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「遅かったな、エリアス」
「サーシャ姫、お待たせいたしました」
「エリアス、そろそろホーリー嬢と踊る時間だぞ」
「ええ、そうですね」
「それにしても、今日はお前から珍しく葉巻の香りがするな」
「ええ、行きがかり上・・・仕方なくです」
エリアスは少し困ったように眉を下げた。
「臭いますか?」
「なぜだろうな? エリアスから香っても、ただ男らしく感じる。不思議なものだ」
「そうですか・・・では、行ってきますね」
「ああ、存分に話してこい」
エリアスは優雅な足取りでホーリーの元へ向かっていく。
その先には、期待に目を輝かせるホーリーの姿があった。
サーシャはその後ろ姿を見送りながら、ため息混じりに思った。
(なんて罪作りな男なんだ。と)
ダンスの曲が終わると、ホーリーはうっとりとしたまま、ダンスホールの中央で立ち尽くしていた。
(まるで夢のような時間だった・・・あのエリアス様と踊れたなんて! 普段は話すことすら叶わないお方なのに・・・)
(カイン様が夫になるとはいえ、お顔立ちは決して悪くない。けれど、エリアス様とは比べものにならないわ。葉巻の残り香に、爽やかなコロンの香り・・しかもたくさんおしゃべりできた。カイン様の弟、イアン様と友達になったって話も聞けたし、イアン様がよく顔を出す紳士クラブのことを話したら“私も興味があるな”なんて微笑んで・・・あんな風に喜ばれたら、何でも話したくなってしまうじゃない)
そのまましばらく余韻に浸っていたホーリーだったが、すぐに周囲の令嬢たちに囲まれた。
「どうしてエリアス様と踊ることになったの?」
と経緯を聞かれ、ホーリーは優越感に包まれながら、エリアスとの素晴らしいダンスについて熱弁をふるい始めた。
「どうだった?エリアス」
「上々でしたよ。いろいろお話も伺えましたよ」
「そうか。ではそろそろ帰るとするか?」
「ええ、サーシャ姫、ありがとうございました。ではエスコートさせていただきますので、お手をどうぞ」
サーシャはエリアスの手を取り、出口へ向かう。
「サーシャ殿下、もうお帰りですか?」
と、声をかけてきたのは、どこか残念そうな表情のバリュー侯爵だった。
「ああ。兄があまり遅くなるのを嫌うのでな」
「ラウール王太子殿下も、サーシャ様のことを心配されているのですね」
「・・・ああ、そっちもだが・・・煩いのは二番目の方だ」
「カミーユ殿下でしたか・・・」
「遅くなりすぎると、夜会に乗り込んでくるかもしれないからな。帰るとするよ」
サーシャはニヤリと笑って侯爵を見る。
バリュー侯爵は、わずかに顔色を曇らせた。
「それは・・・そうされた方がよろしいですな。では、お見送りいたしましょう」
カミーユ殿下。
上位貴族が恐れるその男は、現在、騎士団長を務めている。
見た目は軽薄そうな遊び人風。だが、実際には鋭い勘と抜け目のない目を持ち、どんな小さな綻びも逃さない。
彼に目をつけられた者は、捕まるまで永遠に追い続けられると噂されていた。
鼻が利き、容赦もない。
だからこそ、貴族たちは彼に関わることを、極力避けているのだ。
「エリアス、途中まで乗っていけ。その方が速かろう」
「ありがとうございます。では、ご一緒させてください」
エリアスは馬車に乗り込み、サーシャの向かいの席に腰を下ろした。
「さて・・・エリアス・・・・・いや、エリーナ。バリュー伯爵夫人からの依頼の進捗はどうだ?」
「やはり、サーシャ姫でしたか」
「たまたまジョエル公爵夫人のミラーに相談されてな。お前を紹介しただけだ」
「いつもお仕事を回してくださって、感謝しています。あと数回、イアンに接触すれば片が付きそうです」
「イアンか・・・とんだ男だな」
「ええ。調べれば調べるほど、婚約前にわかってよかったと思います」
「そういえば、バリュー伯爵の娘が今日来ていたな。置いてきて大丈夫か?」
「ええ。イアンには少し酒を飲ませておいたので、もう今夜は起きないでしょう」
「・・・潰したのか?」
「ええ、少しの酒と、これで」
エリーナはポケットから小さな瓶を取り出し、中の茶色い液体をサーシャに見せた。
「それは?まさか毒じゃあるまいな・・・」
「もちろん毒ではありません。植物から抽出した液体で、酒に数滴垂らすと酔いが早く回るんです」
「エリーナは本当に何でも知ってるな。感心するよ」
サーシャは興味深そうに瓶を受け取り、窓から差し込む光にかざして中を覗き込んだ。
「グレイ家には立派な図書室があるのに、誰も使わないんです。だから私の憩いの場として、ゆっくり好きな勉強をしてます」
「お前は、強いな」
「そうですか?考え方を変えれば、楽しい人生ですよ」
そう言って、エリーナは心から楽しそうに笑った。
「エリーナ、あんな家は捨てて、いっそ城に来ればいいのに」
珍しく、サーシャが年相応の甘えたような声で言う。それを見て、エリーナはふっと微笑み、サーシャの頭を優しく撫でた。
「サーシャ姫、先日もカミーユ殿下に同じことを言われました。でも私は今の暮らしに満足しています。飽きた頃には、自立できるだけの準備も整えておきますから、ご心配なく」
エリーナにとってサーシャは、昔から妹のような存在であり、とても大切な人だった。今でこそ才色兼備の姫君だが、幼い頃はよく兄たちに泣かされ、エリーナのもとに駆け込んできては、一緒に仕返しをしていたのだ。
馬車が指定の場所で止まる。
「サーシャ姫、送ってくださってありがとうございました」
「エリーナ、またいつでも連絡をくれ」
エリーナはこくんと頷き、すばやく馬車から降りた。
サーシャを乗せた馬車は、護衛に守られながら、夜の街を静かに城へと向かっていった。




