表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

駅までの五分が好きになる

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/12

 冬の朝は、音が先に目を覚ます。

 給湯器が湯をつくる低い唸り、冷蔵庫の微かな振動、隣の部屋から聞こえる足音。目を開けるより前に、世界が「今日」を始めてしまう。


 枕元のスマートフォンが、淡い光を漏らしていた。通知の数字が小さく点っている。見なくても、何の通知かはわかる。仕事の連絡だ。昨夜のうちに片づけられなかったものが、朝になってもまだそこにある。むしろ、朝になって形を変えて追いかけてくる。


 私は布団の中で一度、息を止めた。

 止めると、静かになる。静かになると、怖くなる。だから息を吐いた。白くはならないはずの室内で、息が白くなればいいのに、とくだらないことを思う。白くなれば、怖さも目に見えるのに。


 起き上がる。

 カーテンの隙間から、薄い光が差している。冬の光は、やさしい顔をしているくせに、温度がない。頬に触れる空気が冷たい。床が冷たい。指先が冷たい。冷たさが、今日の現実を確かめさせる。


 洗面台の鏡の前で顔を見た。

 目の下が少し暗い。口角が落ちている。自分の顔を見て「大丈夫」と言えない朝が増えた。以前は、疲れていても、どこかで「まだやれる」と思えた。最近は、その「まだ」が薄い。


 将来のことを考えると、心が少し早足になる。

 今の仕事を続けて、何年先に何が残るのか。貯金は増えるのか。体力は持つのか。もし転職したら、何ができるのか。何ができないのか。考え始めると、答えが出ないまま時間だけが増えていく。


 コートを着て、マフラーを巻き、玄関を出る。

 外気が刺さる。息が白い。白い息は、私の中の焦りをそのまま形にして見せる。私はそれが嫌で、いつも息を浅くする。浅くすると、余計に苦しくなるのに。


 駅まで五分。

 たった五分。けれど今の私には、その五分が毎朝の試験みたいだった。出遅れないこと。転ばないこと。電車に間に合うこと。今日を始めること。ちゃんとした顔をつくること。


 角を曲がり、細い道に入る。

 この道は、冬になると霜が残る。日陰の部分が白っぽく光り、踏んだときに靴底がわずかに滑る。私は無意識に歩幅を小さくし、目線を落としたまま進む。上を見る余裕がない。五分の間くらい、考えないでいたい。


 踏切の手前で、ほうきの音が聞こえた。


 シャッ、シャッ、と一定のリズム。

 落ち葉を集める音。砂を掃く音。ゴミをひとまとめにする音。朝の雑音の中で、その音だけが不思議と柔らかい。


 公園の入口のあたりに、清掃員の人がいる。蛍光色のベスト。帽子。手袋。ほうき。毎朝、同じ時間、同じ場所。私は顔をよく見たことがない。見ないようにしていた、と言ったほうが正しい。誰かと目が合うのが怖い朝がある。自分がちゃんと立っていないことを、他人に見られたくない。


 私はその人の横を、少し距離を取って通り過ぎる。

 挨拶なんてできない。声を出すと、声の震えで自分の状態がバレる気がする。


 踏切の音が鳴る。遮断機が下り、私は立ち止まった。電車が通り過ぎるまでの数十秒。時間が止まる。止まると、考える。考えると、重くなる。私はポケットの中のカイロを握った。熱い。熱いのに、まだ足りない。


 遮断機が上がり、私はまた歩き出す。

 駅が近づく。改札。ホーム。電車。今日。

 その順番を頭の中でなぞるだけで、胸が少し締まる。


 その朝は、いつもと少し違った。

 霜が、いつもより濃かったのだ。


 公園の前の道が、白く薄い膜を張っている。見た目は綺麗なのに、危ない。私は気づかず、いつものまま足を出した。靴底が、ほんの少し滑る。体が傾く。


 あ、と思った瞬間。


「滑るから、気ぃつけて」


 ほうきの音が止まり、短い声が飛んできた。

 驚いて顔を上げると、清掃員の人がこちらを見ている。目は鋭くない。怒っていない。たぶん、本当に「気をつけて」と言っただけだ。


 私はとっさに足を踏み直し、姿勢を立て直した。

 心臓が跳ねる。頬が熱くなる。恥ずかしい。転びそうな姿を見られたことも、声をかけられたことも、全部が恥ずかしい。


「……ありがとうございます」


 声が出た。

 ちゃんと出た。

 自分でも意外だった。


 清掃員の人は、ほんの少しだけ頷いた。

 それからまた、ほうきを動かし始める。シャッ、シャッ。何事もなかったみたいに。私の恥ずかしさだけが取り残される。でも、取り残された恥ずかしさは、妙に軽かった。


 私は駅へ向かいながら、さっきの一言を何度も思い出した。

 滑るから、気ぃつけて。

 たったそれだけなのに、胸の奥に小さな灯りが残った。


 その日、仕事は相変わらず重かった。

 会議で指摘され、資料を直し、メールに追われ、息を浅くして一日を終えた。将来のことを考える余裕はないはずなのに、帰り道になると勝手に考えが湧いてくる。今のままでいいのか、と。いいわけがない、と。じゃあどうする、と。


 答えは出ないまま、夜が終わる。


 翌朝、私は少しだけ早く家を出た。

 理由ははっきりしている。霜を避けたかったのもある。でも、それだけじゃない。公園の前で、あのほうきの音をもう一度聞きたかった。あの一言が、たまたまじゃないと確かめたかった。


 外はやっぱり寒い。息は白い。

 でも、昨日より少しだけ息が深い気がした。意識して深くしたのかもしれない。深くしないと、昨日の灯りが消えてしまう気がした。


 公園の前に近づくと、ほうきの音がした。

 同じリズム。同じ場所。清掃員の人も同じように掃いている。私は胸の前でマフラーの端を握り直した。挨拶なんて、無理だ。昨日は偶然だ。声をかけられたから返しただけだ。


 そう思ったのに、口が勝手に動いた。


「おはようございます」


 出てしまった。

 声は小さかった。でも、出た。


 清掃員の人はほうきを止めず、短く返した。


「おう。寒いな」


 それだけ。

 たったそれだけで、私は笑ってしまいそうになった。笑うと変だから、笑わない。でも、胸の奥がふわっとした。五分の道の途中に、会釈できる相手がいる。それだけで、道が少し柔らかくなる。


 その日から、私は朝の五分に、小さな習慣を入れるようになった。

 歩きながら、呼吸を数える。白い息を三回、深く吐く。ポケットのカイロを握って、掌の熱を確かめる。霜の白い部分を避けて、足元をちゃんと見る。上を見る余裕がないのではなく、危ないところを避けるために見る。そう考えると、目線を落としている自分を責めなくて済む。


 清掃員の人には、毎朝、挨拶をした。

 「おはようございます」

 相手は「おう」とか「おはよう」とか、日によって少し違う。言葉が変わると、生きている感じがする。機械の返信じゃない。生活の返事だ。


 たまに、短い言葉が増えた。


「今日は風つええぞ」

「手ぇ冷えるな」

「急ぐと滑る」


 どれも、役に立つことしか言わない。

 だから、私の心にも入りやすい。励ましの言葉は、受け取るのに体力がいる日がある。けれど「急ぐと滑る」は、ただの事実だ。事実は、受け取りやすい。受け取った結果、私は少しだけ丁寧に歩く。丁寧に歩くと、心も少し丁寧になる。


 そうして、駅までの五分が、少しずつ変わっていった。

 罰の時間じゃなくなった。

 今日に追い立てられる時間じゃなくなった。


 もちろん、仕事の重さは消えない。

 会議は続く。メールは来る。評価は揺れる。将来の不安は、夜にやってくる。


 でも、朝に五分だけ、整える時間がある。

 その五分で、私は「今の自分」を拾える。拾った自分を、駅まで連れていける。連れていけたら、今日が少しだけマシになる。


 ある朝、私は寝坊した。

 目覚ましを止めた記憶はあるのに、その先がない。気づいたら、時計がいつもより二十分進んでいる。背中に冷たい汗が走った。心臓が一気に速くなる。遅刻。上司の顔。今日の会議。すべてが頭の中で鳴り始める。


 私は慌てて身支度をし、玄関を飛び出した。

 息が白いのも構っていられない。足が地面を叩く。霜の白い部分も踏んでしまう。危ないとわかっているのに、止まれない。焦りは、身体を雑にする。


 公園の前で、ほうきの音が聞こえた。

 清掃員の人がいる。私は挨拶する余裕もなく、横を駆け抜けようとした。


「おい、急ぐと滑るぞ」


 声が飛んできた。

 昨日までと同じ短い言葉。

 でも、今朝の私には、なぜだか胸に刺さった。


 私はほんの一瞬、速度を落とした。

 たった一瞬。

 その一瞬で、足元の霜に気づき、踏む場所を選べた。転ばなかった。転ばなかっただけで、救われた気がした。転んでいたら、今日がもっとひどい一日になっていた。


「……すみません、ありがとうございます!」


 私は振り返らずに叫ぶように言った。

 声が大きかった。恥ずかしかった。でも、転ばなかった。それだけで、今朝は勝ちにしていいと思った。


 駅に着き、電車に乗り込む。

 息が切れている。胸が痛い。でも、転んでいない。

 私は吊り革につかまりながら、ふと笑ってしまった。笑ったら変だから、口元を押さえる。


 たった五分の道で、私は転びそうになって、転ばずに済んで、挨拶して、助けられている。

 そんなことで、今日が続く。


 その日の帰り道、私はふと、将来のことを考えた。

 将来の不安は、相変わらず曖昧で、大きい。

 でも、曖昧な大きさに飲み込まれる前に、五分の具体がある。霜を避ける。息を吐く。挨拶する。転ばないように歩く。


 未来はわからない。

 でも、明日の朝の五分は、だいたいわかる。


 次の日の朝、私はいつもの時間に家を出た。

 息は白い。手は冷たい。空は薄い青。

 公園の前で、ほうきの音がする。


「おはようございます」


 私が言うと、清掃員の人は、今日も短く返した。


「おう。今日、ええ天気やな」


 私は思わず空を見上げた。

 冬の青は薄い。薄いのに、ちゃんと青い。

 私はその青を見て、少しだけ息を深くした。


 駅までの五分が、好きになる。

 好きになる、なんて大げさな言い方かもしれない。

 でも、嫌いじゃない。むしろ、なくなると困る。私が私に戻るための、短い道だから。


 私は歩いた。

 ほうきの音を背中に聞きながら。

 白い息を丸くしながら。


 駅の入口が見えたとき、私は小さく思った。


 ――今日も、この五分があってよかった。


 そう思える朝が増えるだけで、私はたぶん、しばらく生きていける。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

朝が苦しくなるとき、私たちは「今日をうまくやる方法」より先に、「今日を始める気力」を失っていることがあります。大きな目標や立派な言葉は、その気力が残っている人のための道具で、残っていない朝には眩しすぎる。だからこの短編では、人生を変える出来事ではなく、霜を避ける一歩、ほうきの音、短い注意喚起、挨拶ひとつ――そういう“生活の小ささ”で朝が持ち直す瞬間を描きました。


清掃員は、主人公に答えを与える人ではありません。ただ事実を言う。「滑るから、気ぃつけて」。その事実が、主人公の呼吸を深くし、歩幅を整え、結果的に心まで整えていく。励ましよりも、地面に近い言葉が効く朝があると思うのです。


もしあなたにも、駅までの五分が重い日があるなら、五分の中に“整える動作”をひとつだけ入れてみてください。深呼吸でも、足元を見るでも、挨拶でも。

その小ささが、今日を今日のまま始める助けになるかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ