6話/紅の刃を託して(9/10)
9.
数日後の夜――。
実鈴の部屋。
花器が倒れて床に水が流れ、ニッコウキスゲの花びらがバラバラに散っていた。
その上にうつ伏せで倒れている鴇羽。
眠っているだけであり、命に別状はない。
しかし、ずっとうなされている。
「お、くがた様……。行かないで……。」
***
関緋は実鈴に呼び出されていた。
場所は城の天守の最上階。
しかし、行ってみても誰もいない。
「悪戯をするような歳ではなかろう……。
全く、この頃俺を苛立たせてばかりだ!」
その時、廻縁(まわりえん ※天守のベランダのようなもの)の方で、何か火のようなものが動くのが見えた。
関緋はすぐに廻縁に出る。
空中に化け物の姿に変化した実鈴が浮いていた。
朱色の肌に、すらっとした四肢、細い腰。
天女のような妖艶さと、卑しい者を近寄らせない天神のような威厳が漂う。
彼女は曙のように輝く長い髪を放射状に広げて浮遊していた。
夜空と満月を背景に、空中で横になっている。
崩した片足と腰に手を滑らせているのが艶っぽい。
「実鈴!!そこで何をしている?!」
実鈴は指をクイクイと動かして誘う。
「捕まえてごらんなさい。醜い、大きな赤ちゃん。
……その無駄に大きくて役立たずの体じゃ無理かしらね?」
「な、何だと?!
夫にそんな口の利き方をして、ただで済むと思うな!!」
彼女のものとは思えぬ棘のある言葉に、関緋は耳を疑う。
実鈴は上体を起こし、両腕を上げ、振り下ろした。
髪から無数の炎の矢が現れ、関緋に向かって降り注ぐ。
矢が針山のように刺さり、赤く燃え上がる城。
関緋は廻縁から飛び降りる。
落ちながら大鬼の化け物に変化した。
「実鈴、さっさと降りて来い!!
手を焼かすなら後で酷い目に遭わせるぞ!!」
着地した彼はワニのような口を大きく開けて吠える。
彼女は空から悠々と彼を見下ろす。
地面の死にかけの虫でも見るかのような目。
「惨めね……。散々偉そうな事を仰っておいて、飛んだ私に手も足も出ないなんて。」
実鈴は髪を大きく放射状に広げた。
その瞬間、青白かった空の月が真っ赤に変わる。
おまけに紺碧の空まで赤く染まり、小石サイズの隕石が雨のように降りだした。
関緋は地面を駆け回ってそれをどうにか避ける。
しかし雨をずっと避けるなど不可能。
何個か当たって背中や肩を火傷する。
彼は痺れを切らし、彼女を落とそうと石を投げつけた。
実鈴は最小限の動きでそれを避ける。
髪を揺らめかせた姿は、尾ひれをヒラヒラさせて泳ぐ金魚のように優雅だ。
実鈴はこの戦いを仕掛ける前に赤鐘に相談していた。
能力はあっても、戦略の事に疎い彼女が無策で挑むなど愚かな事。
赤鐘が元軍師だというので、知恵を授けて貰ったのだった。
勿論、戦う相手が誰なのかは言っていない。
『よいですか、奥方様。
貴女の強みは「空高く、長く飛べる」事。
貴女の得意な土俵、「空中」を下りない限り、地の利で優位に戦えます。
決して相手の誘いには乗らず、空中から離れないように気をつけてくださいね。』
戦いの最中、大志摩達が駆け付けた。
「決闘か?!関緋様がお受けになったなら、我々はもう手を出せぬ……!
関緋様が奥方様を生かしたまま倒すしかない。」
隣にいた若い家臣が大志摩に尋ねる。
「万が一、関緋様が負けたら……?
天下統一を掲げた大事な時です……!」
「前例は無いが、族長が女ではいけない決まりもない……。
それに、女という事にさえ納得できれば、奥方様のお人柄に反論する者はいないだろう。」
大志摩はもう関緋を庇うような事を言わない。
意外にも、家臣達もその意見に異議を唱えなかった。
孤立した関緋に対し、家臣達の士気は底を突きかけていたのだ。
力は絶対の鬼であっても、あまりにも理不尽が過ぎれば見捨てられる。
当然と言えば当然だ。
実鈴と関緋の攻防は続く。
実鈴は空中で一定の距離を保ちながら、一方的に小隕石と炎の矢を浴びせた。
関緋は火傷で皮膚が溶けるのに苦しみながら、彼女を引きずり下ろそうと手当たり次第岩や木を投げてもがく。
辺りは彼岸花が一斉に咲いたかのような真っ赤な業火に包まれていた。
地獄での夫婦喧嘩。
実鈴は心が安らいでいた。
自分を好きなようにして関緋に仕返し出来るからというよりも、純粋に鬼として戦いを楽しんでいた。
(風が気持ち良い……。
飛んで、妖術を放って戦うのが楽しい……。
今まであの方に耐えていたのが馬鹿みたいに思える……。
忘れていた。
私は母と妻である前に……鬼だった。
古来の鬼とは、孤高の存在。
自分の考えを持って、自分で戦い、己の命と信念を守る。
しかし、女鬼は希少な存在故に、自由を許されない……。
私は鬼の女として完璧に出産や育児などの役割を果たすように育てられた。
だから、本当に自分が何を好きで、本当に何をしたいかは二の次にしてきた。一族の為に……。
……でも唯一、泰寒様だけはそれを見抜いていた。
だから私を暗い穴蔵から連れ出して、私にしたい事をさせてくれた。
その時に、本当は私が体を動かす事、そして飛ぶ事が好きだという事を気付かせてくれた……。)
実鈴は宙を舞いながら、『彼』と片手を繋いだ。
炎の明かりで赤く染まった煙の中、彼女だけに見える『骨の手』。
懐かしそうに『彼』に微笑む。
関緋は恨めしそうに実鈴に罵声を浴びせた。
「『お前だけは傷付けてはならない』と手を上げずにおったものを!
そんな恩さえも仇で返すのか?!」
「伴侶を傷付けないのが『恩』?!
それが貴方の当たり前なのですね!
何処までも愚かで高慢!」
実鈴は大きな炎の槍を空から呼び寄せ、力の限り投げつけた。
関緋は槍を受け止め、投げ返す。
槍は彼女の髪を1/3程貫いて溶かした。
よろける実鈴。
「毎晩俺に組み伏せられて平伏し喘ぎ泣くだけの弱者がいい気になりおって!!」
「全部貴方に殺されない為に、ずっと大人しく言う通りにしていたのですよ!
そうでなければ、ずっとこうしてやりたかった!
前の夫の仇ですもの!!」
泰寒の話題が出て、関緋の怒りは最高潮に達した。
「まだそれを言うっ!!!
愛想が尽きたわ、この性悪女っっっ!!!」
「何でも言うわ!!この性悪男っっっ!!!」
「望み通り昔の男の元へ送ってやるわっ!!!!」
実鈴は表向きは罵声を浴びせているが、内心は彼に対し無に近い心境であった。
罵声は彼に本気を出させる為の演技だ。
(関緋様とは、もっと何か上手く関われたのではないかと思う事もある。
今は……。
出会った時、私が黙って笑顔で誤魔化していれば、無理矢理子供を作らされ、その後も怯えて過ごす事もなかったかもしれない。
今更後悔を言ってもどうしようもないけれど。
あの時の私はまだ、泰寒様の死を直ぐに受け入れられる程大人ではなかった。
思う事は他にもある。
関緋様が子供に手を上げないように、もっと上手く話し合いで更生出来なかったのか……?
あの方は子供の頃、親に愛されなかった。
だからその傷を理解して、あの方が大人になるのを促す事が出来ていたら……ここまで関係が壊れなかったのかもしれない。
そうすれば私との関係だけではなく、家臣と関緋様の関係だって悪化せずに済んだ。
私にも非はあったのかも知れない……。
だからこうして鬼らしく公平に戦って、最後の裁きを待っているのかもしれない。)
実鈴はよろけながら飛ぶ。
先ほど髪の毛が少し千切れたせいだ。
髪の毛から出る妖気が飛ぶ力になっているのだ。
たまに低空飛行になる所を、関緋が高くジャンプして捕らえようとする。
「関緋様。悔しくて憎いけど、貴方はやはりお強い……。
ならば天下統一、鬼の世を豊かにする為に奪ったのなら最後まで果たしてください……。
駄目にするなんて、許せませんから……!
朱華を滅ぼし、夫を殺した事よりも……!」
関緋は燃えていない無事な木を引っこ抜き、それを棒高跳びの棒のようにして跳んだ。
彼女の足を掴み、ようやく引きずり下ろす。
馬乗りになり、動けないように彼女を組み伏せる。
不思議な事に、実鈴は抵抗を止めていた。
悟ったような表情だった。
「観念したか……!
だが、これだけされて許してやる程俺も甘くはない!
ああ、そうだ。寝床で散々痛ぶってやる……!」
今の彼は徹底的に裏切られた悲しみの方が上回っていた。
両手の人差し指と親指で摘まむようにし、彼女の首を絞める。
彼女が手元に戻った安心感と不信感。愛と憎しみ。正反対の感情が入り混じる。
彼は首を絞めたまま高く掲げた。
巨人が人形を持っているような体格差。
関緋は舌を伸ばし、彼女の顔を舐めた。
目を閉じる実鈴。
愛していなくとも、何度もこうして彼の愛撫でを受け入れて来た。
運命を少しずつ受け入れ、女や母としての義務を果そうと大人になって、自分に嘘を吐いて適応しようとした。
関緋は彼女の腕を噛む。
血が出ない程度に、苛立った気持ちを噛んでぶつける。
(もう、終わりにしましょうか……。
自由になりたい……。
再び空へ……――。)
実鈴は目を見開いた。
彼の下顎に膝蹴り。
彼の意思に関係なく口が強く閉じられ、牙によって彼女の腕が切断された。
血飛沫を上げて跳ぶ腕。
関緋が驚いて指を首から放した瞬間、彼女は宙返りで空高く跳んだ。
残った腕を広げて、大の字で落下。
そして彼女の下には丁度、『関緋の角』――。
実鈴の胸に深く突き刺さる角。
彼岸花の花弁が散るように、鮮血が飛び散る。
関緋は血飛沫を浴びながら叫んだ。
「実鈴っっっ!!!!!」
関緋は急いで抜こうとするが、彼女は角にしがみ付いて拒んだ。
炎を発生させ、彼の助けを拒否する。
丁度肋骨の下の、骨がない場所から心臓に向かって、上手い事斜めに刺さっている。
「何をしている!早く抜かねば!
鬼といえど、心臓に刺されば血が巡らなくなり、自然に傷が塞がらなくなる!」
実鈴は子供達の事を思い出していた。
(勝てぬならせめて……。
子供達が成長して、もう私がいなくても生きていけると思えた時から、密かに死のうと考えていた。
元々、私が生き延びた理由は子供達を育てる為。
それが無ければ泰寒様の後を追った身。
でもあの子達が巣立てば……私はもう要らない……。
それどころか、私の存在があの子達を脅かす形になっている……。
私が子供達を愛せば愛す程、関緋様は子供を傷付ける……。
だからもう……。)
関緋は指が炎で溶けそうなのを堪え、角から彼女を引っこ抜いた。
腹と口の両方から血を大量に吐く実鈴。
「実鈴!早く俺の血を飲め!」
関緋は自分の手首を深く噛み、流れる血を彼女の口に流し込んだ。
大志摩達が決着が付いたと判断して、やっと駆け付けた。
大志摩と白妙は立ち尽くす。
関緋の与えた血は、彼女の口を溢れていた。
飲み込みで喉が動く事もなく、ただ肉の袋になった体内に流れるだけ。
大志摩が跪く。
「関緋様……、奥方様は……もう……――。」
***
同時刻、鴇羽は目覚めていた。
彼女は髪や喉を搔きむしり、言葉にならない音を口から漏らし、力なく嗚咽した。
***
意識が無くなる間際、実鈴はある光景を思い浮かべていた。
雪解けの季節を迎えた朱華の里。
峰から里の方に点々と見える春の木々。
泰寒は彼女を横抱きにしている。
『実鈴……眠いのか?』
実鈴は彼の頬を両手で包んだ。
『ええ、少し……。何だか安心してしまいましたので……。』
泰寒は目を細めて微笑んだ。
春の日差しのように、柔らかい笑み。
『そうか。ならば暫し眠るとよい。
目覚める時まで、俺がこうして抱いていてやる。』
青空と残雪の色は一つに重なり、ぼやけて、どれとも認識できない無地の色に変わった。
その先は、もう分からない。




