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「私が10歳になる頃、帝王学の勉強が始まりました。そこで、初めて私は王女は薬屋にはなれないと知りました・・・・王女はどんな夢を見ようと女王になるしか道がないと・・・」
「ええ・・・・」
マルスは膝の上で手を組み、視線を落としたまま、そっと呟くように返事をする。
「ずっと、あなたに会って、薬屋にはなれないのだと伝えたかった・・・・でも、私の境遇が邪魔をして、お伝えすることができませんでした・・・私は、女王となり、リオン国を支えなくてはなりません。ですので、あの約束は・・・・・・」
そこでマルスの言葉が途切れる。
部屋の中が一瞬、静まり返る。
「・・・あの約束は・・・・撤回いたします・・・・」
マルスの声はかすかに震えていた。けれど、決意を込めたその言葉は、その場の空気を張り詰めさせた。
「撤回・・・」
カヴィルは反芻するようにその言葉を繰り返し、眉を寄せた。
「・・・そうですか」
彼の声は落ち着いていたが、その眼差しには、深い哀しみと・・・どこか安堵にも似た表情が浮かんでいた。
「・・・・王女殿下がそう言ってくれて、少し救われた気がします」
「救われた・・・?」
マルスが顔を上げる。
「はい。・・・あの約束を、私はずっと心の奥にしまってきました。けれど、それがあなたを縛っていたのなら・・・そんな約束、もうなかったことにしてほしいと・・・思っていたんです」
「・・・カヴィル様」
「・・・」
「・・・・王女として生きることを選んだ私が、あの時のあなたとの約束を“撤回”することは、正しい選択なのかもしれません。でも・・」
そこでマルスの声がわずかにかすれた。
再び沈黙が部屋を包んだ。
長い長い沈黙。
そして、カヴィルがそっと口を開く。
「・・・ありがとうございます、マルス王女殿下。これで、あの場所ではなかったですが、過去の約束は、きちんと果たせたと思います。・・・今日、王女殿下にお会いできてよかったです」
マルスは驚いたようにカヴィルを見つめる。
その視線を静かに受け止めながら、カヴィルはゆっくりと立ち上がった。
丁寧に礼をするカヴィル。その姿は、まるで舞台の幕引きのようだった。
「・・・カヴィル様・・・・私はっ!・・・・」
マルス王女の声は震えていた。言ってはいけない言葉を、必死に押し殺しているように見える。
カヴィルもまた、その姿を苦しげに見つめていた。
やがて、マルスは立ち上がり、ひと足、彼に向かって歩み寄る。
カヴィルも、自然と手を伸ばしていた。まるで、その手を取ってしまいたいという衝動が、彼の意志を超えて動いたかのように。
「わかりました」
エルビナは、向き合う二人の様子を静かに見つめながら、パン、パンと手を二度打った。
その軽やかな拍手の音に、エルビナ以外の三人は一斉に動きを止め、視線を彼女に向ける。
やがて、扉が静かに開いた。そこから現れたのは、爽やかな美貌の紳士だった。
エルビナ以外の三人は、「誰?」といった面持ちで彼を見つめる。
エルビナはそんな彼らを気にする素振りもなく、手招きして紳士を自分の隣へと招いた。
颯爽とエルビナの隣に立ったその男は、静かに腰を折り、礼を取る。
「皆さま、初めまして。私はリオン国シャルレイ公爵家が次男、アーデン・シャルレイと申します」
「シャルレイ公爵・・・?」
マルスが小さくつぶやいた。
アーデンはにこやかにマルスに向き直り、穏やかに言葉を続ける。
「我が国が誇る麗しの姫君、マルス王女殿下にご挨拶申し上げます。現在は、リオン国ではなく、ファルマン王国にて商業活動を行っております。こうしてお目にかかるのは初めてですが、どうぞ今後ともご懇意に願います」
突然の、自国の高位貴族の登場に、マルス王女の表情がわずかに引き締まる。
先ほどまでの柔らかな顔とは一変し、王女としての威厳を帯びた面持ちに戻った。
「アーデン、リオン国の王女マルスです」
差し出された手に、アーデンは静かに跪き、手の甲に敬意を込めた口づけを落とす。
それは、リオン国における正式な挨拶の所作であった。
「失礼ながら、シャルレイ公爵に弟君がいらっしゃったとは存じ上げませんでした」
「とんでもございません、マルス王女殿下。夜会や公の場に出ることが少なく、私こそ申し訳なく存じます」
その丁寧な口調と立ち居振る舞いに、マルスは一層、彼への関心を深めた様子を見せる。
だが次の瞬間、彼女はゆっくりと視線をエルビナに向けた。
「・・・・それで、なぜアーデンがここに?」
静かだが、明らかな疑問がその声には込められていた。
「一度、皆さん・・・カミーユ殿下以外は、席に着きましょうか」」
カミーユはソファに座ったまま、右手を軽く上げて応じた。
「アーデン様は、あちらの席へどうぞ」
先ほどカミーユが座らなかった席へ案内する。
「アーデン様には、ある確認のためにお越しいただきました」
「確認・・・?」
マルスは怪訝な面持ちで、エルビナとアーデンを交互に見た。
「はい、確認です」
そう答えたエルビナは、体をアーデンの方に向けてから言葉を続けた。
「マルス様。先日、カヴィル様に会ったら、気持ちに区切りをつけるとおっしゃいましたね?それで今、カミーユ殿下との結婚に前向きになられましたか?」
「なっ!!!!」
マルスは思わずテーブルに手をつき、前のめりになってエルビナを制そうとする。
同時に、カミーユも立ち上がり、鋭い視線でエルビナを睨みつけた。
その間、カヴィルの方を見やると、彼の指先が微かに震えていた。




