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アリアは、リオン王国の首都にあるユラナス・ハインド侯爵邸の近くで立ち尽くしていた。


目の前の光景は、まるで戦の前触れのようだった。ハインド侯爵邸の前には、「戦争反対」と記された旗を掲げた群衆が押し寄せ、怒号と悲鳴が入り混じるような騒ぎが渦巻いていた。人々の顔には激情が刻まれ、ただならぬ空気が辺りを支配している。


アリアは、そこを通って邸に入ることが無謀だと直感的に悟った。彼女自身も、そして侍女たちもオロオロと戸惑っており、馬車は門の外に止まったまま、邸の敷地内に入ることすらできずにいた。


そのとき静かに、しかし存在感を持って現れたのは、老齢の執事だった。銀糸のような髪と、深く穏やかな瞳が印象的な人物だ。


「アリア・アイゼン様でいらっしゃいますか? 私、ハインド侯爵に仕えるカイルと申します」


落ち着いた口調で話しはじめる。


「……ええ、そうです」


「正面玄関がこのような状況で、申し訳ございません。事情は後ほどご説明いたします。恐れ入りますが、馬車を裏手に回していただき、そちらの入口からお入りくださいませ」


「はい……わかりました」


指示を受け、アリアは侍女たちに目配せし、すぐに裏手へと馬車を移動させた。

無事に邸の中に足を踏み入れたとき、アリアは安堵の吐息を漏らした。だが、それも束の間、カイルに案内されて広々とした客間へと通される。


「アリア様、まずはこちらでおくつろぎください」


「ええ……ありがとうございます。そうさせてもらいます」


室内は、柔らかなピンクと白で整えられ、香り立つ紅茶の香りがふんわりと漂っていた。小さな額縁に入った可愛らしい絵が壁を彩り、女性向けに整えられた空間だと感じた。

アリアは窓辺に立つと、邸の正門からは少し距離があるにもかかわらず、民衆の叫びがかすかに聞こえた。


(物騒だけど、この国は今、戦の渦中なのね。こんなことで怯えていては、この国の騎士団長の妻など務まらないわ……)


強く心を引き締めると、アリアは静かにソファに腰掛け、紅茶を手に取った。唇をつけるたび、温かな香りが喉の奥に染みわたり、緊張でこわばっていた身体が少しずつほぐれていくのを感じた。


ちょうどカップを空にした頃、カイルが再び部屋に現れ、深く頭を下げた。


「本日は、ユラナス様がお屋敷にいらっしゃる予定でしたが……申し訳ございません。国境での戦が激化し、急遽そちらに向かわれました」


「そうでしたか……」


アリアは思わず窓の外を振り返った。さきほどの怒声が、また遠くで響いている。


「そして、あの騒ぎの件ですが……昨夜、平民出の兵士が功を焦って隣国……ヴェルス国の捕虜となりまして。それが、よりにもよって町長の息子だったものですから、『なぜ騎士団は彼を守らなかったのか』と騒ぎが起こり、ユラナス様を非難する人々が集まってしまったのです」


「……悪いのはその兵士なのでは……」


カイルは深くうなずいた。


「ええ、そうなのですが……ヴェルス国は、『騎士団長と交換であれば釈放する』と申し出てきたのです。それを当然、はねつけたのですが、あの門の前に集まっている人々は『ユラナス様が責任を取り交換するべきだ』と」


「なんと、身勝手な……!」


アリアは思わず声を上げた。

騎士団長を差し出せと?この国を背負う立場にある人物を、平民一人と引き換えにするなど……正気の沙汰とは思えなかった。


ユラナスという人物について、アリアは噂でしか知らない。冷酷で、女子供にも容赦がないという評判。けれど今、この状況で民衆に非難され、戦場へ向かわねばならぬ彼のことを思うと、アリアの胸に言い知れぬ同情が湧き起こってくる。


(どれほどの重圧を背負って、彼はこの国を守っているのだろうか……)


「ユラナス様は、どうなされるのでしょうか……」


「……私にはなんとも……」


少し困ったように眉を下げるカイルの顔に、アリアは言葉を飲み込んだ。


(きっと、今は話せないことも多いのだろう)


これ以上問うのは酷だと思い、アリアは小さく微笑んで話題を切った。


「……ごめんなさい。気遣ってくださって、ありがとう」


「いえ……アリア様がこうしてお越しくださったこと、ユラナス様はお喜びになります」


その言葉に、アリアの胸がわずかに疼いた。


(喜ぶ……のかしら。会ったこともない私を?)


政略結婚。誰もがそう口にするけれど、その響きの奥にいる「ひと」について、誰も語ってはくれなかった。冷酷、無慈悲、感情を持たない。そんな噂ばかりが一人歩きしている。

けれど実際には、戦地に赴き、国を守り、民に非難されてもなお職務を全うしようとしている人物。


その実像は、いったいどこにあるのだろう。


「ユラナス様は、いつお戻りになるのでしょう?」


思わず漏らした問いに、カイルはゆっくりと首を振った。


「申し訳ございません……詳しいご予定は伺っておりませんが、少なくとも数日は戻られないかと」


「そうですか……」


短く返事をして、アリアはそっと窓の外を見やった。陽が少しずつ傾き始め、空が淡いオレンジに染まりつつある。遠く、門の外の騒ぎも徐々に沈静化しているように思えた。


(ユラナス・ハインド侯爵……私はあなたのことを、まだ何も知らない……)


夫になる人の記憶といえば、幼い頃に見た、あどけない笑顔だけ。それだって、本当に覚えているのか、ただの想像に過ぎないのかもわからない。

それでもこの地で、少しずつでも居場所を見つけていくしかないのだ。そんなことを考えていると、カイルがアリアに声をかける。


「アリア様、お部屋のご用意ができております。お疲れでしょうから、少しお休みになられては」


「……ええ、そうね……ありがとう。案内してくださる?」


「かしこまりました」


カイルは、アリアが先ほど「寝室かしら」と思っていた扉を開けて、彼女を中へと案内した。


寝室もまた、落ち着いた雰囲気でまとめられており、観葉植物や可愛らしいクッションが随所に配されている。全体的に、女性の好みに寄せて整えられた部屋だった。


「可愛らしいお部屋ですね」とアリアが言うと、カイルは微笑みながら、「ユラナス様が、わざわざアリア様のためにご用意されたのです」と答えた。


「ユラナス様が……これを、私のために……?」


信じられない思いで呟いたアリアの声に、カイルは微笑みを浮かべた。


「ええ。お好みになりそうなお部屋を、と仰って。侍女たちにも細かく指示を出されていました」


(私の好みを……?どうして……)


戸惑いと共に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

確かにここは、アリアにとってとても好ましい部屋だった。


アリアはふと、窓辺に置かれた小さな花瓶に目をとめた。

中には、まだ新しい、白いスズランの花が生けられている。


(スズラン……)


故郷では春の訪れを告げる花だった。

アリアの好きな花。


ユラナス様はどこまでを私を知っているのだろう。

どこまで、私を知ろうとしてくれているのだろう。


「……カイルさん。ユラナス様は、こういうことを、よくなさるの?」


「……いいえ。むしろ、他人の物に関心を持たれることは滅多に……いえ、ほとんどありませんでした」


「そう……」


アリアはベッドの縁に腰を下ろし、もう一度部屋をぐるりと見渡した。ぬくもりを感じる、優しい空間。そのどこにも「政略結婚」という言葉の冷たさはなかった。


「それでは、ごゆっくりお休みください、アリア様。何かございましたら、いつでもお呼びください」


「ありがとう、カイルさん」


「どうぞ、私の事はカイルとお呼びください」


そう言ってカイルは部屋を出て行った。

扉が静かに閉まると、室内には静けさだけが残った。


アリアはそっと立ち上がり、スズランの花瓶に近づいた。

そして、そっと指先で花弁に触れる。


(ユラナス様……あなたは、どんな人なのかしら)


その名を、アリアは心の中でそっと、そして丁寧に呼んだ。


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