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本日は、夕方から約束があるエリーナは、持ち前の器用さを発揮し、朝から猛烈な勢いで家事をこなしていた。
基本的に義母は、仕事さえ終わっていれば文句を言ってこない。ただ、家が綺麗で、エリーナの存在が感じられなければそれでいいのだ。
昼過ぎには、すべての仕事を終える。
「よし!この時間なら間に合いそうね・・・」
周囲に人の気配がないことを確かめて、エリーナはそっと立ち上がる。
今日は、あのうるさい姉たちが近所のお茶会に呼ばれて出かけていた。夕方には戻ってくるだろうが、疲れていればこちらに構っている暇などないはずだ。
念のため、誰にも会わぬよう足早に離れを後にする。
エリーナの離れに人が来ることは滅多にない。
ごく稀に、義姉の侍女が嫌がらせにやって来るが、居留守を使えばたいていすぐに引き下がる。
エリーナはいつものように絨毯を捲る。
階段を降り、抜け道とは反対側の通路へと進むと、エリーナがやっと通れるほどの狭い扉が現れた。
中へ入ってランプに火を灯すと、ふわりと灯りが広がり、広々とした部屋が姿を現す。
ドレッサー、ソファ、ダイニングテーブル、風呂、キッチン。
ここには、生活に必要なものがすべて揃っていた。
母が亡くなる前、もしかしたらエリーナに必要なるかもしれない。と密かに用意してくれていた部屋だ。
今、この隠し部屋があるおかげで、どれほど助かっていることか。
先見の明があった母に感謝感激だ。
「それじゃ、とりあえずお風呂に入りますか!」
エリーナは本邸よりも立派な風呂にゆっくりと浸かり、午前中の埃を落とした。
小さい頃から、お化粧が大好きだった。
母と自分、そして少数の使用人だけの静かな屋敷で、遊ぶものも限られていた。
だから母の化粧品は、エリーナにとって最高の遊び道具だった。
母も楽しそうに化粧をする娘を見て、お化粧の仕方を丁寧に教えてくれた。
その甲斐あって、今では化粧ひとつで別人のような姿になることもできる。
その特技と賢い頭脳を生かし、こんな状況下でも楽しく快適に生きていくことにしたエリーナ。
我が家で働いても一銭のお金にもならない。お小遣いなんて、夢のまた夢だ。
このままでは、一生タダ働きで飼い殺される。と、考えたエリーナは、まずは、お金になる仕事をすることにした。
もちろん、父や義母に知られずにできる仕事を。
風呂から出たエリーナは鏡台の前に座る。
手慣れた仕草で筆をとり、丹念に肌を整えていく。
目元、頬、唇。徐々に、本来の自分とはまったく違う顔が出来上がっていく。
たくさんある鬘の中から迷わず銀髪を選び、手早くセットを終える。
化粧と髪型が整ったら、昨日染め直し、手を加えた赤いドレスを身にまとう。
鏡の前に立てば、そこに映っているのは、誰もが目を奪う妖艶な高貴な貴婦人の姿だった。
肌は乳白色に近く、白粉に頼らずとも透けるように滑らか。頬のラインは柔らかく、あどけなさのかけらもない。
瞳は若い葡萄酒のような紫を湛え、視線ひとつで相手の心を試すような底知れぬ深さがある。
胸元には豊かな曲線が宿り、決して露骨ではないが、あえて隠すことなく静かに主張している。腰の細いくびれから続く、滑らかなライン。そのすべてが、見る者に無言の誘惑を与えている。
そして、なによりその笑み。
唇の端をわずかに上げただけなのに、場の空気がふわりと崩れ落ちるような、そんな艶があった。
「さて、それでは出かけますか!」
自分の姿を確認すると、エリーナは地下の通路をすたすたと進み、町はずれへと抜け出た。
今日はとても井戸をよじ登れるような格好ではない。
少し遠回りになるが、あばら家の裏手にある隠された階段を使う。
地上へと出るその瞬間、エリーナの胸は、いつも少しだけ高鳴った。
(このスリル、たまらないわね)
誰にも気づかれず別人になって現れるこの瞬間は、彼女にとって束の間の表舞台だった。
しばらく歩いたのち、街の片隅にある宿へと足を踏み入れる。
ここには、エリーナ専用の部屋がある。
もちろん偽名で身分も職業もすべて偽りのものを使っている。一度でも正体が知れ渡れば、すべてが水の泡。
だからこそ、慎重に。
宿の女主人・マチルダが、優雅に入ってきたエリーナに気づいて声をかけた。
「おや、エルビナ様。お久しぶりじゃないか」
「マチルダ、お久しぶり。ちょっと旅に出ていてね。なかなか顔を出せなかったの」
エルビナはにっこりと笑い、上品に肩をすくめる。
その仕草に、マチルダもつられて微笑んだ。
エルビナの話し声が聞こえたのか、宿の奥から従業員たちがわらわらと顔を出す。
みな、こぞってエルビナを一目見ようと集まってきた。
「こらお前たち! いくらエルビナ様が美しいからって、仕事をさぼるんじゃないよ!」
「え~っ、おかみさん、そりゃ無理ってもんですよ~!」
「ふふ、皆さんお元気でしたか?」
エルビナが優しく微笑んで声をかけると、宿の従業員たちは一斉に返事を返した。
「ああ、マチルダ。忙しいところ悪いのだけど、あとでお茶を持ってきてくれるかしら?」
「はいよ」
エルビナは階段を優雅に上がり、自室の扉を静かに閉めた。