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5、本題

 白河は一枚の写真をテーブルに置いた。


 三十代前半の男。端正な顔立ち。スーツの着こなしに隙がなく、目に迷いがない。撮影場所は記者会見の壇上で、背景に立花グループのロゴが見えた。


「立花恒一郎。創業家の長男で、現在は副社長だ。来月の株主総会で、社長就任が正式に発表される」


 黒瀬は写真を見たが、手に取らなかった。


「それで?」


「継承を止めろ。社長になれない状況を作れ。方法は任せる」


 応接室の空気が、一度だけ止まった。


 透がノートを閉じる音がした。


「……植え付けか」


 黒瀬の声は低かった。


 白河は目を細めた。


「君のことは調べさせてもらったよ。かつては『呪植』の第一人者だったらしいね。人の内界に楔を打ち込み、行動を縛る。相手の未来を歪める。評判は高かった」


「過去の話だ」


「しかし——」白河は続けた。「敵対するグループとの抗争に敗れた。『人の呪いを喰わなければ死ぬ』呪いをかけられ、以来、解呪の仕事に鞍替えした。違うかね?」


 黒瀬の喉の奥に、古い味が戻った。鉄と灰と、自分の血の味。


 抗争の夜のことは、断片でしか覚えていない。負けたこと。呪いをかけられたこと。そして——そのせいで、全てを失ったこと。


 妻。子供。仕事。キャリア。


 植え付けに失敗したせいで、守るべきものを全て奪われた。


「過去を知ってるなら、答えもわかるだろ」


 黒瀬は立ち上がった。


「植え付けは二度としない」


 透も立った。二人が出口に向かう。


 白河は引き止めなかった。


「まあ、考えておいてくれ」


 背中に、穏やかな声が追いかけてくる。


「報酬は悪くない。金は前払いした分に加えて、成功報酬を上乗せしよう。それと——」


 白河は間を置いた。計算された間だった。


「君の呪いを喰える者を紹介する。嘘ではないぞ?」


 透が振り返った。


「バカな。こいつの他に『呪喰』がいるわけ――」


「言ったはずだ。どんな世界にも、競合はある」


 黒瀬は振り返らなかった。


「ふん。答えは変わらん」


 ドアを開け、廊下へ出る。


 エレベーターのボタンを押す黒瀬の指が、わずかに震えていた。透はそれを見たが、何も言わなかった。



     *



 ビルを出ると、夕方の風が吹いていた。排気ガスと、どこかの飲食店の換気扇から漂う油の匂い。地上の匂いだ。三十二階の無菌室みたいな空気より、よほど人間の匂いがする。


 しばらく無言で歩いた。


 透が最初に口を開いた。


「あの男、危険だ」


「知ってる」


「呪いを解いてやったのに、目が変わらなかった。忠誠と服従が消えても、冷たいまんまだ。あれは性格じゃない。設計思想だ。三十年かけて自分を道具に作り替えた人間の目だ」


「よく見てるな」


「設計士だからな。構造は読める」


 黒瀬は足を止めた。コンビニの前だった。ガラスに自分の顔が映っている。目の下に隈ができていた。


「……恒一郎って男の写真、見たか」


「ああ」


「迷いのない目をしてた」


「お前も昔はそうだったろ」


「昔の話だ」


 透が黒瀬の横に並んだ。


「断ったんだ。もう忘れろ。次の依頼を探す方が先だ」


「ああ」


 黒瀬はうなずいた。


 だが、胸の中で白河の言葉が残響のように鳴っていた。


 君の呪いを喰える者を紹介する。


 嘘かもしれない。だが本当なら——本当なら、この終わりのない飢えから、解放される。


 喰っても喰っても足りない空洞。半年前は週に二件で済んでいた。今は七件でも底が見えない。このまま加速していけば、供給が追いつかなくなる日が来る。


 その日が来たとき、自分はどうなる。


 死ぬ。


 それだけだ。


 別に死んでもいいのではないか——と、心の中でもう一人の自分が囁く。


 こんな厄介な呪いを背負って、生きていても仕方がないだろう。


 だが反面、そうはいかないという思いも首をもたげる。


 あのとき。植え付けに失敗して、全てを失った。妻も、子供も。あの失敗を精算しないまま死ぬのは——。


「おい。歩けよ」


 透の声で、黒瀬は我に返った。


「考え事は事務所に戻ってからにしろ。こんなところで突っ立ってると、呪われるぞ」


「もう呪われてる」


「自分で言うな。縁起が悪い」


 黒瀬は少しだけ笑った。


 二人は駅へ向かって歩いた。夕暮れの街は騒がしくて、呪いのことなど誰も知らない。信号が変わり、人が流れ、どこかで子供が泣いている。


 普通の世界だ。


 黒瀬が二度と戻れない場所。



     *



 応接室に一人残った白河は、ネクタイピンをポケットにしまった。


 もう呪具ではない。ただの装飾品だ。だが三十年の習慣で、外す気にはならなかった。


 電話をかける。


「……断られた。想定通りだ」


『では、第二段階に移りますか』


「ああ。餌場を潰せ」


『紹介ルートの遮断ですね。黒瀬への依頼を仲介している人物は三人。いずれも立花グループの取引先に関係がある。圧力をかければ——』


「圧力という言葉は使うな。正当な取引判断として、仲介者との関係を見直す。それだけだ」


『承知しました』


「合法的に、静かに、確実にやれ。奴が飢えるまで、そう長くはかからない」


 白河は通話を切った。


 窓の外、東京の空が赤く染まっている。


 呪いとは、行動を縛る条件文。黒瀬の条件文は明確だ。喰わなければ死ぬ。ならば、喰えなくすればいい。


 あとは時間の問題だ。


 白河は三十年かけて、待つことを覚えた。


 もう少しだけ、待てばいい。

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