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7、最後の一皿

 中学生の少女は、六畳の部屋の隅にうずくまっていた。


 壁一面に、黒いマジックで「あけるな」と書かれている。壁紙の上、柱の横、天井の端。同じ二文字が何百回も。


 床に散らばったノートにも、同じ文字。開いたページも、閉じた表紙にも。少女の左腕にも、爪で引っ掻いたような赤い文字で、「あけるな」。


 母親が廊下で泣いている。


「三日前からずっとこうなんです。声をかけても反応がなくて……」


 黒瀬は部屋に入った。


 空気が重い。呪いの気配が充満している。第一層——習慣層の呪いだ。深くはないが、しつこい。日常の行動にこびりつくタイプ。少女の場合、「何かを開ける」という行為そのものに楔が打たれている。ドアも、ノートも、口も。


 少女の手元に、小さな日記帳があった。鍵つきのタイプだ。


 それが呪具だろう。日記帳の鍵を開けたとき、呪いが発動した。誰かに読まれたくない言葉が、「開けるな」という条件文に変わった。


「透、いるか」


 電話越しに透の声が返る。事務所から遠隔で対応していた。本来なら隣にいるべきだが、黒瀬が来るなと言ったのだ。


『いる。ノートに出てる。第一層、楔は一本。単純な封鎖型だ。日記帳の中に楔がある。怨霊は……小さい。少女自身の羞恥心が形になったものだ。戦闘力はほぼない』


「わかった」


 黒瀬は少女の前にしゃがんだ。


「日記帳、借りるぞ」


 少女は反応しない。だが、黒瀬が日記帳に触れた瞬間、かすかに体が震えた。


 黒瀬は目を閉じた。


 息を一つ。


 世界の表面が、剥がれた。



     *



 第一層の内界は教室だった。


 放課後の、誰もいない教室。机の上に日記帳が開いている。そのページから黒い霧が立ち上り、小さな影が震えていた。


 怨霊というには頼りない。少女の輪郭をした半透明の影が、日記帳を両手で抱え、黒瀬から隠そうとしている。


「あけるな……あけるな……」


 その声は怒りではなく、懇願だった。


「開けない。楔だけもらう」


 黒瀬は影に手を伸ばした。影は身を縮めたが、抵抗はしなかった。


 胸の中に手を入れる。小さな楔が一本。符がついている。「秘密を開けた者に封鎖を」。


 引き抜く。影が溶ける。白い霧になる。


 黒瀬はそれを吸い込んだ。


 羞恥心の味がした。苦いというより、酸っぱい。思春期の、誰にも見せたくない感情の味だ。


 軽い呪いだった。腹の足しにはなるが、空洞を埋めるには全然足りない。


 水たまりの水を舐めて、砂漠で生き延びようとするようなものだ。


 世界が崩れる。扉を抜ける。光。



     *



 現実に戻ると、少女が泣いていた。


 声を上げて泣いていた。三日ぶりに、口が開いたのだ。


「お母さん……ごめんなさい……」


 母親が駆け寄り、少女を抱きしめる。


「いいの、いいのよ。もう大丈夫だから」


 黒瀬は立ち上がり、部屋を出た。


 玄関で靴を履く。母親が追いかけてきた。


「ありがとうございます。本当に——お礼は、どうすれば」


「いりません」


 白河に仕込まれた依頼だ。金を受け取る気にはならなかった。


 外に出た。夜の住宅街。街灯の下で、黒瀬は自分の手を見た。


 まだ震えている。


 少女の呪いを喰って、一時的に落ち着いた。だが、これが最後の一皿だ。次はない。白河が紹介しない限り、もう誰も来ない。


 別に死んでもいいのではないか。


 心の中で、もう一人の自分が囁く。


 こんな厄介な呪いを背負って、生きていても仕方がないだろう。


 黒瀬はポケットからスマホを出した。


 あのとき。植え付けに失敗して、全てを失った。妻も、子供も、仕事も、キャリアも。


 やりきれ、ということなのか。


「……この俺が、運命なんぞに身を委ねるとはな」


 非通知の番号を、着信履歴から呼び出した。


 三コール目で、白河が出た。


『おや。早かったね』


「……条件がある」


『言ってみたまえ』


 黒瀬は夜空を見上げた。星は見えない。東京の空はいつも曇っている。


「明日、会う。詳しい話はそのときだ」


『楽しみにしているよ』


 通話を切った。


 手の震えは止まらなかった。

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