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一般向けのエッセイ

今、この時

 ヤフーニュースのコメント欄を見ていると(くだらないなあ)と思う事が多い。結局、正論めいた事を延々話しているだけで、一種のさざめきとして時間の中に消えていくだろう。

 

 普通の人と話していると彼らは「今」にしか生きていないと感じる。時間というものの積み重ねが感じられない。成長というのは堆積であるはずなのに、それが「アップデート」、つまりは上書きとなって、ただ瞬間瞬間を生きるだけになっている。

 

 もっともこうした状態は社会が望んでいるものと言えるかもしれない。企業は毎回毎回新しい商品を買ってもらわなければならない。いつまでも一つの商品を持続して使われたら困る。健忘症でただ「今」を生きる人間こそが、現代人のエートスという事になるのかもしれない。

 

 ※

 

 ただ今回は「今、この時」の価値について書いておこうと思う。

 

 ヤフーニュースのコメントがくだらないと感じるのはこの事とも関わっている。


 私はスポーツを見るのが好きで、サッカーとか、野球を見ている。特に野球は人気スポーツだから、色々なコメントが寄せられている。

 

 コメントの著しい特徴としては、「勝てば官軍」的な、結果論という事にある。ある選手が結果を出すと、その選手が結果を出すに至った「理屈」が次々生まれてくる。が、その選手が結果が出ない日が続くと、また結果が出ない「理屈」が次々生まれてくる。

 

 ここでは理屈は結果に追随して現れるに過ぎない。だが、論じたり、いいねをつけたりしている人達はおそらくそう感じていない。その時々に(なるほど)と納得するのだろう。しかしその納得はその時限りのものでしかないから、その次に、真逆の理屈が言われてもやっぱり(なるほど)と納得する事ができる。理屈は結果の後をついていくので、常に正しいような気がするが、その正しさは瞬間でしかない。瞬間によって細切れされる現代人の人生がここにも現れている。

 

 ネットの理屈というのはそういうものでだから「勝てば官軍」的なノリである。そういう状態であれば、永遠に間違う事はない。絶えず現実に理屈を沿わせているだけだから。しかし、優れた思想家などは、それとは逆の事をしている。彼らは様々に矛盾した現象の中に統一的な理論の筋を通そうとする。そうして現象を解明しようとする。

 

 ※

 

 スポーツ選手の話に戻ると、彼らが結果を出すためにはどうしているか。「今、ここ」の問題に絞って考えたい。


 ある選手が良い結果を出すと、メディアやファンは色々な事を言う。「前日のコーチのアドバイスが良かった」とか、逆に、悪い結果だと「やっぱり新人にはこの日程は厳しいよ」などと言われる。

 

 今、私は野球をイメージしてるので、野球のバッターに絞る。…今言ったような理屈をもう一度考えてみよう。

 

 一人の選手がバッターボックスに立つ。そのバッターボックスにおいて「前日のコーチのアドバイス」はどんな風に作用しているだろうか? あるいその選手の日程はどんな風に作用しているだろうか? …日程は「疲労」という形に肉体的に現れているだろう。だが、疲労して打てる選手もいれば、打てない選手もいる。

 

 私が言いたいのは「今ここ」というものの場所は「今ここ」にしかない、という事だ。「今ここ」においては逃げ場はない。

 

 理屈はどういう風にもつけられる。しかしバッターボックスに立った選手は次の瞬間にボールが来て、それを打つ。その動作をその時の自分によって成し遂げるしかない。ある瞬間、つまり「今ここ」を、他の瞬間に逃がすわけにはいかない。

 

 私の言っている事は難解に聞こえるかもしれないが、至極普通の話をしているつもりだ。

 

 例えばある選手がホームランを打った前日に、母親が亡くなったりしてると、「母に捧げる一発」みたいな見出しがついたりする。だが、母の事を考えながら、バットを振れないだろう。バッターボックスに入ってバットを振るという行為は、その時の自分に課せられた責任である。その時という現象でしか片がつかないなにものかである。それが今を生きる、という事だ。

 

 現象は今この時にしかない。だから人は、舞台に上がる前に「緊張」する。「緊張をどうしたらなくせますか?」と聞く人がいるが、緊張というのは、「今この時」の責任は「今この時」でしか果たせないという意識から起こってくる。だから緊張するのは普通の事だ。どれだけ入念に準備してきたとしても、果たしてうまくいくかわからない。「今この時」はあくまでも「今この時」だからである。それ以外の瞬間ではないからだ。

 

 傍観者にとっては「今この時」はない。考えなくて済む。だから現象に対して事前にあれこれと言い、事後にそうなった理由についてあれこれと言う。しかし彼らには「今この時」における慄きがない。瞬間の生がない。

 

 今この時、というのは不定のものである。どうなるかわからないものだ。「その時のフィーリング」というのが大切になるのは、その瞬間にならなければわからない事があるからだ。

 

 あるベテランの役者が「他の役者が台本を読み込んでガチガチに役を作り込んで演じようとしたら、わざとそれを壊す芝居をする」と言ったのを聞いた事がある。この時、前日に作り込んできた役者は、当日、その瞬間というのは、前日ではない別の時だという事を理解していない。ベテランの役者はそういう事が言いたかったのではないかと思う。

 

 もちろんこういう事は、それまでの準備や修練の無意味さを説くものではない。準備や修練はものすごく重要で、それが土台だ。その土台はあくまでも土台として自分の中にあるが、今この時においては、「失敗するかもしれない」という緊張感の中で今と立ち向かう事になる。この慄きが消える事はない。消えたらそれは、今を失うという事だ。

 

 私はネットのコメントから話を始めたが、彼らに対する違和感は現象の理由を過去に求め、今この時の慄きを見ようとしないという事にある。傍観者には「今この時」は関係のない話である。この事は、生きるという事が、ある体系の内にあるというのを暗示している。

 

 人間は理性で、色々な理論を作ったが、人間それ自体を理論の内に当てはめて安堵しようとしている。そこで疎外されるのは「今この時」を生きる権利である。過去の流れから今も、未来も決定されているのであれば、安定はしているが緊張感もなく、慄きもない人生になるだろう。現象は、過去においては理屈になり、未来においては反省の対象となる。

 

 1985年のタイガースの優勝の原因をいくらでも探る事ができる。何故優勝したのか、後からいくらでも反省できる。だが、実際の出来事は「今この時」というものを生きる事によってしか達成されない。過去の栄光にすがろうとしている人達にとってはおそらく、「今この時」の恐怖というのは、避けたい厄介なものに感じられるのかもしれないが、それでも人は今以外に生きる場所を知らない。どんな精巧な理屈も、今この時の慄きを完全に消し去る事はできない。



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