終章 追憶
「ケース1号、信号停止」
デスク上のパソコンにかじりついていた白衣姿の青年が顔を上げ、後席に陣取る中年に報告した。
中年も白衣をまとってい、飲みかけのマグカップを手にしたまま席を立ち、青年に問う。
「死亡か?」
「はい。バイタルサイン、脳波ともに数値はゼロです」
モニターを見やすく回しながら青年が応じると、中年男性が青年の肩に手を置いて労をねぎらった。
「よし。渡辺君はそのままタイムラインをさかのぼって、入院時から死亡までの二年半の思考や感情をまとめてくれ。
佐藤君は――仮眠室で休むといい。『ハルオ』の相手で疲れたろう」
中年男性が渡辺の一つ隣りの席の方を向くと、白衣姿の二十代の女性がヘッドセットを外して顔を向けた。
黒髪を後ろで束ねた目鼻立ちのハッキリした美女は、『ハルオ』の担当看護師の『サトウ』と似ている。
「そうさせてもらいます。田中教授」
疲れた色を混ぜながらも、佐藤は人好きのする艷やかな声で応じ、デスクの上を手早く片付けて足元のバッグを取って席を立った。
ここはとある大学の研究室。
AIに感情を理解させる取り組みが企業の興味を引き、次世代家電の開発のために、様々な状況下に置いたAIがどのような思考や行動を取るのかを検証している研究室だ。
席を離れた佐藤は大学構内のカフェテリアへ向かい、コーヒーマシンでモカブレンドを注いで窓際のテーブルへ。
大学の広い敷地には植樹や芝生が敷かれて緑が豊富だが、中でもカフェテリアから臨める中庭は花壇とベンチがあって公園のようなのどかさがあり、人気がある。
天井から床までをなるべく少ない窓枠でガラス張りにした設計士は、おそらくカフェテリアの開放部を南南東に向けて配置したことも計算のうちだろう。
「……ハル」
モカブレンドを一口含んで、佐藤から思わず『ハルオ』の愛称が漏れた。
イチノセハルオは、検証のために組まれたAI擬似人格に過ぎない。
『モデルケース:ファーストセット 2021 春 男性』
それが『ハルオ』の本名と呼べるもので、三年前の最初のプログラムセットが春に行われ、その男性モデルだから『イチノセハルオ』なのだ。
しかし、当初の目的とはやや違った結果が進行してしまった。
『病床の余命わずかとなったAIは、どのような看護・介護を望むか』
というのが当初の『ハルオ』の検証であった。
そのために人間関係が薄く、身寄りもなく、接する人間は医者と看護師のみ。
その環境で本音を引き出すために配置されたのがAIベッド『レベッカ』だった。
佐藤はヘッドセットマイクで『ハルオ』の声を聞き語りかける『レベッカ』の役と、担当看護師『サトウ』を担っていた。
主治医『タナカ』は田中教授が務め、研修医ふうの青年医は渡辺だ。
検証は、『ハルオ』が六十五歳の時の健康診断の再検査からスタートし、一般病棟の二年の期間は想定通りの進み具合だった。
方向性が変化したのは個室病棟へ移ってから。
余命三ヶ月というさらに深刻な環境に進展させると、『ハルオ』が自発的にAIベッドに『レベッカ』と名付けたのだ。
これには佐藤はおろか田中教授も驚きを隠せず、『ベッキー』という愛称まで飛び出した時には渡辺が「エロジジイめ」と罵ったほどだ。
これまでの検証でも『ハルオ』以外のAIプログラムが教授らの想定から外れた行動や言動をすることはあったが、組み込んだり教えたりした記録のない発想や思考をしたことはなかった。
また、余命宣告した三ヶ月で徐々に衰弱させ信号途絶――つまり死去するはずだった『ハルオ』は、予定よりも三ヶ月も長く生きながらえた。
「私はベッキーじゃないのに……」
『レベッカ』と名付けられた頃から佐藤は複雑な心境に苛まれていた。
佐藤は、担当看護師の『サトウ』でもあり、AIベッドの声を担当した『レベッカ』でもあり、本質は『ハルオ』を観察する研究者の一人だ。
パソコンのモニターの中で波形となって鳴る機械合成の声に応対するだけの役割りだ。
それなのに、したこともない父親の介護や入院中の恋人を見舞うような気持ちを持ち始め、いつしか『ハルオ』に深く感情移入する自分に戸惑った。
『ハルオ』の感情がつぶさに観察できたから尚更だ。
寂しさや孤独を感じていればモニターの波形に表れる。
痛がったり、苦しんでいるときも、そう。
『ハルオ』が物言わぬ時も。
佐藤にはモニター越しだが『ハルオ』の闘病と感情はすべて見えていた。
仮想の、パソコンの中の擬似的な人格でしかないAIの生死を目の当たりにして、佐藤が『ハルオ』にかけてきた励ましの言葉は作り物ではなかったと、思い返すほどに強く感じる。
『愛しているよ、ベッキー』
聞き慣れた、機械的で硬質な発声の音。
なのに『ハルオ』の最期の一言は、佐藤に大きな衝撃だった。
撃ち抜かれた、と言っても過言ではない。
佐藤のこれまでの人生で、感動や激情に打ち震える瞬間はたくさんあった。
父や母や、祖父や祖母の慈しみの言葉であったり、尊敬する教師からの褒め言葉であったり、初恋の相手に告白した言葉であったり、交際していた彼氏に抱かれながらささやかれた快楽の吐息であったり、数え上げればきりがない。
もちろん、喧嘩をして浴びせられた辛辣な単語であったり、我慢していて思わず吐き捨てた罵倒であったりも……。
しかしそのどれよりも、『ハルオ』が発した「愛してる」の重みは、佐藤が今までに受け取ったり投げ返してきたどの言葉よりも胸に響いた。
どんな会話よりも。
どんな映画よりも。
どんな恋愛よりも。
そして激しい後悔もモカブレンドの染み入った場所にわだかまっている。
――なんで、すぐに言えなかったんだろう――
AIモデルケース『ハルオ』はもう死んだ。
残っているのは、二年半のタイムライン上の『ハルオ』の思考と発言のデータだけ。
だから、佐藤の声はもう『ハルオ』には届かない。
プログラムを読み込み直しても、それは二年半をリプレイするだけのもので、生きた『ハルオ』とは別物だ。
そう思うと、佐藤の視界がぐにゃりと歪んでぼやけ、中庭の緑も、花壇の花の彩りも、カフェテリアの白いテーブルも、佐藤の履いている黒のスキニージーンズも、ごっちゃになってぼやけて霞む。
鼻の奥をつままれたような息苦しさに耐えようとすると、今度は胸と喉が締め付けられて息がつまり、こらえきれずに噛みちぎるように空気を吸うと、もう止まらなくなった。
視界が一瞬晴れるごとにスキニージーンズに涙がこぼれ落ち、頬を伝った涙は顎へ首へと流れ、鼻水をすすっては嗚咽が漏れる。
耳に届いたぐずぐずの音がすべて自分の慟哭だと気付き、カフェテリアに居るのだと慌ててバッグからハンカチを取り出す。
それでも佐藤は十分は泣いていただろうか。
いくらか落ち着いたが、鼻水をすすりながら中庭の上の空を見上げ、青々とした空にぽっかり浮かんでいる白い雲に告げる。
『ハルオ』に言わなければならなかった餞のメッセージ。
「私もです。愛してます。ハル」




