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6、兵糧攻め

 電話が鳴らなくなったのは、白河に会った翌日だった。


 黒瀬の依頼は、すべて紹介で成り立っている。呪いに困っている人間が、知人の知人を辿って黒瀬に行き着く。その紹介ルートは三本あった。


 一本目は、都内で霊媒師をやっている老婆。手に負えない案件を黒瀬に回していた。


 二本目は、寺の副住職。檀家から相談を受けたとき、明らかに「本物」だと判断したものだけを紹介してきた。


 三本目は、探偵事務所の所長。失踪や原因不明の体調不良の調査で、通常の手段では説明がつかないケースを黒瀬に持ち込んでいた。


 その三本が、二日のうちに全部止まった。


「田宮のばあさん、電話に出ない」


 黒瀬が言った。事務所の椅子に座り、スマホの画面を見ている。


「永信寺の副住職にもかけた。『しばらく紹介は控えさせてほしい』と。理由は言わなかった」


 透がノートから顔を上げた。


「探偵の佐伯は?」


「留守電。折り返しがない」


 沈黙が落ちた。


「……白河だな」


 透の声は平坦だった。怒りではなく、確認の口調だ。


「三人とも、別々のルートだ。同時に止まるのは偶然じゃない。圧力をかけたんだろう。三人とも、どこかで立花グループの取引先と繋がっているはずだ」


「合法的にか」


「そうだろうな。あの男はそういうやり方をする。取引先への正当な判断として、仲介者との関係を見直す。呪いとは関係ない、ビジネス上の判断として。証拠は残らない」


 黒瀬はスマホを机に置いた。


「やられたな」


「最初から、こうなることを見越して依頼を持ちかけたんだ。断られる前提で。断った後に餌場を潰す。それが第二段階だった」


「計算高い男だ」


「三十年、創業家の下で生き延びた男だ。計算しかできないんだよ」



     *



 三日目。


 黒瀬は自分で依頼者を探し始めた。


 だが、呪いの依頼というのは、向こうから来るものだ。こちらから「呪われていませんか」と声をかけるわけにはいかない。SNSで検索してみたが、本物の呪いとオカルト愛好家の区別がつかない。駅前で看板を出すわけにもいかない。


 結局、何もできなかった。


 四日目。


 腹が減り始めた。


 普通の空腹ではない。胸の内側の空洞が広がっていく感覚。肋骨の裏あたりから、冷たい風が吹いている。喉の奥が乾く。水を飲んでも、食事をしても、満たされない。体が求めているのは物理的な栄養ではなく、呪いだ。


 他人の呪いを喰わなければ、この穴は埋まらない。


「顔色が悪い」


 透が言った。五日目の朝だった。事務所に来るなり、黒瀬の顔を見て眉を寄せた。


「いつもだ」


「いつもより——」


「その台詞は聞き飽きた」


 黒瀬は窓際に立っていた。室外機だらけの景色。灰色の空。向かいのビルの窓に、自分の影が映っている。痩せた。ここ数日で頬がこけ、目の下の隈が濃くなっている。


「最後に喰ったのは、いつだ」


「白河の呪い。五日前」


「五日か。前は二日で次を喰っていた」


「ああ」


「もたないぞ」


「わかってる」


 透はペンを回した。考えている。設計士の癖だ。問題を構造で捉え、解決策を図面に起こそうとする。


「紹介ルート以外で依頼者を見つける方法を考えよう。たとえば——」


「ない」


「聞けよ、最後まで」


「ないんだ。呪いの依頼は信頼で繋がってる。ネットで広告を打つようなもんじゃない。呪われてる人間は、まず自分が呪われていることに気づいていない。気づいても、信じない。信じても、誰に頼めばいいかわからない。だから紹介なんだ。その紹介が全部止まった」


 透は黙った。


 黒瀬の言う通りだった。呪いの仕事は、地下水脈のように見えない経路で依頼者と繋がっている。その水脈を、白河は上流で堰き止めた。下流の黒瀬には、もう水が来ない。


「透。頼みがある」


「何だ」


「しばらく、ここに来るな」


 透の目が鋭くなった。


「何を言ってる」


「俺が飢えて暴走したら、近くにいる人間が危ない。お前は設計士だから多少の耐性はある。だが万が一ってことがある。——慧海(えみ)がいるだろう。あいつの傍にいてやれ」


 透の表情が変わった。


「お前、そこまで切羽詰まってるのか」


「まだ大丈夫だ。だが、大丈夫じゃなくなってからでは遅い」


「……飢えると、どうなる」


「記憶が削れる」


「それは知ってる」


「もっと進むと、見境がなくなる。呪いじゃないもの——人の感情や記憶を、直接喰おうとするようになる。そうなったら、もう人間じゃない」


 透の顔が強張った。


「前にもそうなったことがあるのか」


「一度だけ。抗争の後だ。喰うものがなくて、長い間飢えた。そのとき——」


 黒瀬は言葉を切った。


「そのとき、何があった」


「覚えていない。記憶が削れたから。ただ、気がついたときには、大事なものが全部なくなっていた」


 妻。子供。自分が守るはずだったもの。


 飢えの中で何をしたのか。誰を傷つけたのか。それすら覚えていない。記憶が削れるというのは、そういうことだ。罪の手触りだけが残って、罪そのものが消えている。


「慧海はまだ花菜(かな)さんのことを引きずってる。お前まで何かあったら、あの子は一人だ。だから帰れ。娘のそばにいろ」


 透はしばらく黒瀬を見つめていた。


「……白河の依頼を受ければ、喰えるのか」


 透の声は、低く、慎重だった。


「受けても喰えない。植え付けは食事にならない。むしろ吐き戻しに近い。胃を空にするだけだ」


「じゃあ意味がないだろう」


「植え付けを成功させれば、白河が呪喰(じゅばみ)を紹介してくれる。そいつに俺の呪いを喰ってもらえれば——」


「嘘かもしれないんだろう」


「十中八九、嘘だ」


「じゃあ——」


「だが一割は」


 黒瀬は自分の手を見た。震えている。指先が冷えている。


「一割でも可能性があるなら、お前ならどうする」


 透は答えなかった。


 しばらく無言が続いた。事務所の安い時計が、秒針を刻む音だけが聞こえる。


「……帰る。今日は帰る。だが、明日も来る」


「来るなと言ってるんだ」


「お前が死にかけてるのに、家で娘とメシ食ってられるか。俺は設計士だ。お前の図面を引くのが仕事だ。それは変わらない」


 透はノートを掴み、ドアへ向かった。


「透」


「何だ」


「……慧海に、ちゃんとメシ作ってやれよ」


「言われなくても作ってる。お前こそ何か食え。コンビニのおにぎりでもいいから」


「おにぎりじゃ腹は膨れない」


「知ってるよ」


 ドアが閉まった。


 一人になった事務所で、黒瀬は天井を見上げた。



     *



 六日目の夜。


 黒瀬は事務所の床に寝転がっていた。


 天井の染みが、また呪いの階層に見える。壁の隅に文字が浮かんでいるような気がする。幻覚だ。飢えが進むと、世界の表面が薄くなる。現実と内界の境目が曖昧になっていく。


 スマホが鳴った。


 非通知ではなかった。知らない番号だ。


「……もしもし」


『黒瀬さんですか。あの——助けてほしいんです。娘が、三日前から——』


 依頼者だった。


 紹介ではない。どこで番号を知ったのかわからない。だが、声は本物だった。追い詰められた人間の声だ。


「状況を聞かせてください」


 黒瀬は体を起こした。手が震えている。だが声は、職業的な平坦さを保っていた。


 相手は四十代の母親だった。中学生の娘が、三日前から部屋に閉じこもって出てこない。食事も取らない。声をかけると、壁に向かって何かを書き続けている。同じ言葉を、何百回も。


「何と書いていますか」


『「あけるな」です。壁に、ノートに、自分の腕にまで。「あけるな」と』


 黒瀬の腹の底が、ぐう、と鳴った。


 呪いの気配だ。本物の。


「住所を教えてください。今から行きます」


 電話を切ろうとした瞬間、別の着信が入った。非通知。


 黒瀬は母親の電話を保留にし、非通知に出た。


『やあ、黒瀬君』


 白河の声だった。


『まだ元気そうで何よりだ。ところで——今、電話があっただろう?』


 黒瀬の血が、一瞬で冷えた。


「……あんたが仕込んだのか」


『仕込んだ? 人聞きが悪いな。ただ、君の番号を必要としている人がいたから教えてあげただけだよ。あの母親は本物の依頼者だ。娘の呪いも本物だ。嘘は言わない。行ってやるといい』


「何が目的だ」


『目的? 君に食事をさせてあげようとしているんだ。感謝してほしいくらいだよ』


 黒瀬は奥歯を噛んだ。


『ただし——これが最後の一皿だ。次はない。私が紹介しない限り、もう誰も君のところには来ない』


「……脅しか」


『提案だよ。考えてみてくれ。餓死するか、仕事を受けるか。どちらが合理的か、君にもわかるだろう?』


 通話が切れた。


 黒瀬は保留を解除した。母親の声が戻る。


『黒瀬さん? もしもし? 来てくれるんですか?』


 腹が減っている。胸の空洞が疼いている。


 この依頼を受ければ、もう少しだけ生きられる。だがそれは白河の手のひらの上だ。最後の一皿を食べ終えたら、次はない。


 次がほしければ、白河の本題を受けるしかない。


「——行きます。住所を」


 黒瀬は立ち上がった。


 膝が少しだけ、笑った。

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