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1、呪いを喰う男

人の呪いを喰わなければ死ぬ黒瀬阿弥のもとに、ある日「次期社長の継承を止めてほしい」という裏依頼が届く。

 ドアノブに触れた瞬間、青年はその場に膝をついて吐いた。


 安アパートの二階廊下に、胃液の酸っぱい匂いが広がる。昨夜の雨がまだ乾ききっていないのか、コンクリートはじっとり黒く濡れ、鉄の手すりには細かい水滴が残っていた。


 黒瀬阿彌(くろせあや)は一歩だけ身を引き、吐瀉物を避けてしゃがみ込んだ。

 今週七人目の依頼者だ。腹の底の穴が、もう少しで我慢できなくなる。


「毎回か」

 青年は喉を押さえ、青い顔でうなずく。

「家を出ようとすると……ここで急に、息が、できなくなって……」


 黒瀬は青年の右手を見た。擦り切れた布のキーホルダーが握られている。色は抜け、毛羽立ち、金具の根元だけ妙につやがあった。何度も触られてきた物の光り方だ。


「それ、寄越せ」


 青年は戸惑いながらも差し出した。


 隣で三門透がノートを開く。白紙のはずのページに、ペン先が勝手に走った。


「第二層。鍵はそのキーホルダー。玄関で噛みつく型だな」


 黒瀬はキーホルダーをつまんだ瞬間、指先の奥が冷えた。冬の金属みたいな冷たさじゃない。濡れた指で首筋をなぞられたような、生き物めいた冷え方だった。


「呪いにはだいたい三種類ある」

 黒瀬は言った。

「物に引っかかるやつ。場所に染みるやつ。人の中で育つやつ。これは最初の二つの中間だ。これを持って玄関に来ると、喉を締める」

「じゃあ、どうすれば……」

「順番を間違えると悪化する。お前は触るな。目を閉じてろ」


 青年が慌てて目を閉じる。


 黒瀬も目を閉じた。


 息を一つ吸って、吐く。


 それだけで、世界の表面が剥がれた。



     *



 最初に匂いが来た。


 黴と、濡れた木と、長く閉め切った押し入れの奥の臭い。


 目を開けると、そこは玄関に似ていた。似ているだけで、まるで違う場所だった。


 人がふたり並ぶのがやっとの幅の黒壁の通路が奥まで伸びている。壁一面には白い手書き文字が浮いていた。


 ――お前は無価値だ

 ――また失敗する

 ――誰も待っていない

 ――外に出るな


「趣味が悪いな」


 呪いは、本人の恐怖や執着を空間に変える。浅い階層なら皮膚だ。深い階層なら骨になる。これは第二層——信念の回廊。まだ浅いが、人を止めるには十分すぎる。


 ぬるり、と壁の一部がふくらんだ。


 そこから這い出してきたのは、人の形をした何かだった。背丈は大人の男ほどあるのに、体は薄い。濡れた紙を人型に切ったみたいに平たい。腕だけが異様に長く、顔には目も鼻もない。


 口だけがあった。


 横に裂けた黒い穴の中に、歯の代わりに白い文字がぎっしり並んでいる。


 ――でるな

 ――むだだ

 ――まただ


 怨霊だ。青年を罵倒し続けた父親の影が、ここでは呪いの番人になっている。


 すきま風のような声を漏らして、化け物が腕を伸ばしてきた。


 速い。


 だが直線的だった。


 黒瀬は半歩だけ体をずらす。指先が頬の横をかすめ、ぬるい空気がまとわりつく。あれに触れられたら、たぶん喉へ同じ呪いが移る。


「止めることしかできない呪いは、だいたい単純だ」


 黒瀬は二撃目に合わせて踏み込んだ。


 細長い腕が鞭のようにしなる。その懐へ、自分から入る。素早く印を描き、その手で怨霊に触れた。


 怨霊が霧散する。白い霧になって崩れていく。


 黒瀬はそれを吸い込んだ。


 鉄と黴と血の味がした。


 ひどい味だ。毎回違うのに、毎回きっちりまずい。


 けれど胃の底に落ちると、胸の内側の空洞がほんの少しだけ埋まった。


 黒瀬阿彌は、人の呪いを喰わないと死ぬ。


 昔、敵対するグループとの抗争に敗れて、そういう呪いをかけられた。治らない。先送りにできるだけだ。他人の呪いを喰うたびに、死ぬ日が少し遠のく。


 人助けの顔をした、延命だ。


「……まずいな」


 霧を吸い込み終わると、通路の先に明かりが灯った。近づくと、小さな台座が現れる。その上に、黒い楔が一本、深く打ち込まれている。符が貼りついていた。


 固定具だ。


 二層より下の呪いは、怨霊を喰うだけでは消えない。どこかに空間を留める楔がある。それを抜かなければ、また形を変えて戻ってくる。


 黒瀬は台座の前に立ち、楔を握った。


 表面は濡れているのに、触れると乾いている。木にも骨にも見える、ひどく目に悪い質感だった。


「透。出口」

『その先を右だ。急げ! 取り込まれるぞ!』


「ちっ、いつも遅いんだよ」


 黒瀬は楔を引き抜いた。符が剥がれ落ちる。


 瞬間、世界が悲鳴を上げた。


 壁一面の文字が崩れ、白い虫の群れみたいに床を走る。天井の染みから黒い液が垂れ、床板の隙間から細い指が何本も突き出した。通路の奥から黒い闇が迫ってくる。


 階層が閉じる前に、逃げなければならない。


 黒瀬は走った。


 湿った床が波打つ。背後で、骨の少ない生き物が這うような音がした。速い。追ってくる。


 角を右に曲がると、ぽつんと古い木の扉が立っていた。


 そこだけ妙に安っぽい、現実の建具だ。


 黒瀬は体当たりするように飛び込み、白い光の中へ落ちた。



     *



 目を開けると、青年の部屋の前だった。


 胸が熱くなり、胃の底に異物が落ちる感覚。呪いを喰った。


 掌の中のキーホルダーは、ただの古びた布に戻っている。


「終わった……んですか」

 青年が恐る恐る聞く。

「たぶんな」

「たぶんって」

「絶対なんて言葉を信用するな」


 黒瀬はキーホルダーを返した。


「今日はドアに触るだけでいい。無理して外に出なくていい」

 青年は震える手でドアノブに触れた。


 吐かない。

 喉も詰まらない。


「出られる……気がします」

 青年の目が潤む。

「ありがとうございます……本当に……」


 黒瀬は微笑まない。救われる顔を見るたび胸は軽くなるが、同時に「喰った。生き延びた」という事実が残る。喉の渇きが一瞬だけ癒え、またすぐ空腹が戻る。


 青年が去った後、透がノートを閉じた。


「今週何体だ?」

「七」

「食いすぎだな。胃がもたれるぞ」


 黒瀬は答えない。


 透の電話が鳴った。少し離れた場所で出る。


「ああ、今帰る。……なぁに、パチンコだよいつもの。夕飯は作ってある。勉強しろよ」


 短い会話。透が戻ってくると、黒瀬が聞いた。


「慧海は元気か」

「ああ。もう高校生だ」

「仕事のこと、話してないのか」

「言うわけない。わかるだろ」


 黒瀬はうなずく。透の妻・花菜——慧海の母——は、過去の抗争で死んだ。それ以来、透は普通の仕事をしていると偽りながら娘を育ててきた。黒瀬はそれを知っている。


「余計なお世話だと思うが、何も知らないままの方が厄介なことになると思うぞ」

「あいつには、この仕事のことを知ってほしくないんだよ。何度言わせる」

「何度でも言うが、もう辞めた方がいいんじゃないか。なぜやってる」


 透は言葉を濁した。


「金か」


「そうだよ。大学に行かせてやりたいんだ。それに……俺が辞めたらお前が困るだろ」


「ふん……家族は、大事にしろよ」


「わかってるよ」


 解呪(かいじゅ)は救いだ。


 同時に、食事でもある。


 ずいぶん品のない生き方だと、自分でも思う。



     *



 帰り道、黒瀬はベビー用品店の前で足を止めた。


 ガラスの向こうに並ぶ木製のベビーベッド。その中の一つだけ、片側の柵がまだ仮止めのままだった。


 未完成のベッド。未来の入れ物。


 彼には縁のない場所だとわかっているのに、視線が離れない。胸がちくりと痛む。


 その瞬間、頭の奥で女の笑い声がした。


 春の匂い。

 白い光。

 丸く膨らんだ腹に触れた、自分の手。


 フラッシュバックは一瞬で消えた。


 かつて家族を失った。妊娠中の妻と、生まれてくるはずだった子供を。呪いの植え付けに失敗したせいで、全てを失った。


 スマホが鳴る。非通知だった。


「誰だ」

『黒瀬阿彌くんかな』


 低い男の声がする。


『君は呪いを解くそうだね』

「依頼なら紹介を通せ」

『紹介ならある。単刀直入に言おう——まず私にかかった呪いを解いてほしい。テストだと思ってくれていい』


「……テスト?」


『君の噂は聞いている。だが噂だけでは信用できない。私の呪いを解けたなら、本題を話そう。報酬は悪くない——前払いの金を用意する。それと、もうひとつ』


「もうひとつ」


『君の呪いを喰える者を知っている』


 黒瀬の指が止まった。


 透が息を呑む気配が、隣から伝わった。


「……バカ言え。俺の他に呪喰がいるわけがない」


『どんな世界にも、競合はある』


 黒瀬は無言のまま通話を切った。


 夕方の街は普通に動いていた。子どもが笑い、信号が変わり、買い物袋を下げた人たちが家へ帰っていく。


 その全部から、自分だけ少し離れた場所にいる気がした。


 胸の空洞が疼く。半年前なら週に二件で足りていた飢えが、今は七件喰ってもまだ底が見えない。


 呪いが、進行している。


「最悪だな」


 吐き捨てた声は、自分で思ったより乾いていた。


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