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エリーナは自分の部屋の風呂に浸かりながら、先ほど時計をぶつけられた腕を見る。
案の定、赤く腫れ上がっていた。
「はあ‥‥‥痛いと思ったのよね~。でも、この位置ならドレスで隠せるから、ギリギリセーフ、ね」
手早く湯を済ませ、エルビナになるための準備に入る。
念のため、袖が長めのドレスに着替えて、地下の通路に進む。
袖のある濃紺のドレスに身を包み、エリーナ‥‥‥いや、エルビナは静かに扉を閉めた。
屋敷から出れば、あとは人目を避けて裏通りを抜け、街の中心部へと向かう。
石畳を踏む音だけが夜の静けさを切り裂いていく。
腕の痛みはまだ残っていたが、ドレスの袖がうまく隠していた。
(今日はあまり時間がない‥‥‥二十一時には待ち合わせ場所に‥‥‥)
顔を上げると、いつもの夜の街が広がっていた。
屋台の明かりがぽつぽつと灯り始め、香ばしい焼き栗の匂いが風に混じる。
約束のサロンに着き、扉の前に立ち名を名乗ると、控えめな制服姿の召使が深く頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、エルビナ様。侯爵夫人よりお部屋にご案内するように申しつかっております。どうぞ、こちらへ」
案内されたのは、奥まった廊下の先、窓のない、静謐な小部屋だった。
中に入ると、先に到着していたネグレス侯爵夫人が、椅子から立ち上がる。
「お待たせいたしました、ネグレス侯爵夫人」
部屋に入ってきたエルビナを見て、驚いたようにエルビナの靴のつま先から頭まで夫人の視線が辿る。
(なんて綺麗なかた!?貴族の令嬢でこれほどの妖艶さと品を備えていれば、夜会で話題になっているはず。本名ではないと思うけど、平民にしてはあまりにも立ち居振る舞いが洗練されている‥‥‥なんだか不思議な女性だわ‥‥‥)
「‥‥‥初めまして。私はローズ・ネグレスと申します。エルビナ様で‥‥‥よろしかったかしら?」
「はい、さようでございます。エルビナと申します」
「サーシャ様から、あなたはあまりお時間がないと伺っております。早速ですが、お話に入っても?」
「ええ。そうしていただけると助かりますわ」
そう応じたエルビナに、ローズはおもむろに鞄から一通の封筒を取り出した。品のある手つきでそれを開き、中の手紙を静かに差し出す。
(‥‥‥中を読め、ということね)
エルビナは丁寧に手紙を受け取り、目を落とした。
中には、こう記されていた。
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お父様・お母様へ
このような形でお手紙を差し上げる非礼をどうかお許しください。
そして、何も申し上げず家を出ることを、心よりお詫び申し上げます。
娘として、どれほど親不孝なことをしているのか、わかっております。
けれど、私はどうしても、ポルタ伯爵の令息と結婚することはできません。
立場も、家の名誉も、娘としての務めも、すべて理解しているつもりです。
けれどもそれ以上に、どうしても捨てきれない思いがあるのです。
私には、心に決めた方がおります。
おそらくお父様もお母様も、お認めにはならないでしょう。
それでも、その方とともに歩む未来を、どうしても諦めることができませんでした。
何度も思い直そうとしました。忘れようと努力もしました。
けれど、お会いするたびに胸が痛み、離れるたびに涙が止まりませんでした。
こんなにも誰かを想ってしまうことがあるのだと、初めて知りました。
もはや、私には道がございません。
このまま家に留まることも、縁談を受け入れることも、心を偽って生きることも・・・
どうしてもできませんでした。
ですから、私は家を捨て、その方と共に生きる道を選びます。
どうか、どうか、私のことは忘れてください。
親不孝の極みでございますが、私はもう、娘として家に戻ることはありません。
お父様、お母様、どうか、私のことは死んだと思ってください。
いままで育ててくれてありがとうございました。
タリファ
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「‥‥‥駆け落ちでしたか‥‥‥」
手紙の文面を見るかぎり、どこか駆け落ちという状況に酔っているようにも映る。
「ええ、タリファはそのつもりのようです」
「お相手について、何かご存じですか?」
「いえ、まったく。これまで、そのような素振りは一切見せておりませんでした」
「ネグレス侯爵家の使用人で、彼女と親しかった者が同時に姿を消した、ということは?」
「すぐに確認いたしましたが、誰もいなくなってはおりません。特に親しかった者も、現在のところは見当たりません」
エルビナは一つ頷く。
こうした場合、最も身近にいる者、すなわち使用人から疑うのが常だからだ。
「‥‥‥ところで、タリファ様が家を出てからすぐに捜索されなかったのは、どうしてでしょう?」
「‥‥‥正直に申し上げますと、実は以前にも、あの子は似たようなことを起こしたことがありまして‥‥‥」
「以前にも?」
「はい、その時は、街の鍛冶屋の青年と一緒に姿を消しました。青年は、タリファが貴族の出だとは知らなかったようです。そのときは、朝にいなくなり、夕方にはすぐに見つかりました。ですので今回も同じようなことだろうと、軽く考えてしまったのです。しかし、探し始めてみても、今度ばかりは足取りがまったく掴めず‥‥‥。サラサ様からも事情はお聞きいただいているかと存じますが、騎士団を通すわけにもいかず‥‥‥」
「‥‥‥ネグレス侯爵夫人。最近、令嬢たちがこつ然と姿を消している‥‥‥そんな事件が相次いでいるのは、ご存じですよね?」
「ええ、承知しています‥‥‥。ですが、タリファは自ら手紙を残して家を出たのです。事件に巻き込まれたとは、私には思えません‥‥‥」
そう言いつつも、ローズの瞳は不安に揺れていた。どこか落ち着かず、椅子の肘掛けに指先を落ち着きなく走らせている。
エルビナはしばらく沈黙し、夫人と目が合うのを静かに待った。
そして目線が交差した瞬間、はっきりと告げる。
「万が一、タリファ様の失踪が、例の事件と何らかの関わりを持っていたとわかった場合。私はそこで、タリファ様をお探しすることはできません。その時点で、人の命が関わる問題となります。そうなれば、直ちに騎士団へ報告する義務が生じます。‥‥‥それを、ご了承いただけますか? もしそれがご承諾いただけない場合は、誠に残念ながら、この依頼はお引き受けできません」
コクリとのどを鳴らすローズは、言葉を発せずに頷いた。
「では、契約を‥‥‥」
エルビナはいつもの契約書を取り出し、契約書の第十一条を整った文字で追加で書き込み、ローズの目の前へ置く。
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<<契約書>>
此処に、エルビナとローズ・ネグレスとの間に交わされし契約内容を記すものとする。
本書に記された規定のいずれか一つにでも背いた場合、前金の返金を求むことは一切かなわず、契約は即刻破棄されることを依頼人は了承せねばならない。
■第一条
請負人たるエルビナの素性、背景、交友関係その他の私的情報を探ることを一切禁ず。
■第二条
調査終了の日に至るまで、依頼人はエルビナの邸宅への立ち入りを自由とし、制限してはならない。
■第三条
依頼事項および調査過程に関わる一切の情報を、たとえ血縁においても第三者に漏らしてはならない。
■第四条
いかなる事情があろうとも、依頼人が契約を一方的に破棄する場合は、所定の依頼料全額を支払うこと。
■第五条
請負人の行動に妨げとなる言動、または調査の方針を途中で変更すること、厳に慎むこと。
■第六条
依頼人は可能な限り、請負人の調査に誠意をもって協力すること。
■第七条
請負人を他者に紹介する際は、必ず事前に紹介内容ならびに依頼内容を文書にて作成し、オーランド亭の《マチルダ》宛に提出すること。
■第八条
依頼人が本契約の条項に違反した際は、その紹介者に対しても、以後一切、請負人との接触・依頼を認めないものとする。
■第九条
依頼期間中、請負人とは友人として振る舞うことを許可するが、契約終了後は、たとえ公の場にて遭遇したとしても、声をかけることは固く禁ずる。
■第十条
もし依頼人、またはその関係者が、いかなる理由であれ請負人に危害を加えた場合は、重罰を受けることを、ここに了承する。
■第一条
調査対象者の失踪が重大事件と関係している疑いが生じた場合、本調査は即時中止とし、速やかに騎士団へ報告するものとする。
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ローズは、契約書にしっかり目を通してから、サインを書き入れる。
「‥‥‥第十条は少々気になるところですが、私がそのような行為に及ぶことは決してございませんので、触れずにおきますわ」
「‥‥‥ご署名、ありがとうございます。こちらが写しでございます。お納めください。依頼完了の折には、回収させていただきますので、それまでお手元で保管ください。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「ああ、そうでした‥‥‥ネグレス侯爵夫人。明日、時間はまだ未定ですが、タリファ様のお部屋を拝見させていただけますでしょうか?」
「ええ、わかりました。手配しておきましょう」
「ありがとうございます。では、また」
エルビナは優雅な所作で一礼し、静かに部屋を後にした。




