55. ロベルトの母 〜人語を話す竜〜
バサッ、バサッ、バサッ
大きな翼が空を切る音がする。一匹の竜が、翼を目一杯広げ、目的地を目指して飛んでいた。
遮るもののない空。見下ろせば、美しい真っ白な雲、美しい緑の森、美しいなだらかな青々とした山々、美しいせせらぎの川、美しい鏡のような湖、そして人家。
世界はこんなにも美しい、のに。
しかし、諍いは、絶えない。
ギアという名のこの竜は、澄んだ悲しい目をして、目的地へとただ急いで飛んでいた。
そのとき突然、眼下の一角の崖から、一匹の竜が飛び出してきて、ギアを目掛けて突進してきた。
真っ赤な目をカッと開き、歯を剥き出しにしている。翼を力一杯羽ばたかせ、敵襲とばかりにギアを狙う。
そして、竜はギアとすれ違いざまに、すぐ上を陣取ると、大きな口をガバッと開き、ギア目掛けて、炎を吐いた。
ギアは一瞬驚いたものの、ふいっと体勢を変えて、炎をやり過ごした。
そしてギアは魔力を目に集中させ、目をギラリギラリと光らせてその竜を見た。その竜と目が合った瞬間、その竜は頭の中が弾けたようにのけぞって、全身の力を失ったように動きを止めた。
そして、そのままその竜は、気を失ったように、地表にずんと落ちていった。
森を離れた下等な竜め。炎を吐くしか能のない—。
何だ? 俺、ヤツの縄張りでも犯したか? ギアは首を傾げた。
しかし、ギアは自分が集落に向かって急いでいたことを思い出すと、はっとして、また一目散に飛びはじめた。
ギアは目的地の森のはずれに着くと、優雅に空を旋回し、そしてゆっくり舞い降りた。
そして、地表に降り立ってフルフルと身震いすると、一瞬でその姿は人の形になった。
短い銀髪の男の姿。灰色の瞳、透き通った肌。
ギアという名のその竜は、人型のまま、深い森の奥へと歩き入った。
古い森。太い樹々がところ狭し立ち並んでいる。太陽の光を求めて高く高く成長し、葉をうっそうと繁らせる樹々は、太陽の光をその葉で全て受け止めるため、光は地表にはほとんど届かない。
ギアは薄暗い森の中を、急ぎ足で歩いて行った。
やがて、少しだけ木がまばらになり、うっすらと日の光が届く場所にやってきた。そこにはギアたちの住む小さな集落があった。
竜の、集落。
木を切り倒して組まれた、小さく粗末な小屋が、数十軒まばらに建っていた。
この集落では100匹ほどの、人型で隠れ住む竜たちが、細々と暮らしている。
皆、銀髪、灰色の瞳、透き通った肌だ。
この古い森には、こうした人型で隠れ住む 竜の集落が、もう少しだけ点在している。
人間に知られないように、ひっそりと。
集落に戻ったギアは迷わず、長老竜の小屋を訪れた。
長老竜の小屋とはいっても粗末で、水回りと木を組んで作った食卓、別室の寝室くらいしかない。唯一、熊の毛皮が、敷物としてあるくらいだ。
ギアを見ると、
「どうだった」
と長老竜は聞いた。
長老竜は老いていて、もう銀髪にも艶はなく、肌も透き通るようなというよりは、ただ青白く見えた。ただ灰色の瞳だけはギョロギョロとしており、この世界の変化を注視しているように見えた。
「噂通りです」
とギアは答えた。
「竜が一匹、人間によって毒で殺されたようです」
長老竜とギアは、リーナの作った竜を殺める毒について話しているのだった。
「その竜は?」
と長老竜は聞いた。
「ええ、大昔にこの森を離れた竜の子孫です。人語も話せない。我々の仲間ではありません」
とギアは淡々と言った。
「そうか、人語を話せない竜だったか。人間を襲ったのか?」
と長老竜はまた尋ねた。
「おそらく。その竜の巣の近隣の村で、竜の被害があったという噂も聞きましたから」
とギアは、その殺された竜の軽率さに少し残念がりながら答えた。
「それは人間に駆除もされよう」
と長老竜はうなずいた。
しかし長老竜は、
「だが、毒、か」
と問題視するように言った。
「はい。その毒が、我々にも効くのかどうか」
ギアもそこが心配だった。
「最近は、妙な魔術が使われていて、この我々の森を離れた人語を話せない竜たちが、この国に集められているようだ」
と長老竜は言った。
「はい。それで、単純に増えた竜のせいで、人間たちへの被害が増えていると聞きます」
とギアも答えた。
「そうだな。彼らは獲物に見境がない。人間にも手を出すようだ。だから、人間たちもあの手この手で竜を駆除しようとしているのだろう」
長老竜は、少し遠い目をした。
「私たちのように隠れ住んでいる者からすれば、本当に迷惑な話です」
と、ギアはうんざりしながら言った。
「そう言ってやるな。あの竜たちはもう言葉も失い、アルデバランのことも忘れ、魔力も薄れたために魔術も十分に使えなくなっている。彼らはもう、浅はかさを訴えられる程の存在では、なくなってしまったのだ」
と長老竜も残念そうに言った。
「とは言え、竜は竜だ。大昔の同胞だ。あまり気持ちの良い話ではないな」
と長老竜は、ため息をついた。
「まぁ人間に遭遇しなければ、そして我々が人間の形をしていれば、我々にはその毒を使われることもあるまい」
と長老竜は断じた。
長老竜には、集落の仲間を守る義務がある。リーナの毒の件は、大きな懸案だった。
竜を殺める毒を作るとは、ここ100年そんな人間は見なかった。たいそうな人間だ。
「しかし厄介なことですね。竜が人間を襲って騒ぎを起こすなんて。私たちにはアルデバランという別の目的があるというのに。こういった問題にまで、気を注がなくてはならないなんて」
とギアめんどくさそうに言った。
「まぁ、遠い昔の同胞だ。あまり悪く言うな」
長老竜はギアを諫めた。
「とりあえず、ギア、ご苦労だった。君は本当に若いのに、やる気ある誇り高き仲間だ」
と長老竜はギアを労った。
ギアは一先ず軽く頭を下げて、長老竜の小屋を出た。そして、自分の小屋へ急足で向かった。
自分の小屋の前で、一人の美しい壮年の女が、か細い腕で薪割りをしていた。
「母さん! 薪割りなら俺がするのに!」
とギアは慌てて走っていて、母から斧を奪った。
「ああ、ギア! 帰ってきてたの? 無事でよかったわ。遠い旅だったでしょう。疲れてるんでしょうから、中に入りなさい」
と母竜はギアの背中を軽くぽんぽんと叩いて、小屋の中へ促した。
母竜はギアを椅子に座らせると、白湯を出した。
ギアは白湯を美味しそうに飲み干すと、ほっと一息ついた。
「どうでした、久しぶりの人間界は」
と母竜は聞いた。
「やはり噂は本当でした。森の外の竜たちは、奇妙な魔術によりこの国に集められていたし、その竜を殺す毒も開発されていました。少しずつ世界は様変わりしているようです」
とギアは簡単に説明した。
「そうですか、毒……」
と母竜はゆっくりと言った。
「母さん」
ギアは、この旅で少し思いついてしまったことを、思い切って母竜に聞くことにした。
ギアは今回の旅で、人間に混じって情報を収集している間に、多少なりとも人間との触れ合いというものを感じたのだった。良くない人間もいたし、良い人間もいた。
ギアが良くない人間に騙され金を奪われたとき、手を差し伸べ、温かい食事と寝床を与えてくれた人間がいた。
ギアは、見ず知らずの自分が、純粋な善意を人間から向けられるとは思ってもいなかった。そして、このことは、人間について考えるとき、きっと必ず思い出すことになるだろうとも思った。
だから、もっと長いこと人間界に潜入していた自分の母竜は、もっと人間に対して、色々な想いがあるのではないかと思った。
つまり、ギアは、今までただ憎んできた人間という生き物に対して、複雑な気持ちを抱いてしまったのだった。
「母さんは人間界にいたことを、今でも思い出したりするの?」
母竜は、ギアのおどおどした質問に、ギクッとした顔をした。しかしすぐに態度を取り繕った。
「そりゃあ、思い出したりしますよ。人間のふりをして、お城のような家に住んでいたのですからね。あれは夢だったのか、本当だったのか、と未だに思いますよ」
と母竜は微笑んで言った。
「母さん! ちゃかさないで。そういうことじゃなくて」
とギアは母竜をじっと見つめながら言った。
母竜は、察した。ギアは物事には多面性があることに気づいたのだ。ギアは本気で聞いているのだろう。もうギアは小さな子供ではない。
母竜は真面目な顔をして、ギアの方を向いた。
「そうね……」
母竜は少し辛そうな顔をした。
「おまえにはもう話したと思うけど。人間界に子供を一人、残していますからね。あの子が幸せにやっているかどうかは、片時も思わない事はありませんよ」
母竜は素直に答えた。
「ロベルト兄さんの事ですね」
ギアは困った顔をした。
それも、ギアの死んだ父や長老竜たちから、母竜の人間界潜入時の犠牲の一つとして教えられてきた。
「でも、人間との子供だろ?」
とギアは思いの定まらない声で言った。
「母さんは皆のために、人間界に、あの宿敵ヒアデス家に、潜り込んでくれたんだろ。仲間のために犠牲を払ってやってくれたんだ。人間の子供なんかに、そんな言い方しないでいいんじゃないの?」
とギアは聞いた。
「宿敵、ね」
と母竜はつぶやいた。
母竜は、初めて妻として、ウィリアム・ヒアデスに抱かれた夜のことを思い出したが、急いで首を振って頭から追い払った。
「おまえももう分かってきているのでしょう。そんなに割り切れるものでもないってことが」
と母竜はギアを嗜めた。
ギアは、はっとした。母竜に見透かされたようで、恥ずかしくなり、強情な顔に戻った。
「人間に同情の余地なんかない! 皆が言ってるんだ」
「そうですね」
と母竜は、それ以上はギアを刺激しないように、同調して答えた。
「そんなことより、母はおまえが心配です。母さんがヒアデス家の件で、アルデバランを見つけられずに失敗してしまったから、おまえはそのことを気に病んでるのではないの? 長老竜の言う、いろいろ危険なことに自ら志願して」
と母竜は心配そうな目でギアの顔を見た。
「べ、別に! 母さんの名誉挽回のためにとか、か、考えてないから!」
ギアは赤くなりながら言った。
「本当ですね? あなたは自分のために生きないといけませんよ」
と母竜は強い口調で言った。
「そんなこと、分かってる。俺は俺のやるべきと思ってることをやってるんだ!」
とギアは言い返した。
「ならいいんです。母さんのせいでおまえが苦しむのは、母さんは絶対に嫌ですからね」
と母竜は言った。
それから母竜は 遠い目をした。
ロベルト、あなたは幸せにやっているでしょうか。
あなたは、私を恨んでいますか?
母さんのせいでおまえが苦しむのは、母さんは絶対に嫌です。
母さんのせいで、おまえが苦しむのは、母さんは絶対に、嫌、なのです、よ。
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