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皆が騒いでいたので、視線だけで王女と踊るエリアスの様子を見ていたダイアナは、ふと隣に立つ男性へと目をやる。そこには、バリュー侯爵家の次男・イアンが、友人たちに囲まれて楽しげに会話をしていた。
ダイアナは、先ほどからただ黙ってイアンの横に立っているだけ。話に加わることも許されていない。
(エルビナ様は「必ず力になる」と言ってくださったけれど・・・本当に婚約を破棄させてくれるのかしら・・・。今も、この人の隣にいるのが、怖くて仕方ない・・・)
そんな思いを巡らせてぼんやりしていると、イアンがふとこちらを見て、笑顔で手を取り、優しい声色で囁く。
「ダイアナ、疲れたのかい?あちらで少し休もう」
その顔を見た瞬間、ダイアナの指先が震える。
(この顔は、怒っている笑顔だ・・・よそ見をしていたから、また罰を受ける・・・)
「はい・・・」
この状況で「はい」以外の返事をすると、罰の時間が伸びることをダイアナは知っている。絶望に満ちた心を抑え、なんとか笑顔を作る。
イアンの友人たちは感心したようにイアンの肩を叩いた。
「婚約者にも気遣いができるんだな。ダイアナ嬢、イアンと結婚できて幸せだろう?」
そんなことはないよ。ただ、ダイアナが僕の話に付き合ってくれていて、疲れたのかと思っただけだ。ダイアナ、すまなかったね。みんなとの話が楽しくて、君を気遣えなかった」
「・・・いいえ」
「じゃあ、みんな、ゆっくりしていってくれ」
「ああ、ありがとうイアン」
爽やかな笑顔で友人たちを見送るイアン。
傍から見れば、イアンに愛されている幸せな婚約者に見えるだろう。だが、イアンは決して本性を友人の前では見せない。罰は、必ずふたりきりの空間で下される。
ダイアナは、これから始まるであろう罰への恐怖で足が震え、うまく歩けなかった。イアンはそれに気づき、強く手を引いて、自分の歩幅に合わせさせる。
控室に入ると、イアンは手を放してダイアナを突き放す。
「ダイアナ、何度言ったらわかる?ああいう時は、笑顔で、楽しそうに会話を聞いていなければならない。つまらなそうに他に視線をやるなんて、あり得ないだろう!」
すぐに怒鳴り始めるイアン。
「申し訳ございません・・・」
「お前はそんなこともできないのか?どれだけ俺の信頼を落とせば気がすむんだ!?せっかく結婚してやるのに・・」
「はい、申し訳ございません・・・」
ダイアナは小さな声で再び謝る。暴力を避けたい一心だった。
「お前はそればかりだな!まったく、つまらない女だ!」
イアンはグラスにウイスキーを注ぎながら、ダイアナを見もせずに罵る。そしてテーブルから葉巻を取り出し、火をつけた。
「こっちに来い」
葉巻の煙が部屋に充満していく。ダイアナはその表情から、今にも罰が始まると察し、息を飲む。
「早くしろっ!」
「は・・・はい・・・」
イアンから視線を逸らせず、ゆっくりと近づいていく。イアンは口元を歪め、ニヤリと笑った。
「お前は馬鹿でつまらないが、怯えたその顔だけは、最高だな」
そう言うと、引き出しから短い鞭を取り出した。
「スカートを上げろ」
今日は足に鞭を打つつもりらしい。決して見えない場所を狙ってくるのが常だった。
ダイアナは膝までスカートを持ち上げ、身構える。
イアンが鞭を振ろうとした、その瞬間。
バンッ!
控室の扉が勢いよく開いた。
イアンは咄嗟に、ダイアナの足元に跪き、足首を掴んで叫ぶ。
「ダイアナ、足を痛めているじゃないか!大変だ、すぐに治療を!」
ダイアナは茫然としながらその姿を見つめ、扉の方へと視線を移す。そこには、先ほどダンスホールで見かけた美しい貴公子エリアスが立っていた。
「お休みのところ申し訳ありません」
エリアスは丁寧に頭を下げ、イアンに謝る。
イアンは一瞬、顔を険しくしたが、すぐに困ったような笑顔を浮かべた。
「エリアス様でしたか。困りますね、ここは家族専用の控室です。ご来賓の控室は別にございますので、すぐに侍従に・・・」
「いえ、イアン様、それには及びません。ただ、少しだけこちらでご一緒させていただけませんか?」
エリアスの困った様子に、イアンは戸惑いながら訊ねる。
「何か、ありましたか?」
「はい。実は、主役のホーリー様とダンスをする許可をカイン様からいただいていたのですが・・・」
「なるほど、義姉にお気遣いありがとうございます。それで?」
「そのことで数人のご令嬢に追いかけられてしまいまして・・・」
エリアスは苦笑しながら肩をすくめた。
「まあ、そうなるでしょうね。エリアス様は令嬢方に人気ですから」
「いえ、皆が好いているのはイアン様ですよ。優しくて聡明で、憧れている者が多いと聞きます。私も一度お話ししたいと思っていました」
イアンは気分を良くした様子で返す。
「光栄です。私も、エリアス様とお話ししたいと思っていました」
「おや・・・これは、葉巻ですか?」
エリアスがテーブルを見て声を上げる。
「え?ああ、エリアス様は葉巻を嗜まれますか?」
「いえ、あまり機会がなく・・・」
「そうですか、では、ご一緒にいかがですか?あちらにシガールームがあります」
「よろしいのですか?婚約者の方とお寛ぎったのでは?」
「いいえ、ダイアナが足を痛めたようなので、休ませようとしていたところでした」
「そうでしたか。ダイアナ嬢、大丈夫ですか?」
(こんな状況じゃなければ、ダイアナもエリアスに声をかけてもらい、きっと嬉しかった・・・でも、今は、鞭を避けられたことに安堵するだけ・・・早く、出ていってほしい)
「・・・はい。大丈夫です・・・」
「ダイアナ、侍女を呼ぶからここで待っていて。すぐに戻るから・・・」
「・・・はい・・・ありがとうございます・・お待ち・・・しております・・・」
イアンとエリアスが控室を出ていく。ダイアナは椅子に崩れ落ちるように腰を下ろした。火のついた葉巻を灰皿で消し、その煙が消えていくのを見届けると、ようやく一息つく。
ふと、入り口の方を見ると、サイドボードの上に一通の手紙が置かれていることに気づく。
なぜかそれが気になり、ダイアナはゆっくりと立ち上がり、手紙に近づいた。
甘い香りがふわりと漂う・・・
(この香り、覚えがある・・・)
手紙には「ダイアナ様へ」と記されていた。
「えっっ?・・・・どうして、ここに・・?」
裏返すと、そこにはあの契約書にあった、美しく整った文字でこう署名されていた。
"el"
ダイアナは、イアンがよこした侍女が来る前にと、慌てて手紙の封を開けた。
そこには短く、こう書かれていた。
「もう少しで希望が叶いそうです」
ダイアナは、目に涙を浮かべながら震える手でその手紙を握りしめた。
(エルビナ様・・・・ありがとうございます・・・私も、もう少し頑張らないと・・・)
どこから来たかわからないが、その言葉に勇気をもらったダイアナは、涙を手で拭いながら、手紙をそっとドレスのポケットにしまい込んだ。