蓮の花
ある暑い夏の日のことでした。抜けるような青空を見上げて立ち並ぶ木立の間に、一匹の蜘蛛が巣を張って暮らしていました。
焼け付くような日差しに気圧されたように、生き物たちは木陰にその姿を隠し、いつもなら煩く飛びまわる蠅さえも姿をみせません。ですから、蜘蛛は、もう、ずいぶん長いこと、なにも食べていませんでした。とてもお腹を減らしていたのです。
夏の日差しは、容赦なく体力を奪っていきます。それでも蜘蛛は小さな銀色の巣の中に、じっと蹲って、獲物がかかるのを待っていました。空を飛ぶ羽根もなく、獲物を追う速い足もありませんでしたから、待つことしかできなかったのです。
突然、四方に張り巡らせた糸が揺れました。どうせ、また、風だろう。そう思った蜘蛛は身動きもしません。また、巣が揺れました。それでも、やはり動きません。本当に蜘蛛は弱っていたのです。
今度は、続けて揺れました。波が糸を伝わるように、繰り返し、繰り返し、足元に揺れが伝わってきます。とうとう蜘蛛は、その重い体を持ち上げてあたりを見回しました。するとどうでしょう。そこには一羽の蝶が、蜘蛛の巣から逃れようと美しい翅を羽ばたかせながら藻掻いていました。
蜘蛛はたいそう喜びました。喜びましたが、弱ったからだは素早く動いてはくれません。重たいからだを引き剥がすようにして起きあがると、ゆっくりと獲物に向って近づきます。気づいた蝶は懸命に、その翅を羽ばたかせます。その度に燐粉が空を舞い、光が反射してキラキラと光りました。
光の粒を舞い立たせながら、蝶は、なんども、なんども翅を羽ばたかせます。けれども、無慈悲な蜘蛛の糸は、羽をはばたかせるたびに、より深く、幾重にも蝶に絡みついていきました。
でも、蜘蛛はそんな蝶の様子に気が気ではありません。
あれだけ暴れたら巣が破れて、獲物が逃げてしまうかもしれない。早く確実に捕まえてしまいたい。
はやる気持ちを抑えきれなくなった蜘蛛が、いつもの用心深さをわすれて不用意に蝶に近づいたときでした。死物狂いで羽ばたいた蝶の羽が、蜘蛛を巣の上から弾き飛ばしてしまいました。
巣から放り出された蜘蛛は、真っ逆さまに落ちていきます。その脚が、かろうじて糸の切れ端をつかみましたが、高い木の上で、切れた糸にぶら下がったままでは巣には戻ることができません。下には、たくさんの石くれが転がっています。蜘蛛は思いました。
やがて力が尽きれば、あの、どれかにぶつかって死んじまうんだろうな。でも、死ぬこと自体は、あの蝶を食らったところで変わりはしない。いまの俺じゃあ、数日、生きながらえるのが精いっぱいだからな。
そして、蜘蛛は後悔しました。
だったら、俺は、どうして、蝶が巣にかかった時に逃がしてやろうと思わなかったんだろう。
俺が落ちて死んだとしても、あれだけ大量の糸が絡んだんだ。あの蝶だって巣から逃げることはできないだろう。
蜘蛛は、弱っていく力を振り絞って糸にしがみつきながら、呟きました。
「俺は、このまま落ちて死んじまう。あいつも、巣から逃げられずに死んじまう。ああ、なんてことだ。ちくしょう。」
そのときでした。頭の上から、やさしい声が聞こえてきました。
「大丈夫、あなたを引き上げることはできそうです。どうせ、私は、もう、この糸から逃れられません。どちらか生き残るとすれば、あなたしかいないのだから。だから、助けてあげましょう。」
蝶は、そう言うと、藻掻くように、何度も羽ばたきながら、自分のからだに幾重にも糸を絡みつけていきました。次第に、羽ばたきもできないほどに、たくさんの糸が絡みついていきましたが蝶はやめません。蜘蛛のからだは、少しずつ、巣のほうに引き上げられていきます。そして、最後の力を振り絞るように蝶が暴れたとき、とうとう蜘蛛は、巣の上に戻ることができました。蜘蛛はたいそう喜んで、蝶にお礼を言おうとしました。
「ありがとう、あんたのおかげで・・・」
そう言いかけた蜘蛛は、もはやどうしようもないほどに、雁字搦めになった蝶をみて言葉を失いました。
「なんてことだ。これじゃあ、もう、俺にだってどうしようもない。お前を、この巣から逃がしてやることは、もうできない。俺は、どうすればいいんだ。」
蜘蛛は哀しげに蝶を見つめたあと、自慢の種だった銀色に輝く巣を睨みつけています。そんな蜘蛛に向かって蝶が、やさしい声で話しかけました。
「後悔する必要なんかありません。あなたが近づいてきたときには、もう、逃げられないことは解っていたんです。それでも死ぬことが怖くて。その牙が怖くて、がむしゃらに暴れてしまいました。そのせいで、危うくふたつのいのちが消えてしまうところだったんです。
だから、どうぞ、哀しまないでください。私が花の蜜を奪って生きるように、あなたが、私のいのちで生きながらえることは、当たり前のことではありませんか。」
蝶は、蜘蛛に向かって静かに笑ってみせました。それでも蜘蛛は哀しくて、哀しくて仕方がありません。暗い虚ろのような瞳から涙が溢れてきました。生まれて初めて流した涙でした。
蜘蛛の涙は脚を流れ落ち、糸の上で水滴になって、やがて、糸を伝うように蝶のほうに流れていきました。
「ありがとう。最後に、こんな綺麗な水で喉を潤すことができて、しあわせです。本当に、ありがとう。」
蝶は、そう言うと蜘蛛の流した涙を飲みほしました。蜘蛛は無言で、そんな蝶の様子をじっと見つめていましたが、やがて、背を向けると糸を伝って立木の幹の影に消えていきました。蝶は考えました。
どこへいったんでしょう。私に助けられたから、このいのちを奪えなくなったんでしょうか。それとも、私のいのちは奪うのに値しないものなのでようか。
やがて夕暮れがきて、涼しげな風が吹き始めた頃、蜘蛛は戻ってきました。八つの脚には、黄色い花粉をたくさんつけて、背中には、大きく透明な水滴を背負っていました。蜘蛛は、蝶の前までくると背中を向けて、その水滴を目の前にそっと降ろして言いました。
「すまん。慣れないで、これだけしか採れなかったよ。」
蝶は、その匂いにはっとして急いで口に含んでみました。間違いありません。それは花の蜜でした。
「お前を食うなんてできそうにもないから。だから、俺が生きているうちは、こうして、お前に蜜を届けてやるよ。」
蜘蛛のその言葉に蝶は叫びました。
「いけません。この巣の様子で解ります。あなたは、もう、何日も獲物を食べていないのでしょう。早くしないと、あなたのほうが先に力尽きてしまいますよ。さあ、早く。」
蜘蛛は、少し淋しげな顔で笑って言いました。
「俺はもう決めたんだ。それに腹ならいつも空いてるからな。いまに始まったことじゃないんだ。」
それだけ言うと、重たい足どりで蝶に背を向けて、巣の端のほうまで行って蹲りました。いつの間にか辺りは暗くなって、蝶には蹲った蜘蛛の影しかみえません。その影も、だんだん滲んでみえなくなりました。
次の日も、朝と夕方、蜘蛛は蝶の前に蜜を運びました。蜜を運び終えると、蜘蛛はすぐに背を向けて、巣の端に蹲ってしまいます。蝶も、言葉を忘れたように黙ったまま、帰っていく蜘蛛を目で追い続けました。
蜘蛛と蝶は、もう互いに言葉を交わそうとはしません。二匹には、それぞれに相手の想いが手に取るようにわかりました。そして、それを受け入れられない互いの想いも解っていました。ですから、もう話す言葉はありません。
穏やかな哀しみと、不思議なほどの平安が互いの間に満ちていきました。
蝶が動けなくなってから三日目の朝のことでした。蝶が目覚めると、目の前にはいつものように蜜が運ばれていました。蝶は蜘蛛を探しました。今朝は、すぐ近くに蹲っていました。蜘蛛は、蝶に向って力なく微笑んで言いました。
「ごめん。これが最後だ。どうやら、俺は、お前の苦しみを少しばかり先に延ばしただけだったようだ。本当に、すまない。許してくれ。」
そう言ったきり蜘蛛は目を閉じて動かなくなり、やがて呼吸を止めました。蝶は、何度も蜘蛛に向かって叫びました。けれども、蝶が、どれほど叫ぼうと、呼ぼうと、もはや蜘蛛が動くことはありません。辺りに答える声はなく、ただ、夏の暑い日差しが容赦なく降り注いでいました。
それから、日が暮れて日が昇り、どれほどの時が流れたでしょう。弱まりゆくいのちを感じながら、蝶は考えていました。
蜘蛛は、そのいのちを助けた私を食うことができずに、無駄になると解っていながら、その弱ったいのちを費やして私を生かそうとしてくれました。私も、このいのちを蜘蛛に受け取ってもらえないまま、いま、ただ無為に、このいのちを終えようとしています。
誰か答えてください。
私たちのいのちは、生きとし生きるものの営みの中にあって、なにものにも繋がらない意味のないものだったのでしょうか。
確かに、蜘蛛は私を救えず、私も蜘蛛を救えないまま、こうして死んでいきます。ですが、これほど自分以外のいのちを想いながら死んでいく、私たちのいのちは、本当に無駄なものだったのでしょうか。
いえ、違います。きっと、そんなことはありません。
私は、いま、死に向いながら、こんなにも穏やかな気持ちでいます。先に眠ってしまった蜘蛛も、たぶん、同じ気持ちだと思います。とても安らかです。
やがて蝶は、蜘蛛に、微かな力で微笑みかけます。
「ありがとう。さあ、私も、そろそろ眠りましょう。」
そう呟くと、目を閉じて最後の息を吐き、静かに呼吸を止めて目覚めることのない眠りにつきました。辺りには、暑い日差しが降り注ぐだけで、二匹のいのちが終わりを迎えたことに気づくものはありません。吹き過ぎる風だけが、二匹を目覚めさせようとでもするかのように、やさしく巣を揺らしていくだけです。
けれども、蝶の想いは消えることはありませんでした。そして待っていた蜘蛛の想いとともに、折からの風に乗って、遥かな空へと舞い上がっていきました。
空の上で一部始終をご覧になられていたお方は、蝶と蜘蛛の想いを、たいそう愛しく、そして憐れに思われました。そして二匹の魂をお傍に呼び寄せられると、美しい蝶の翅と蜘蛛の八つの脚を紡ぎ合わせるようにして、蓮の花に変えてしまわれました。
それからというもの、この美しい八葉の蓮の花は、いつまでも、そのお傍近くに留め置かれ、花を観るすべてのものの心を慰めたそうです。
昆虫を擬人化して寓話にしたいという思いよりも、いのちのあり様を、あまり生々しくなく、けれども、ある種の極限状態の中で考えてみたいと思いました。
リアルな設定では手に余りますし、なにより救いがありませんので、設定を昆虫の世界にして、きれいごとで終われるように、童話の形式にしました。
人の「優しさ」と「恐ろしさ」、「自己犠牲」と「我欲」は、サイコロの目のようなもので、どちらが現れるのか、その状況の中で転がしてみなければわかりません。個人的には、そう思います。
実は「神」も「悪魔」も、その進化の中で、人間が育て上げてきたものではなかろうかと思っています。そう考えれば、地獄も極楽も、人の傍にしかありません。
人間の社会は、表面的には良きことを思いながら、善悪、創造と破壊、生と死といった両極の価値観の中で揺れ動いているように思われて仕方ありません。
筋書きに厚みを持たせるためにということで、悲惨な物語の中で美しい心が描かれるのも、美しい物語の中に醜さが垣間見えるのも、そのダイナミズムを、人が欲しているからだと考えてしまいます。
さしずめ、「ギャップ萌え」でしょうか。
このお話は、綺麗なほうの話に仕あがりましたけれど、実際、私の中には、いくつかのアナザーストーリーがあります。
そういう意味では、童話もホラーもささやかな違いなのかもしれません。