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リバプール -赤と共に-

作者: Xsara
掲載日:2025/09/17

メレディス・アストンは、生まれも育ちもノリス・グリーン。濡れた煉瓦の匂いと、狭い路地を抜ける風の冷たさと、土曜の朝にどこからともなく聞こえてくる歌声で世界を覚えた。父に肩車されて初めてアンフィールドへ行った日、赤い波のようなスタンドの上で「You’ll Never Walk Alone」を歌った。幼い喉が震え、胸の奥が温かくなるのと同時に、ピッチの向こう側、ミッドフィルダーの背番号の動きに目が釘付けになった。エディ・マルサス。ノリス・グリーン出身、ユースからトップへ駆け上がり、ずっと赤を着続けてきたセントラルだ。街の「良心」と呼ばれる男。


アンフィールドの中央で静かな炎を燃やしていたのが、エディ・マルサスだ。

大声を出すわけでも、華やかなフェイントを見せるわけでもない。だが、彼のワンタッチで試合の温度は確かに上がり、彼のスライディング一発で相手の心拍は乱れる。いつのまにか「良心」と呼ばれるようになっていたのは、プレーだけではない。敗戦の夜に誰より長く拍手を送り、病院のチャリティに黙って顔を出し、若い選手の失敗を先に自分の口へ引き取ってから、ロッカールームの扉を閉める。街に溶けたプロ。メレディスの「理想の大人」は、いつも14番の背中をしていた。


ノリス・グリーンのタウンハウスに暮らす少年にとって、アンフィールドは地図の端に描かれた伝説の砦のようなものだった。放課後、荒れた空き地でボールを蹴り、霧雨のなか、泥で重くなったスニーカーを鳴らしながら帰る。バスの窓越しにちらりと見えるスタンドの鉄骨。週末の午前、地区の公園では、年上の兄ちゃんたちがユニフォームでもない赤いトレーナーを着て、やけに熱のこもったプレスを仕掛けてきた。そこで最初に憶えたのは、抜くドリブルではなく、空いた背中に走り込むこと。味方の影になること。ボールを持たない時こそ勝負は始まっているということだった。


二十歳の春、メレディスはついにトップのロッカーに名札を得た。U-18の頃から評判だった加速力は、プロのスプリントにも見劣りしない。とくにオフザボールの動きは、育成のコーチから「まるで相手の頭の中を覗いているみたいだ」と言われたほどだ。ライン間のわずかな陰りにするりと入り、センターバックの視線が一瞬泳いだ瞬間に背後へ抜ける。何度削られても表情を変えない“鉄のハート”も、アンフィールドの空気が似合っていた。


その日、練習の締めに行われた8対8のゲームで、メレディスはエディからの速い縦パスを受けるふりをしてスルーし、逆サイドのウイングへ通した。ディフェンダーの足がもつれ、スタンドの影の中から控え組の笑い声と拍手が漏れた。


「いいぞ、アストン!」誰かが叫ぶ。


エディは、少しだけ口角を上げて親指を立てた。言葉は少ないが、それが彼の最大級の称賛だと、チームの誰もが知っている。


——だからこそ、練習後に「ちょっと時間あるか?」と呼び止められた時、メレディスは胸の奥で小さな不吉を聞いた。


曇天が低く垂れ込め、ピッチの芝には微かな雨粒が刺さり始めていた。ベンチ横の屋根の下、二人は並んで立った。観客がいないアンフィールドは、不思議と広く、音が吸い込まれていく。


「……中東だって、本当なんですか?」


メレディスの声は、思ったより落ち着いていた。エディは短く頷く。


「アル・サイードから正式にオファーが来た。五年。給料は今の五倍。年齢を考えたら、破格だ」


「けど……リバプールじゃないですか。あなたはずっと、ここで……」


「わかってる」エディは遮らなかった。ただ、一拍置いて、スマホのロック画面をタップする。写し出されたのは、笑顔の妻と三人の子ども。末っ子が前歯のない口でピースをしている。「上の子は来年、中学だ。教育費もかかる。俺の膝は、医者は大丈夫だと言うけど、朝起きると石みたいに固い日がある。将来のことを考えれば、今が潮時なんだよ」


メレディスは、言葉を飲み込んだ。自分は試合のことしか考えていなかった。次の対戦相手の最終ラインの癖、三列目の位置取り、カウンターの角度。ピッチの外側にある巨大な時間の流れ——家族、教育、ローン、怪我の既往歴、クラブの経営——それらが選手の背中に乗っていることを、頭では知っていたが、まだ体で受け止めてはいなかった。


「クラブは?」メレディスが訊く。「延長を」


「一年。条件は悪くない。だけど『ローテーションの一角として』ってはっきり言われた。若い中盤を軸にする計画があるらしい。俺はその輪に、去年までみたいには中心に立てない」


エディは笑った。湿った芝の匂いに混じって、かすかにメンソールの香りがした。ロッカーでの習慣だ。


「誤解するなよ。恨みはない。クラブだって未来を見なきゃいけない。俺だって、あの赤を着てる限りは勝ちたい。だから迷ってる。五年、家族のために稼いで、異国でキャリアを締めるか。ここで一年、役割を変えて戦うか。どっちが『俺らしい』か、ずっと考えてる」


沈黙が落ちた。遠くでスプリンクラーが勢いを弱め、どこかでトラックのブレーキ音がした。メレディスは、エディの手の甲に浮いた小さな古傷を見つめた。スパイクの跡。何度もピッチに飛び込んできた証。


「俺だってな、もっとお前と一緒にプレーしたかったよ」エディがぽつりと言う。「お前の走り出すタイミング、もう分かってた。次のシーズンはもっとやれると思ってた。でも……背負うもんができるって、こういうことだ」


メレディスは、唇を結んだ。「……でも俺、あなたの分も、このチームでやり続けます。もっと強くなって、エディ・マルサスの名前を継ぐような選手になります」


エディの眼差しが、少しだけ厳しくなる。だが、その奥には温度がある。


「お前はお前だ」彼は静かに言った。「俺の名前はいらない。お前の名前を、アンフィールド中に刻め。メレディス・アストンとしてな。人の影を追ってる間は、本当の意味で抜け出せない。お前はもう、目の前の背中じゃなく、ゴール裏の空っぽのスペースを見つける男だろ」


胸のどこかで、何かが「カチ」とはまる音がした。メレディスはうなずいた。強く。


二人は、がっしりと握手を交わす。手のひらは硬く、温かかった。スタジアムの照明が、夜の試合に備えて一基また一基と灯り始める。薄闇が、ゆっくりと赤い箱を金色に縁取り、空に垂れ込めた雲の輪郭が柔らかく浮かび上がる。


「ところでさ」エディが少し口元を緩めた。「お前、今日のスルーはよかった。相手の六番、完全に裏返ってた。ああいう時、一歩目はあえて遅らせろ。センターバックが体を開く前に飛び込むと、ラインごと持っていける」


メレディスも笑う。「ボス(監督)に怒られますよ。『また勝手なことを』って」


「怒られ慣れてる」エディは肩をすくめる。「正しいタイミングで正しい間違いをするのは、だいたい正しい」


別れの会話に、ふだんと変わらないフットボールの言葉が混じる。それがかえって、決断の重さを際立たせた。


その夜、メレディスはノリス・グリーンの自室でスパイクの泥を落としながら、父の古いスカーフを引き寄せた。毛玉だらけの赤い布。鼻先に当てると、遥か昔のアンフィールドの匂いがした気がした。スマホが震え、メッセージが届く。差出人はエディ・マルサス。


〈明日、クラブに正式に伝える。お前とやれた時間に感謝してる。いつか、どこかでパスを出すふりをしてまたスルーしよう。〉


短い文だが、彼らしい。メレディスは、ただ「ありがとう」と返し、送信ボタンを押した。


発表の日、クラブは簡素なリリースを出した。長年の貢献、プロとしての姿勢、ファンへの感謝。SNSには賛否が飛び交い、スポーツ番組は「忠誠」と「家族」と「市場」を混ぜた論評を繰り返した。が、ロッカールームでの空気は、案外静かだった。中堅のDFが、エディのロッカーに小さな缶を置いた。「ノリス・グリーンの味」と手書きのラベル。母親のレシピで作ったスカウス(煮込み)だという。みんな笑った。


最後のアンフィールド。後半七十分、エディの名前が掲示板に光ると、スタンドは総立ちになった。彼が腕章をキャプテンに返し、ゆっくりとピッチを一周する。背番号十四がゆらめき、旗が海のように波打つ。コップから歌が降ってくる。


— Walk on, walk on—


メレディスはタッチライン近くで彼を待ち、抱きしめた。耳元で、エディがささやく。


「見てろ、アストン。こっからは、お前の走路だ」


「ええ、任せてください」


試合は終わり、フラッドライトの下、エディは家族と写真を撮った。末っ子がはしゃいでピッチの白線をまたぎ、係員に注意される。エディは笑い、手を振った。それから最後にもう一度だけ芝へ視線を落とし、目を閉じた。彼の背中がゆっくりトンネルに消えるまで、メレディスはそこから目を離さなかった。


その夜、街は雨だった。パブのテレビから流れるニュース映像に、コースターの上のピントが合ったり外れたりする。ノリス・グリーンのバス停で、フードをかぶった若者が小さくリフティングをしている。彼は、メレディスのポスターを指さして、友達に何かを早口でまくしたてた。誰かの憧れは、いつの間にか別の誰かの背中になっていく。


翌朝。チームは次の試合に向けた戦術トレーニングに入った。中盤の配置は少し変わり、ライン間にできるスペースも微妙に違う。エディのいないポジションに、若い六番が入る。ぎこちないが、目はいい。メレディスは彼に近寄り、声をかけた。


「迷ったら、俺の背中を見て。引っ張るから」


新しい関係が、その場で一つ生まれた。メレディスは、それがどういう重みを持つ言葉か、昨日より少しだけ理解していた。責任は、突然にではなく、こうやって静かに肩に乗るのだ。


セットプレーの練習。コーチの笛が鋭く鳴る。ファーでのオプション、ニアへの突撃。メレディスは、一歩目をあえて遅らせてから、二歩目で弾くように飛んだ。センターバックがわずかに体を開く。その刹那、彼は空を切り裂くように走り抜ける。ボールは、ちょうどいい高さで入ってきた。額に当てる。ネットがはじける音。スタンドに誰もいないのに、歓声が聞こえた気がした。


「ナイス!」若い六番の声が響く。


メレディスは、胸の内で誰かに向かってうなずいた。エディに。父に。少年のころの自分に。

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