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3、失いたくない未来

 立花恒一郎(たちばなこういちろう)は、幽霊を信じない。


 占いも、風水も、厄年も信じない。神社には初詣に行くが、それは紗月(さつき)が行きたがるからだ。賽銭を投げるのは習慣であって、信仰ではない。


 世界は物理法則と経済原理で動いている。それ以外のものに頼るのは、思考の放棄だと思っている。


 だから今朝、祖父の秘書から「お祓いを受けてほしい」と言われたとき、恒一郎は丁寧に、しかし明確に断った。


「必要ありません。体調も良好ですし、来期の事業計画の最終調整で忙しいので」


 秘書は困った顔をしていたが、引き下がった。祖父の指示だったのだろう。立花源三郎は合理的な経営者だが、こと血筋と縁起に関してだけは古い人間だった。


 社長交代の正式発表は、来月の株主総会。


 恒一郎はその準備に追われていた。



     *



 午後七時。恒一郎は予定より一時間遅れて帰宅した。


 玄関を開けると、味噌汁の匂いがした。昆布と豆腐の、飾り気のない味噌汁。紗月が「これが一番落ち着く」と言って、週に四日は作る。


「遅くなった」

「おかえり。ごはん、すぐ出せるよ」


 紗月はキッチンに立っていた。エプロンの上から膨らんだ腹が見える。八ヶ月。もう相当大きい。


「座ってろ。俺が運ぶ」

「まだ動けるって。あと二ヶ月は大丈夫」

「医者がそう言ったのか」

「私がそう言ってるの」


 恒一郎は苦笑して、紗月の手から鍋を受け取った。


 リビングのテーブルに食事を並べながら、恒一郎はちらりとリビングの隅を見た。


 組み立て途中のベビーベッドが置いてある。


 無垢材のベッド。二人で選んだ。週末ごとに少しずつ組み立てるつもりだったが、恒一郎の帰りが遅い日が続いて、まだ片側の柵が仮止めのままだ。


「今週末こそ仕上げるから」

「急がなくていいよ。最後の仕上げは、仕事が片付いたら一緒にやろう」


 紗月は笑った。


 恒一郎はその笑顔を見るたびに、自分が正しい場所にいると感じる。祖父の会社を継ぐことに迷いはない。だが、それは義務ではなく、この食卓を守るための手段だ。


 会社が安定すれば、この子が生まれてくる世界も安定する。そう信じている。


「今日、おじいちゃんの秘書さんからお祓いの話があったんでしょ」


「聞いたのか」


「松田さんから、紗月さんからも説得してくださいって電話が来た」


「断った」


「知ってる。恒一郎らしいなって思った」


 紗月は味噌汁を一口飲んでから、少しだけ真面目な顔になった。


「でもね、おじいちゃんの気持ちもわかるよ。大事な孫に社長を継がせるんだもの。縁起を担ぎたくなる」


「縁起で経営はできない」


「わかってる。でも、縁起って、祈りでしょ。あなたの無事を祈ってるんだよ」


 恒一郎は箸を止めた。


 祈り。


 その言葉だけは、否定する気になれなかった。


「……考えておく」


「無理しなくていいよ。あなたが決めて」


 紗月はそう言って、また笑った。


 食事を終えて風呂に入り、寝室に戻ると、紗月はもう眠っていた。横向きに丸くなって、腹を抱えるような姿勢。寝息は穏やかだった。


 恒一郎はベッドの端に座り、しばらくその寝顔を見ていた。


 この人を守る。この子を守る。そのために会社を継ぐ。


 単純な論理だ。だが、単純であることが、恒一郎には信仰に一番近いものだった。



     *



 同じ頃。


 都心の高層ビル。白河伊知郎は机に座り、資料に目を通していた。


 立花グループに三十年。営業、開発、財務、法務——どの部門も一度は自分の手で回した。源三郎が表で握手をしている間、裏で数字を整え、人を動かし、敵を潰してきたのは白河だ。


 だが、後継者は血筋で決まった。


 恒一郎は優秀だ。それは認める。ロンドンでMBAを取り、ホテル事業を三年で黒字化した。社内評価は高い。だが、優秀なだけでは会社は守れない。血を流す覚悟があるかどうか。白河は三十年かけてそれを証明してきた。恒一郎にはまだ、その覚悟がない。


 少なくとも、白河はそう判断した。


 電話が鳴った。部下からだ。


『黒瀬阿彌について、追加の調査結果が出ました』


「聞こう」


『五年前まで、業界では"呪植"の第一人者として知られていました。呪いの植え付け——人の内界に楔を打ち込み、行動を縛る仕事です。かなり腕が良かったと。しかし敵対グループとの抗争に敗れ、"人の呪いを喰わなければ死ぬ"呪いをかけられた。以来、解呪の仕事に鞍替えしています』


「解呪しか、できなくなったわけではないな?」


『技術的には、植え付けも可能なはずです。ただ、本人が拒んでいる。過去に何かあったようですが、詳細は掴めていません』


「構わない。まず私の呪いを解かせて力を確かめる。それから本題だ」


 白河は古いネクタイピンを指で弾いた。立花グループに入社した日、源三郎の前で宣誓させられた。創業家への絶対の忠誠。それは精神論ではなく、文字通りの呪いだった。三十年間、白河はこの楔に縛られてきた。


 逆らえない。逆らおうとすると、体が動かなくなる。思考が鈍る。声が出なくなる。


 だが今、その楔を外せる人間が見つかった。


『それと、黒瀬の弱点ですが——餌場です。解呪の依頼者が彼の食事源になっている。その紹介ルートを押さえれば、兵糧攻めができます』


「急ぐな。まずはテストだ。餌場を潰すのは、断られてからでいい」


 白河は通話を切り、窓の外を見た。


 東京の夜景が広がっている。その中のどこかに、未完成のベビーベッドがある家がある。


 白河にとって、恒一郎は敵ではない。障害物だ。排除すべき条件のひとつにすぎない。


 呪いとは、行動を縛る条件文。


 白河自身がそれを一番よく知っている。三十年間、縛られてきたのだから。



     *



 深夜。


 黒瀬は事務所の床に寝転がっていた。


 眠れない。腹が減っている。いつもの空腹とは違う。胸の内側の空洞が、今夜は特にひどく疼く。


 天井の染みが、呪いの階層に見えた。


 目を閉じると、女の笑い声がする。


 名前を呼ばれた気がする。でも、もう声の質感がわからない。丸く膨らんだ腹に手を当てたとき、彼女が何と言ったか。それすら思い出せなくなっている。


 長く飢えると、記憶が削れる。あのとき——抗争に敗れて、ひどく飢えた。喰うものがなかった。そして、大事なものから順に失っていった。


 呪いを喰える者がいる、と白河は言った。


 嘘かもしれない。十中八九、嘘だろう。


 だがテストは解呪だ。解呪なら、いつもと同じだ。相手の呪いを解いて、喰う。それだけだ。


 本題が何であれ、気に入らなければ断ればいい。


 ……そう自分に言い聞かせていることに、黒瀬は気づいていた。


「会うだけだ」


 誰に言い訳しているのか、自分でもわからなかった。


 明後日。午後三時。


 黒瀬阿彌は、かつて「呪植」と呼ばれた過去に、一歩だけ近づいた。


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