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街にランプが灯り始めた。
ゆらゆらと揺れる明かりが、川面に映り込み、まるで夢のような幻想的な景色をつくり出している。
川沿いに並ぶ石造りの家々の窓からは、暖かな光と人々の話し声が漏れ聞こえた。
何の変哲もない邸の前に質素な馬車が止まる。
フードを深くかぶった女性が、下りてきて邸を見上げる。
家人に案内されることもなく、自らその屋敷へ入っていく。
入口をノックすると、侍女と思わしき女性が扉を開けて中に通してくれる。
フードはそのままに、案内されたい奥の部屋へ向かう。
「・・・エルビナ様ですか?」
奥の部屋で静かに待っていた少女が、ゆっくり立ち上がり声をかけてきた。
エルビナは軽く頷くと、部屋の中央に置かれた椅子へと腰を下ろす。
エルビナの向かいにいたのは、あどけなさの残る若い娘だった。
けれど、その背筋はまっすぐで、瞳には年齢以上の決意が宿っている。
「初めまして、私はリオン王国第一王女、マルス・リオンと申します。今日はお越しいただき、感謝いたします」
丁寧な口調だが、どこか不安を押し隠すような気配がある。
目の奥にある焦燥を、エルビナはすぐに察した。
エルビナはフードをゆっくり外してマルスを観察する。
「エルビナと申します。ご事情は少しだけサーシャ王女から聞いておりますが・・・・早速ですが、こちらの書類をご確認いただき、この契約書にご署名をお願いいたします」
エルビナは、美しく整った筆跡で細かく書かれた契約書を取り出し、マルスの前にそっと差し出した。
マルスは、不思議そうな顔をしながらそれを手に取り、静かに目を通し始めた。
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<<契約書>>
此処に、エルビナとリオン王国第一王女、マルス・リオン殿下との間に交わされし契約内容を記すものとする。
本書に記された規定のいずれか一つにでも背いた場合、前金の返金を求むことは一切かなわず、契約は即刻破棄されることを依頼人は了承せねばならない。
■第一条
請負人たるエルビナの素性、背景、交友関係その他の私的情報を探ることを一切禁ず。
■第二条
調査終了の日に至るまで、依頼人はエルビナの城への立ち入りを自由とし、制限してはならない。
■第三条
依頼事項および調査過程に関わる一切の情報を、たとえ血縁においても第三者に漏らしてはならない。
■第四条
いかなる事情があろうとも、依頼人が契約を一方的に破棄する場合は、所定の依頼料全額を支払うこと。
■第五条
請負人の行動に妨げとなる言動、または調査の方針を途中で変更すること、厳に慎むこと。
■第六条
依頼人は可能な限り、請負人の調査に誠意をもって協力すること。
■第七条
請負人を他者に紹介する際は、必ず事前に紹介内容ならびに依頼内容を文書にて作成し、オーランド亭の《マチルダ》宛に提出すること。
■第八条
依頼人が本契約の条項に違反した際は、その紹介者に対しても、以後一切、請負人との接触・依頼を認めないものとする。
■第九条
依頼期間中、請負人とは友人として振る舞うことを許可するが、契約終了後は、たとえ公の場にて遭遇したとしても、声をかけることは固く禁ずる。
■第十条
もし依頼人、またはその関係者が、いかなる理由であれ請負人に危害を加えた場合は、重罰を受けることを、ここに了承する。
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「あの・・・エルビナ様、最後の項目について、お伺いしても・・・?」
「書いてある通りです」
エルビナは、相手が王女といえど、いつも通りの契約内容で進めていく。
「・・・・わかりました」
マルスは、目の前に置かれたペンで、慣れた仕草でサインをする。サインが終わるとエルビナの方へ視線を送る。
「ご署名、ありがとうございます。こちらが写しでございます。マルス王女殿下、お納めください。依頼完了の折には、回収させていただきますので、それまでお手元で保管ください。よろしくお願いいたします」
「はい」
「では、早々ですが、マルス王女殿下にはあまり時間がないと聞いております。ご依頼内容をお聞かせくださいますか?」
エルビナは柔らかな表情でそういうと、マルスも微笑む。
「ええ、依頼内容は・・・探し人です」
「探し人・・・」
「はい、実は・・・幼い頃に結婚の約束をした男の子を探しているのです」
「結婚の約束・・それは、正式な婚約ではなく?」
「ええ、ただの子ども同士の約束でした。けれど私は、ずっと・・本気で、その人を待ち続けていたのです」
マルスは一瞬視線を伏せ、それから懸命に微笑もうとした。
「今年の年末までに、その方を見つけられなければ、私はカミーユ殿下と結婚しなくてはなりません。カミーユ殿下も、この結婚を望んではいないので協力してくださっていますが・・・」
「・・・まだ見つけられていないのですね」
「はい・・。覚えているのは、ほんの断片だけ。名前すら、知らなくて・・・」
マルスは指先を組みながら、言葉を探すように語りはじめた。
「ただ・・・その男の子の瞳がとても珍しい虹色の琥珀色だったこと。そして・・多分右手だと思うのですが・・・その小指が、少しだけ曲がっていたことを、はっきり覚えています」
「曲がっていた?」
「赤ちゃんのときの事故で、小指の一部が折れて、そのまま少しだけ曲がった状態で治ったそうです。私が指切りをしたとき、その感触だけは今でも、ずっと残っています」
マルスの声は、途中でわずかに震えていた。
王女ではなく、ひとりの女の子の必死な祈りが、そこにあった。
エリーナはゆっくりと頷いた。
「その記憶だけを手がかりに、探すのは簡単ではないかもしれません。でも・・虹色の琥珀色の瞳と曲がった小指・・・それは、確かに強い特徴です。必ず見つけ出しましょう。あなたの約束の方を・・・」
マルスは目を伏せ、小さく「ありがとうございます」と呟いた。
その言葉は、王女としての礼ではなく、一縷の希望にすがる一人の女性の声だった。




