5 屋敷への帰宅
撤退、と叫んだのはアランだった。
だが撤退という言葉ほどこの世界で信用できないものはない。
なぜなら、撤退は「追撃される」フラグだからだ。
現に。
「待てえええええ!!」と言いたいのだろう。
背後で勇者が声にならない声を振り絞っていた。
口はパクパクと動いているのに音が出ない。
それでも追ってくる執念だけは、馬より速い。
アランは肩越しに見て、ぞっとした。
「……あいつ、音がなくても怖いな」
「筋肉は裏切らないから」
「評価軸が筋肉に寄ってる!」
アルシェはどこか上機嫌のまま、アランの腕を軽く握っている。
握っているというか、捕まえているに近い。
でも痛くない。
痛くないから余計に逃げにくい。
「おい、離せ。手、離せ」
「だめ」
「なんでだ」
「迷子になる」
「誰が」
「あなた」
「俺のせい!?!」
アルシェは真顔で頷いた。
「あなた、顔がいいから」
「その理由で道に迷うな!!」
アランが早足になると、アルシェの歩幅も自然に合う。
これが竜の適応力か。
それとも単にアランが引っ張られてるのか。
考えるのをやめた。
角を曲がり、裏路地に入る。
人混みが薄くなる。
ようやく呼吸が戻りかけた、その瞬間。
鼻腔を突く匂いがした。
甘い。
濃い。
花と油と酒と汗が混ざったような、人の街の匂い。
「……っ」
アランは思わず口元を押さえた。
「どうしたの?」
「匂いが……きつい」
アルシェがぱちんと瞬きをした。
「正常」
「それ、おまえの口癖だな」
「半竜になったんでしょ?」
「なったけど、こんな急に来る!?」
「来る」
アルシェはあっさり言う。
「あなた、鼻がいい」
「前から?」
「前から良い。でも今は“良すぎる”」
「最悪の強化だな……」
アランが壁にもたれると、アルシェが少しだけ身を乗り出した。
「気持ち悪い?」
「いや……気持ち悪いっていうか……世界が情報過多」
「情報過多」
アルシェはその言葉を繰り返し、なぜか納得したように頷いた。
「じゃあ、薄める」
「薄める?」
次の瞬間、空気がすっと軽くなった。
匂いが遠のく。
音が一段落ちる。
街の喧騒が「窓越し」みたいになる。
「……なにした」
「世界のボリューム、下げた」
「軽率に!?」
「さっきは書いてない」
「そこじゃなくて!」
アランが頭を抱えるとアルシェは真面目に言った。
「大丈夫。あなたのため」
その言葉だけ、変に優しかった。
優しいのに手段が竜。
「……ありがとう、って言ったら負けな気がする」
「言わなくていい」
「言わなくていいのかよ」
「顔で見るなって言ったでしょ」
「……そういうところは覚えるんだな」
「覚える」
アルシェは少しだけ口角を上げた。
「あなたが言ったことは、優先度が高い」
アランは言葉に詰まり、視線を逸らした。
照れてると思われたくない。
思われたくないが、思われても否定できないのが腹立つ。
「……帰るぞ」
「うん」
アルシェが指先を軽く弾く。
次の瞬間、路地の先が歪んだ。
風景が布みたいにめくれる。
そこに屋敷の回廊が現れる。
「おい」
「なに?」
「今の、何」
「近道」
「近道ってそういう概念じゃないだろ!!」
アルシェは悪びれずに言った。
「だって、あなたの胃が心配」
「胃を気遣う竜、初めて見た」
「妖精に分ける?」
「……分けなくていい」
アランは半ば引きずられるように屋敷へ戻った。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




