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4、テスト

 高層ビルの三十二階。ガラス張りの応接室に通されたとき、黒瀬は最初に窓の外を見た。


 東京が足元に広がっている。ビルの谷間に走る首都高、点滅する航空障害灯、灰色の空に溶けかけたスカイツリー。地上から見上げれば壮観だろうが、ここから見下ろすと、街は模型みたいに平たかった。


「呪いをかける側の景色だな」


 黒瀬は呟いた。透が横目で見たが、何も言わなかった。


 午後三時。約束の時間ちょうどに、ドアが開いた。


 白河伊知郎は、思っていたより小柄だった。五十代半ば。銀縁の眼鏡、仕立ての良いスーツ、磨かれた靴。声も姿勢も穏やかで、どこにでもいる企業の幹部に見える。


 だが目だけが違った。


 笑っているのに、温度がない。計算だけで動く目だ。


「よく来てくれた。黒瀬君、三門君」


「名前を知ってるのか」


「調べさせてもらった。失礼だったかな」


 白河はソファに座り、テーブルの上にネクタイピンを置いた。


 銀色の、何の変哲もないネクタイピン。だが黒瀬の目には、その表面にうっすらと符の残滓が見えた。古い。三十年以上前のものだ。


「これが、あんたの呪具か」


「入社した日に会長——立花源三郎から手ずから渡されたものだ。宣誓式でね。『創業家への忠誠を誓う』と口にした瞬間、このピンが温かくなった。以来三十年、外したことがない」


「外せなかった、の間違いだろう」


 白河は少し笑った。否定しなかった。


「創業家に逆らおうとすると、体が動かなくなる。思考が鈍る。声が出なくなる。三十年間、一度も——一度もだよ——会長に反論できなかった。意見を述べることすら許されない。それが呪いだと気づいたのは、十年前だ」


「十年も気づかなかったのか」


「気づかないのが、呪いの本質だろう。かかっている間は、それが自分の意思だと思い込む」


 黒瀬は白河の目を見た。


 嘘ではない。少なくとも、呪いがかかっているという部分は本当だ。ネクタイピンから漂う符の気配は本物で、しかも相当に重い。第二層クラスの楔が打ち込まれている。


「透」


 透がノートを開いた。ペンを置く。紙に触れた瞬間、ペン先が走り出す。


 五秒。十秒。二十秒。


 透の眉が寄った。


「……深いな。第二層の中でも、かなり奥だ。信念層の根元に楔が打ってある。しかも符が二重になっている。外側は『忠誠』、内側は『服従』。別々の条件文だ」


「解ける?」


「お前なら。ただ、怨霊がいる。源三郎の影——というより、源三郎の権威そのものが番人になっている。大きいぞ」


「大きいだけか」


「大きいだけだ」


「なら問題ない」


 黒瀬はネクタイピンを手に取った。


 指先に、三十年分の重みが伝わる。忠誠と服従。この男は三十年間、これに縛られて生きてきた。優秀だったから出世した。だが、どれだけ出世しても、創業家には逆らえなかった。声を上げることすらできなかった。


 それは確かに、呪いだ。


「目を閉じてください」


 黒瀬は白河に言った。初めて敬語を使っていた。依頼者に対する職業的な礼儀だ。


 白河が目を閉じる。


 黒瀬も目を閉じた。


 息を一つ吸って、吐く。


 世界の表面が、剥がれた。



     *



 白河の内界第二層は、会議室だった。


 だが普通の会議室ではない。天井が異常に高い。十メートル、二十メートル——見上げても終わりが見えない。壁は全面が磨かれた黒御影石で、蛍光灯の光が冷たく反射している。


 長いテーブルが一本。椅子は一脚しかない。テーブルの上座に、巨大な革張りの椅子が置かれている。


 誰も座っていない。だが、椅子そのものが存在感を放っていた。


 三十年間、その椅子の前で頭を下げ続けた男の信念が、この空間を作っている。


「権威の具現化か」


 壁の一面に、金色の文字が浮いている。


 ――逆らうな

 ――お前は家臣だ

 ――血筋には勝てない

 ――逆らうな


 黒瀬は廊下を進んだ。足音が石の壁に反響する。


 テーブルの中ほどまで来たとき、空気が変わった。


 革張りの椅子の背後から、影が立ち上がった。


 巨大だった。


 天井に届くほどの黒い影。人の形をしているが、顔はない。代わりに、胸のあたりに家紋が光っている。立花家の紋章。それが目のように黒瀬を見下ろしていた。


 怨霊——源三郎の権威そのもの。


 影が腕を振り下ろした。会議室のテーブルが砕け、石の破片が飛び散る。衝撃波が黒瀬の体を押す。


 大きい。透の言った通りだ。


 だが——。


「大きいだけだ」


 黒瀬は踏み込んだ。


 権威の怨霊は、その性質上、正面からの反抗に弱い。三十年間、誰も逆らわなかったから巨大に育った。だが「逆らわれる」という経験がない。免疫がない。


 黒瀬は影の足元に滑り込み、印を描いた。


 その手で、影の脛に触れる。


 影が悲鳴を上げた。金属を引っ掻いたような、耳障りな音。巨体が揺らぎ、膝が折れる。


 黒瀬はその隙に、影の胸——家紋のある場所へ手を突っ込んだ。


 冷たい。氷の塊を掴んだような冷たさ。だがその奥に、楔が二本、交差するように打ち込まれていた。


 外側の楔に符が貼りついている。「忠誠」の条件文。


 その下に、もう一本。「服従」。


 二重か。面倒だが、やることは同じだ。


 黒瀬は外側の楔を掴み、引き抜いた。符が剥がれ、白い灰になって散る。


 影が暴れる。腕が黒瀬の背中を叩く。衝撃で息が詰まる。肋骨に鈍い痛みが走った。


「っ——」


 構わず、二本目を掴む。


 こちらの方が深い。三十年かけて根を張っている。引き抜くのに力がいる。


 黒瀬は歯を食いしばり、楔を引いた。


 ずるり、と抜ける。


 符が剥がれた瞬間、影が霧散した。白い霧が会議室を満たす。


 黒瀬はそれを吸い込んだ。


 三十年分の忠誠と服従。


 味は——意外にも、苦くなかった。古い茶のような、枯れた味がした。長い間、同じ場所に閉じ込められていたものの味だ。


 胃の底に落ちる。空洞が、少しだけ埋まる。


『出口は正面。急げ、崩れるぞ』


 透の声が響く。


 天井が落ち始めていた。黒御影石の壁にひびが入り、金色の文字が崩れて床に散る。


 黒瀬は走った。


 正面に、安っぽい木の扉。


 飛び込む。白い光。



     *



 目を開けると、応接室だった。


 白河がゆっくりと目を開ける。


 その瞬間、白河の表情が変わった。


 微妙な変化だ。筋肉の動き方が違う。三十年間、無意識に抑え込まれていた表情筋が、初めて自由に動いている。


 白河は自分の手を見た。握り、開き、また握る。


「……動く」


 低い声だった。


「三十年ぶりだ。自分の意思で——自分の意思だけで——手が動く」


 白河は黒瀬を見た。


「素晴らしい」


 その声には、確かに感動があった。だが黒瀬は気づいていた。白河の目の奥にある計算は、呪いが解ける前と何も変わっていない。


 忠誠と服従が消えても、この男の冷たさは呪いのせいではなかったのだ。


「テストは合格だ」


 白河がネクタイピンを手に取った。もう呪具ではない。ただの銀色の金属だ。


「約束通り、金は渡した。そして——本題を話そう」


 黒瀬の腹の底で、さっき喰った呪いの余韻がまだ温かかった。


 だが、その温かさとは別の場所で、嫌な予感が冷えていく。


「聞くだけだ。受けるとは言ってない」


「もちろん」


 白河は微笑んだ。温度のない、計算だけの微笑みだった。

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