4話/枯れる揺り籠(3/12)
3.
元実は昔、母が父の相手をしているのを見たことがある。
機嫌の悪い父が子供に近づきそうになった時、母は彼を宥めて私室に向かった。
元実はこっそり母の後を付けて覗き見した。
顔を歪めて身じろぎする母の上に、父が覆い被さる。
幼い元実には母が父に食べられているように見え、悲鳴を上げそうになった。
『ハァ……。ゥッッッッ……!
良い子ですね。』
胸に抱き入れた父の頭を撫で、暗い顔で微笑む。
猫撫で声に混じって、時々苦痛で泣きたそうな声を漏らす。
激しく食い合うような動きを終え、父は静かになった。
父は怒りを忘れた穏やかな顔で眠るのに対し、母は虚しそうな表情で溜息を吐いていた。
震える自分の体を抱き締めて。
元実はそっと踵を返す。
幼子に細かな事は分からずとも、母の表情に心が痛んだ。
そして、大人というものに不信感と失望を抱く。
***
元実は関緋の一件の後、修練場からいつもの中庭に向かう。
母がいつもの優しい腕で抱いてくれる。
「元実、どうしたの?顔がやつれてますよ?」
元実は母の胸の中で咽び泣きたかった。
しかし、それをグッと堪えて笑顔を作る。
「……ちょっと稽古で疲れただけだよ。
今日はもう寝るね。おやすみなさい、母上。」
元実が母に父の事を隠したのは、小さな自立心からだ。
彼は母が父を鎮めに行っているのを知っている。
父が子供に近付いて癇癪を起こさないよう、自分の体を差し出している事を。
そして、母にとってそれが本当は心身共に苦痛である事も。
自分と同じく、母も関緋が怖い事も。
前に鴇羽が実鈴の相談に乗っているのを偶然聞いたのだ。
(僕達は母上に守られている……。
母上の為にも、早く大人にならなきゃ。自分で自分を守れるように。)
しかし今日、父の恐ろしさを再確認し、壁にぶち当たったと言う訳だ。
元実は寝床で丸くなって考え事をしていた。
(あの父上から自分の身を守るなんて……無謀だった。子供の僕じゃ……。
いずれ、僕も母上も、緋寒も、僕を庇ってくれた大志摩も、父上に殺されてしまうんだ……!)
枕に涙が染み込む。
元実はいつの間にか、疲れて寝てしまった。
その時、部屋の入り口から黒い揚羽蝶がヒラヒラと迷い込む。
蝶は眠る彼の額に止まった。
***
目を覚ますと、元実は寝巻き姿で霧の立ち込める竹林にいた。
(夢……?)
戸惑う元実の目の前を、黒い揚羽蝶がヒラヒラと舞う。
『珍しい色の蝶々……。』
元実はそれを追いかけた。
行く道で様々な虫や動物、草花などを目にする。
(そういえば一度だけ、母上や緋寒と一緒に近くの竹林に出かけたっけ。
地面を駆けて、虫取りをしたり、草花で遊んだり、木の実をその場で採って食べたり……。
母上も僕らも普段は自由に城の外に出れないから、全部の事が楽しかった……。
あの時が、ずっと続けば良かったのに……。)
『またそうなれるさ。こっちにおいで。』
『え?』
その声は蝶々から聞こえた。
落ち着いた男の声だ。
元実は蝶に導かれ、岩場の洞窟に辿り着いた。
内部は蛍が無数に飛び交って明るい。
待っていたのは黒一色の不思議な男。
黒い揚羽蝶と同じ模様の、幅広の笠と長羽織りの姿。
肩幅が広く、顔はよく見えない。
首や手首の筋肉の肉付きを見る限り、筋肉質なのが分かる。
『貴方は?』
元実は尋ねる。
『この山に住む精の1人だよ。』
『どうして僕を?』
『悲しい事に、私は人間の侵略(環境破壊)により、妻子を亡くしていてね……。
特に息子と仲が良かったので、もう一度あの子に会えたらと嘆いていたのだ。
それで息子とよく似た君を見つけ、つい、連れてきてしまった。』
悲しげに俯く山の精。
『仲の良い親子……。
なのに永遠に離れ離れになっちゃったんだね。可哀想……。
僕で良かったら側にいてあげるよ。』
『なんと!
ありがとう……。優しい子だ。』
山の精は元実に寄り、彼を抱き上げた。
『君って大きいね。大志摩よりも!
あ、君っていうのは失礼か。
名前はある?僕は元実。』
『私は……<黒朱>と名乗っておこうか。』
元実は黒朱と一緒に竹林を駆け巡る。
黒朱は元実の面倒を見ながら遊んでくれた。
段差の激しい岩場などで、「気を付けて」と注意しながら、手を貸してくれる。
次期の族長になる為に行動に制限が生まれて窮屈になった元実の日常。
それを壊してくれる心地良い夢だった。
***
朝。
清々しい気持ちで目覚める元実。
「変な夢……。でも、楽しかった。
また会えないかな?あの黒い蝶々の精に。」
それからと言うもの、元実は床に入った際は夢の中で黒朱と遊んだ。
彼の表情は以前より明るくなっていった。
大分黒朱と仲良くなった頃、元実は自分の家族について愚痴を漏らした。
『世の中不公平だよね。黒朱みたいな仲良し親子は早く死別させられて、僕と父上みたいな仲良くない親子はきっとずっと縁が切れないんだ……。』
『そのようだ。
それにしても、君の母君が可哀想だ。
彼女の苦痛を取り去ってあげたい。』
『どうやって?できるの?!』
『彼女を連れてくるんだ。
母君にもうそんな苦しい事をさせなくていい。』
『ここにって……ここは夢の中だよね?
『夢の中だけでも、元実君と同じように気を紛らわしてあげたいんだ……。
君も母君が嬉しそうな顔を見たいだろ?』
『うん……。分かった、やってみる!』
元実は次の日の晩、床に入った。
(まず、母上の事を強く念じて眠る……。
後は何とかするって、黒朱が言ってた……。)
元実は夢の中で目覚めた。
彼は丁度、母の部屋にいた。
『凄いや!夢の中で母上に会えた!』
実鈴は鏡台の前で髪を梳かしていた。
絹の寝巻き姿で、湯上がりに寝る支度をしている所だった。
『元実?!
どうしたの?眠れないのですか?』
急に現れた彼に驚き、実鈴は櫛を落とす。
『母上こっち!』
元実は母の手を引いた。
見ると側で黒い揚羽蝶が飛び回っていた。
元実は母を導きながらそれを追いかける。
『元実、どこへ行くの?!』
『良いから来て!母上の為なんだ!』
見張りをやり過ごしながら城の地下に向かい、下水が流れる小さな排水口を潜って外に出る。
そこは丁度、竹林だった。霧が立ち込めている。
『大江の城に外に繋がる通路が?』
『黒朱が教えてくれたんだよ。
下水があるからあまり誰も近付きたがらないんだって。鬼は鼻が利くから特にね!』
『クロアケ?誰です、それは?』
その時、近くの木が揺れた。
黒い人影が降り立つ。
元実は彼に駆け寄った。
『黒朱!!
全部上手く、イッッッ!!
………………——————。』
腹に鈍痛がしたと思った瞬間、意識が途切れる。
夢にしては“現実で殴られた”に等しい感触。
「感謝するぜぇ。関緋の倅……。」
そう囁いたのは紛れもなく黒朱だった。
「元実?!
何をするの!その子を放しなさい!!」
実鈴は怒りで髪を放射状に靡かせ、鬼火を放とうと構える。
しかし、黒朱は元実を盾にして突進してきた。
実鈴は我が子を攻撃できず、彼に腹を殴られる。
黒朱は気絶した2人を軽々と肩に担ぐ。
彼は実鈴の腰や背中を味わうように撫でると、彼女の顔を自分に向けさせた。
「おおっ!!生で見るのは最高だなぁ!!
関緋には勿体ねえ……。俺用に塗り替えるんだ。」
黒朱は2人を連れて霧の中に消えた。




