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エリーナは、さまざまな思いを巡らせながら帰路についていた。
ふと、あることを思い出し、従者に行き先の変更を指示する。
その店は、夜の帳が降り始めたというのに、まだ煌々と明かりが灯されていた。
(忙しそうね・・・)
馬車を降り、足早に店の扉を開ける。
その瞬間、店内に響く怒鳴り声が耳に飛び込んできた。
「ちょっと!ヘムラインに付けるあのレース、どこにやったのよ!?この前もなくしたでしょ!あんた、そんな基本的な管理もできないようじゃ、もう接客のほうに回すからね!!」
「アーデン様!申し訳ありません!!!接客だけは・・・それだけはご勘弁をっ!!」
「だったら、ちゃんとやりなさいよ!! ・・・・・あら?」
アーデンが入り口に立つエリーナ・・・いや、エルビナに気づいて振り返る。
怒られていたスタッフもエルビナの姿に気づくと、思わず頬を染めた。
エルビナは、女性であっても見惚れてしまうほど妖艶で美しい貴婦人なのだ。
「エリ・・・・エルビナじゃない。やっと来てくれたわね」
「店先で何を騒いでいるの?」
「教育よ、教育」
アーデンはそう言って、先ほどまで怒っていたスタッフを軽く手で追い払った。
「最近は注文が増えて、人手が足りないのよ。それでもお客様は当然クオリティを求めてくるじゃない? だから、どうしても厳しくならざるを得ないのよね・・・まあ、彼女の場合は、それ以前の問題だけど」
「ほどほどにね」
「わかってるわよ。さ、こっちよ。夜会服とドレスがいい感じに仕上がってるの」
先ほどとは打って変わってご機嫌なアーデンの案内で奥の部屋へと進むと、そこには男物の濃いグレーの夜会服と、女物の華やかなグリーンとオレンジのドレスが、それぞれトルソーに美しく飾られていた。
「・・・・すごいわ、アーデン。このドレス、なんて綺麗なの・・・」
そのドレスは、今流行しているふくらみのあるスタイルとは異なり、ストンと下へ流れるような優美なシルエットを描いていた。
胸元からは柔らかなオレンジが始まり、裾に向かって淡いグリーンへと自然に溶け込むグラデーション。
全体には繊細な金のラメがあしらわれ上品な輝きを放っている。
女性の身体のラインを最大限に美しく引き立てるよう、細部まで計算されたデザインであり、アーデン曰く「そこら辺の女には着こなせない」一着なのだという。
まさに、美の化身たるエルビナのためだけに仕立てられた、唯一無二の逸品だった。
一方、落ち着いた深みのあるグレーの夜会服は、エリアスの黒髪と紫の瞳を際立たせる絶妙な色合い。
生地に織り込まれた銀糸が、動くたびにさりげなく光を反射し、静かな中にも気品と遊び心を漂わせる。
縁にあしらわれた繊細な草木模様の刺繍には、自然の息吹と凛とした若さが静かに息づいていた。
高級な素材で丁寧に仕立てられたその服は、ただ袖を通すだけで着る者の魅力を何倍にも引き上げてくれるような、洗練の一着だった。
「そうでしょ?私も結構気に入ってるのよ!・・・で、夜会服の方はどう??」
「すごく上質な仕立てね・・・こんなに素晴らしい物、エリアスが着こなせるかしら・・・」
「ばかね、エリアス様しか着こなせないわよ!エリアス様が好きすぎて、夜会服の方が時間かかっちゃたわ!」
「どっちも、私なんだけど・・・・」
「エリアス様は別よ。エリーナだけどエリーナじゃないんだから!」
「?」
「いいの、あんたにわからなくても。とにかく、エリアス様の姿を思い浮かべると、創作魂が燃え上がるのよ」
「・・・よくわからないけど、まあいいわ。アーデン、本当にありがとう。こんな素敵なドレスと夜会服、すごく嬉しいわ!」
アーデンはふっと笑うと、エルビナの頭をポンポンと優しくたたいた。
「今日は食事したの?」
「いいえ、まだ。後でマチルダに作ってもらおうと思っていたの」
「そう、私もまだだから一緒に食べない?ここから少し歩いたところに、いいレストランができたのよ」
「そうなの?知らなかったわ。ぜひ行ってみたいわ!」
「ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出ようとしたアーデンが、ふと思い出したように振り返った。
「・・・・・あ、そうだ。ハンカチの刺繍、五百枚できてるわよ。新人たちに練習させてたんだけど、思いのほか早く仕上がったわ」
「すごい、もう終わったのね!優秀な子たちじゃない!!」
アーデンは肩をすくめて、少しだけ得意そうに笑った。
「あとで馬車に積ませておくわ。持って帰ってちょうだい」
「アーデン、本当にありがとう。助かったわ」
エルビナがトルソーにかけられたドレスをじっと見つめていると、外からアーデンの声が響いた。
「お待たせ、エルビナ!準備ができたわ!」
「わかった、今行く」
二人は夜の街を連れ立って歩いていく。
レストランはアーデンの言葉通り、工房から歩いて数分の場所にあった。
外観はこぢんまりとしているが、店先には季節の花々が彩りを添え、控えめな看板が品の良さを物語っている。
中に入ると、ほんのりと木の香りが漂い、温かな明かりがテーブルをやさしく照らしていた。




