、代わりにひりつくような焦熱と、焼けた土の臭いが鼻腔を突く。
見上げるほどに高い石造りの天井。
天を衝くような大理石の円柱が並ぶ、広大な広間。
江戸には存在し得ない「巨大な建造物」の中に、清十郎は一人、抜き放った刀を構えたまま立ち尽くしていた。
「…何者だッ!?魔王軍の新手か!」
鼓膜を震わせたのは、聞き慣れぬ言語。
だが、不思議とその意味は清十郎の脳に直接流れ込んできた。
視線を向けると、そこには異様な光景が広がっていた。
広間の中央。
満身創痍で膝をつく、超がつくほどの美女。
一部白髪の混じった真紅の髪、体のラインが分かるほど肌に密着した鎧。
清十郎が現れるまで激しい戦闘を行っていたのか息は荒れ、鎧はところどころ裂けている。
また、その頭部からは禍々しくも美しい二本の漆黒の角が生えていた。
(これは…なんとも面妖な…。)
清十郎は内心で呟きながらも、続けて彼女を包囲する四人の男女を観察した。
白銀の鎧を纏った金髪の男。
長い杖を構え、軽蔑の眼差しを向ける女。
武器を持たず、何かに祈りを捧げる無防備な女。
そして、身の丈ほどもある巨大な斧を担いだ大男。
理解し難い状況である。
「カタロフ、やれ!邪魔者を片付けろ!」
金髪の男の鋭い命令。
「おうッ!」
重戦士カタロフが、巨体に似合わぬ爆発的な踏み込みで突進してくる。
とっさに反応し、清十郎は柳のようにしなやかな体捌きで、紙一枚の差で斧の軌道を回避した。
床が爆散し、石礫が頬をかすめる。
「急に斬りかかってくるとは、物騒ですね。」
躱しながらも、清十郎は穏やかな笑顔を絶やさない。
だが、その異様な余裕が、かえって勇者たちの神経を逆なでした。
「黙れ、化け物め!セラ、分析を!」
セラと呼ばれた女の瞳が怪しく発光する。
火とは違う、見たこともない光。
「勇者様、気をつけてこの男…魔力を一切感じませんが、その魂はドス黒く濁りきっている。幾人も、幾人も――命を奪っているわ!」
「当たらずも、遠からずと言ったところですかね…。」
清十郎は流れるような足運びで、倒れている女の傍らに立った。
「貴様…何者だ?我らを…嘲笑いに来たのか?」
掠れた声で問う女。
その瞳には、敗北を目前にした絶望と、それでも折れぬ誇りが混在していた。
「アナタ方が何者かは知りませんが…四人がかりで女性一人を追い詰めている現場は見過ごせませんね。」
清十郎は女に優しく微笑みかけ、一団に向き直った。
「助太刀しますよ。」
腰の刀に手を添え、臨戦体制を取る清十郎。
「ガキが、ナメるなッ!『怪力剛圧』!!」
カタロフが咆哮し、再び斧を振りかぶる。
勇者がそれに合わせ、剣を掲げた。
「セラ、強化を!カタロフ、同時に行くぞ!」
セラの口から呪文が溢れると、二人の身体がまばゆい光に包まれた。
身体能力を底上げする「魔法」。
だが、清十郎にとってそれは大した脅威ではなかった。
(動きは速いが…。殺気が大きすぎますね。)
同時に突っ込んでくる二人。
清十郎は構えたまま、その場を動かない。
目前まで迫まる剣と大斧。
その時、彼の身体が一瞬だけ陽炎のように揺らいだ。
「なっ、消えた…!?」
次の瞬間、清十郎は二人の攻撃が交差する死角へと滑り込んでいた。
彼は刀を峰に返すと、カタロフの右腕の付け根を的確に打撃する。
「がぁっ!?」
鈍い、骨の砕ける音。
カタロフの手から巨大な斧が滑り落ちる。
「リゼア!こいつのことは後回しだ、アーデルミノスを逃がすな!」
勇者が不利を悟り、後方の魔法使い・リゼアに指示を送る。
「まかせて!『爆炎』!!」
発声と同時に、リゼアの杖の先から突如として巨大な火球が現れる。
原理は不明だが、この熱気は間違いなく本物。
清十郎は危機を察知し、瞬時に倒れたまま女――勇者がアーデルミノスと呼んだ女性を抱きかかえた。
「失礼。」
「っ!?貴様、何をする――」
言葉が終わるより速く、清十郎は跳躍する。
着弾、轟音。
広間が真っ赤な炎に包まれ、衝撃波が柱を震わせる。
「…嘘でしょ? あの距離から、アーデルミノスを抱えて…!?」
リゼアが、戦慄に顔を歪める。
炎の帳の向こう。
アーデルミノスを軽々と抱き抱えたまま、塵一つついていない白い着物を翻して清十郎が着地していた。
「大丈夫ですか?」
何が起きたか理解が及ばす、両目をパチクリさせるアーデルミノスに笑顔を向ける清十郎。
「あ、ありが…」
戸惑いながら、アーデルミノスがお礼を言おうとした時、重厚な扉が外側から吹き飛んだ。
「アーデルミノス様ぁッ!!」
異形の姿をした者たちが雪崩れ込んでくる。
数にして数十。
一気に形勢が逆転した。
「くっ…ここまでか!」
金髪の勇者は、悔しそうに言い捨てる。
「劣等種族の分際で…よくも俺の腕をッ!」
「大人しくやられていれば、私たちが優しく『飼って』あげたのに。残念ね。」
リゼアとカタロフが毒づく。
清十郎はアーデルミノスを腕に抱えたまま、可笑しそうに笑った。
「弱い犬ほどよく吠えると聞きますが…。」
「なっ…!貴様ァッ!! 」
清十郎の挑発に激怒するカタロフを、勇者が制する。
だが、その目は怒りに満ちている。
「我が名は勇者アレク!必ずその首、もらいうける!!」
剣をかざし、名乗りを上げると踵を返した。
「セラ、転移を!」
「はい!全員脱出します!」
一瞬の光と共に、四人の姿は霧のように消え去った。
◇◇◇
静寂が戻った広間。
扉から雪崩れ込んできた異形たちが、清十郎を取り囲む。
「アーデルミノス様っ!」
「その人間は何者ですか!?」
「お怪我は?」
口々に叫ぶ異形。
そんな中で、彼らの声がまるで聞こえていないように、アーデルミノスは抱きかかえられたまま、清十郎を見つめている。
「あの…、みなさんアナタに聞いてるみたいですよ?」
そんな彼女に、少し困ったように笑いかける清十郎。
そこでようやく我に返ったアーデルミノスが、またも目をパチクリさせる。
「ん…?」
部下と清十郎を交互に見る。
そして、自分が置かれている状況を改めて確認する。
「これ…ちがっ!?」
アーデルミノスの顔が林檎のように真っ赤に染まる。
「はっ離せ!下ろせと言っているッ!」
恥ずかしさに耐えかね、足をばたつかせながら、清十郎の胸をポカポカと叩く。
清十郎はそんな彼女ををそっと床に下ろし、鞘に刀を収めた。
声にならない声をあげて顔を隠すアーデルミノスと、殺意を向ける異形たち。
「さて、どうしましょうか…。」
江戸の始末屋『伊多田鬼屋』の刺客、皆殺しの清十郎。
わけも分からず転移した異世界で、困ったように微笑んだ。




