心強い温かさ
金曜日の夜七時。陸斗が駅へ着くと、待ち合わせ場所の銅像の前には、すでに実花がいた。
「橋本さん、遅くなってごめん」
「ううん、私も今来たところ」
それじゃあ行こうか、ということで夜の大学通りへと歩き出す。
結局、弁当をもらったその日の深夜に実花から返信があった。役に立てて良かった、食べてくれてうれしい、という言葉に添えられたかわいらしいスタンプ。返すのはいつでも良いですよ、と予想通りの返事が返ってきたため、勇気を出して食事に誘えば、これまた「お礼だなんて、気にしないでください」という予想通りの反応。そこを、美味しい中華料理屋を紹介したくて、と学生時代に行った店の紹介の延長であるというニュアンスを告げれば彼女は「じゃあ、お言葉に甘えて」と言ってくれた。我ながらズルいとは思うが、また彼女と食事をしたいと思ったのだから仕方がない。そこから日にちをすり合わせ、やはり金曜日の終業後となったのだった。
「このあたり、中華料理屋さんもあるんだね」
「うん。たまにどうしても中華が食べたくなる時ってない? そういう時に友達と行ってたんだ」
「分かる! 今日は中華だ、って思う日ってあるもん」
えへへ、と笑う彼女は、前回よりも自然に笑っている気がした。今日は最初から敬語ではないし、何度かメッセージアプリでもやり取りをしたから、慣れてきたのかもしれない。かくいう自分も、社会に出てから出会った人に対して、ここまで砕けた態度でリラックスできているのは初めてだ。何を食べようかな~、と鼻歌交じりに隣を歩く彼女をちらりと見る。きっとこの飾らない彼女の姿がそうさせているのだろう。
夜の七時ということで、大学通りにはまだまばらに人がいる。確かうちの大学の五限は十八時半までだったはずだ。学生とみられる人が大学のある方面からぞろぞろと歩いてきている。
陸斗自身は、放課後の時間は全てバイトに充てていたため、なるべく五限はとっていなかった。それでもやはり、補講やガイダンスで取らざるを得ないときもあり、そんな時はやたらとお腹がすいたなぁとぼんやりと思い出していた。
「一条さん?」
黙ってしまった陸斗を不思議に思ったのだろう、きょとんとした顔で実花がこちらを見つめていた。
「ん、あぁいや、ちょっと大学の時のことを思い出して」
「あぁ、一条さんはここの大学だったもんね。どんな大学生だったの?」
「別に特に代わり映えしない、普通の大学生だったよ」
「そうなの?サークルとかは?」
「うーん、バイトしてたからなぁ。サークルには入ってなかった」
学費を稼ぐために必死だったあの頃。塾の講師と、レストランのバイトを掛け持って、ひたすらに働いた。飲んでばかりのサークルに入る友人もいて、彼は彼で楽しそうではあったけれど、残念ながら陸斗は楽しめそうになかった。これといった趣味は特になく、強いて言えば料理だったが、こちらはバイトで十分欲は満たされたし、友人と安い美味しい店で昼食をとるだけで満足だった。塾の講師も、家で弟たちの勉強をみる事を楽しいと感じるタイプなので、今から思えば合っていたのかもしれない。
「ふぅん、私はちなみにパン屋さんだったな」
だから早起きは得意なの、と笑う彼女。サークルに入っていなかったというと、「それでつまらなくなかったの」と聞いてくる層は世間に一定数いるのだが、彼女は気にも止めなかったようだ。そこがまた、安心する。
「へぇ、もしかしてパンが好きなの?」
「うーん、それもあるけどね。正直、研究室が忙しくて早朝じゃないとバイト出来なかったの」
パン屋さんは早朝のシフトがあるからね、と言われて納得した。確かに、友人で理系のやつは実験のスケジュールが厳しくて、夜まで実験をしたとぼやいていた。
「やっぱり忙しいんだな、理系って」
「うーん、でも、好きで選んだ道だから」
少し考えるそぶりを見せてから、彼女はふいに呟いた。そこに見栄や偽りは含まれていなくて、きっと彼女は本心からそう思っているのだろう。仕事に対する姿勢もだが、彼女は学生時代からこうだったようだ。
清々しいほどにさらりと言った姿に感心していれば、遠くに古ぼけた看板が見えてきた。
「あ、あそこ」
指差した方角には、腰程度の高さの看板が。店名が描かれた赤いプラスチック板の端の方は、長年風雨にさらされて割れてしまっている。
少しくすんだガラスの扉を押せば、「らっしゃーい」という声が聞こえてくる。奥の厨房からひょこりと顔を出した、白いタオルで頭を巻いているおじさんが、くいっと奥のテーブル席を指差す。そこに座れということなのだろう。
十五席くらいしかない狭い店内はそこそこ混んでいて、時間的にも学生と見られる客が多い。みんな常連といった面持ちで、一人二人で来ている人が多かった。
奥のテーブル席は二人がけで、荷物置きようの小さな籠が置かれている。立て掛けられていたお品書きを開くと、勢いのある文字で日本語が並んでいる。
「うわぁ、結構色々あるんだね」
「うん。こっちの一品物は白米も一緒に頼むと定食にしてくれるよ」
お品書きを開いた途端に目を輝かせる彼女。青椒肉絲、麻婆豆腐、回鍋肉。メジャーなメニューばかりだけど、どれも魅力的だ。それに加え、別のページには餃子や拉麺、炒飯もある。
「うーん、迷うな……」
「だよな。俺もいつも迷うんだ」
真剣に眉をひそめる彼女がなんだかおかしくて、思わず笑みがこぼれる。
「もう、また笑って」
「ごめんごめん」
軽口を言い合いながら、あーでもないこーでもないと二人で一つのメニューを見つめる。こっちも美味しそう、これの辛さは、等々、学生時代の思い出も交えて話していれば、いつの間にかおじさんがこちらの様子を伺うような視線を送っていた。
「じゃあ、青椒肉絲を二つ」
「ライスもお願いします」
結局、色々悩んだ末に、二人とも同じメニューを選んだ。
「ふふ」
「ん、どうかした?」
くすくすと笑う彼女を不思議に思えば、彼女はおかしそうに笑いながら口を開いた。
「この前と同じだなって思って」
「この前?」
「生姜焼きを頼んだ時のこと」
あの時も一緒だったよね、食の好みが似ているのかも、なんて笑う彼女に、あの時は君があまりにも美味しそうに食べるからつられたんだ、なんて言えずに「そうだね」と曖昧に返す。
なんとなく気恥ずかしくなって、話題を変えるように「そうだ」と鞄のなかから、オレンジ色のランチクロスを取り出す。
「これ、ありがとう。ごちそうさまでした」
「あぁ、洗ってくれたんだね。ありがとう」
美味しかったよ、と言えば、彼女はとても嬉しそうに笑う。
「そう言ってもらえてすごく嬉しかった。誰かに食べてもらうのなんて、すごく久しぶりだったから」
「そうなの? すごいな。俺なんて、自分のためだけだったら、すごく手抜きをしちゃいそうだ」
「いつ休憩が取れるか分からないからね。お弁当を持っていくのが効率が良くて。それに、お弁当作りはもう習慣みたいなものだから」
「へぇ、もうずっと自分で作ってるの?」
「うん、中学生の頃からずっと」
中学生の時から、それは陸斗の想像よりもはるかに昔からで驚いてしまう。てっきり社会人になってからだと思っていたけれど、中学生からといえば、かれこれ十年は作っているのだろう。
「私の家、両親が共働きでさ。私が学校に行く頃には家にいないし、寝るときもまだ帰っていなくて。だから、ずっと自分で作っていたんだ」
だから料理は得意なの、と言った彼女は、初めて見る、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。
何を言ったら良いのか分からず、どうしようかと思ったところ、タイミングよく料理が運ばれてきた。
白いお皿にこんもりと盛られた青椒肉絲に、ほかほかの白米。小鉢としてザーサイが添えられていた。
「うわぁ、美味しそう。いただきます」
「いただきます」
料理を見や否や、ぱぁっと明るい表情になった実花は、すぐさま手を合わせた。行儀よく挨拶をする彼女にならって挨拶をし、パチンと割り箸を割った。
しっかりとした味付けの細切り肉に鮮やかなピーマン、しゃくりとしたタケノコは、どれも熱々で、ほかほかの湯気とともに良い香りが漂っている。箸で挟んで一口食べれば、じゅわりとオイスターソースと肉汁がぶわりと口の中で広がった。
これが白米に合うんだよな。
こんもりと盛られたつやつやの白米を口に運ぶ。それは青椒肉絲とよく絡んで離さない。
「っ、おいしい!」
声につられて顔を上げれば、目の前で実花がお茶碗を片手にしんそこ美味しそうな顔をしていた。とろりと溶けたような表情から、やはり連れてきて良かったな、と思う。
「お肉はしっかりと味が付いていて柔らかいし、ピーマンは苦みもなく食べやすいし。これはご飯が進む!」
宣言通りに白米の手が止まらない彼女。
「タケノコもきちんと火が通っているのに、食感もしっかり残っているのがすごいよな」
彼女につられて思わずそう返せば、うんうんと大きく縦に首を振られる。
「中華の火加減って本当に難しいんだよね。先に火を通してから最後に一気に強火で合わせる、というのが多いけど、やりすぎるとしなっとしすぎたり」
「あぁ。中華鍋と普通の鍋だと少し火の通り方も違うしな」
「そうそう……って、もしかして一条さんも料理をするの?」
あ、と思った時には後の祭。彼女につられてついつい返してしまっていた。料理を作っていること自体別に隠していることではないし、なにより彼女にならば話してしまっても良いかと思った。
「母が仕事の時とかね。うち、弟妹が多いから作った方が節約になるし量も多いし」
「へぇ、弟さんがいるんだ。ひとりっ子だったから、兄弟には憧れるなぁ。何人いるの?」
「俺を入れて五人兄弟だね。みんな好みがばらばらだからさ、献立を考えるのも一苦労だよ」
「あはは。私も両親で味の好みが違うのでいつも迷ってたな。でも、喜んで欲しくて二人が好きそうなものを一生懸命探したりして」
分かるなぁ、と相槌を打つ。それぞれに好みがあるのは分かっているけれど、なんとか全員に喜んで欲しくて。全員が好きそうなものだったり、一回の食卓にいくつか好きな物を並べたりした。
「さっき、両親とは起きている時間が合わなかったって言ったじゃない。兄弟もいなかったから、ずっと寂しくて。でも、ある日自分で夕飯を作って待っていたの。そうしたら、次の日「美味しかったよ」ってメモ書きが置いてあって。それがすごくうれしくてさ」
嬉しそうに、でもどこか寂しそうに懐かしい日々を語る彼女。先程の話からきっと、中学生の頃にはすでにすれ違いの生活を送っていたのだろう。しんとした部屋で、一人キッチンに向かっていたのであろう実花を想像すると、きゅっとこちらまで切なくなる。
「それからずっと作ってるんだ。たまに休みが被った時は、一緒に食卓を囲んだりして。まぁ、あんまりなかったんだけどね。両親がすごく喜んでくれたのだけは、すごく覚えてる」
ふと、どこか遠くを見る彼女の瞳は切なかった。しかしそれも一瞬のことで、「だから」と彼女は続けたかと思えば、にこっと笑ってこちらを見た。
「一条さんと一緒にご飯へ行くの、本当に嬉しいんです。誰かと一緒に、こうやって感想を言いながら食べるのが、楽しくて」
誘ってくれてありがとうございました、なんて笑顔を向けられてしまえば、そもそもここへ来た当初の目的がよく分からなくなってしまう。でもまぁそれも良いか、なんて思ってしまうほどにはほだされていた。
それからは、食事の感想を言いあったり、先日のお弁当の感想を陸斗が伝えたり、今まで作った料理の話をしたり。会話が弾み、箸も進んだ。美味し料理はどんどんとお腹の中へと消えていき、気が付けばすっかり空になっていた。
食後にどうぞ、と出されたお茶を飲んでから店を出た時には、外はすっかり暗くなっていた。
「あっという間だったね」
「うん、すごく楽しかった」
「私も。ありがとう」
じゃあそろそろ帰ろうか、なんて口で言ってはいても、なかなかどちらも歩き出さない。このまま駅へと向かうのがなんとなく名残惜しいような、そんな躊躇いが見え隠れする。
ずっと店の前にいるわけにもいかない。どうしようか。世間話をするにも外だし、かと言って二軒目に行く時間ではない。しかし、このままあっさり自分から別れを告げるのは、なんとなく嫌かもしれない、なんて思っている時だった。
ヴヴヴ、となったバイブ音。この振動パターンは電話の着信に設定しているものだ。仕事かな、と思い「ちょっとごめん」と断ってから液晶を覗けば、「自宅」という珍しい二文字が。何だか嫌な予感がする。普段であればこの時間、陸斗は仕事をしているかもしれないため、よっぽどの事がない限りはかかってこないはずだ。しかも、今日は母が家にいる。母がいるにも関わらず、こちらに電話がかかってくるなんて相当のことだろう。
焦る気持ちを抑えながら通話ボタンをタップすれば「にいちゃん!」という切羽詰まった海の声が聞こえてきた。
「母さんが、母さんが」
「どうした、海。落ち着いて」
「母さんが、倒れて、それで、」
頭の中が真っ白になる。一生懸命に事情を話そうとする海の後ろでは、「かあさん」「かあさん」と弟達の泣き声が聞こえた。その泣き声に、昔のあの日がフラッシュバックして、視界までが真っ白になりそうだ。
落ち着け、落ち着くんだ。何が起きているのか聞いて、何をすべきか言わなくては。自分は、長兄なのだから。そうじゃないと、また――。
「母さんが、買い物から帰ってきたら、そしたら、急に、苦しそうになって、それで」
「今、母さんは、どうしてる」
「倒れて、それで、動かなくてっ。空が大家さん呼んできて、今、救急車、っく、ひぐっ」
電話の向こうから、ガチャリと誰かが玄関から入って来た音がする。「陸斗くん、繋がった?」という声は、階下に住んでいる大家を務める伊藤さんの声だった。大人が来たことで安心したのだろう、海の声にすすり泣きが混じり始めた。
「海、ありがとう。よく頑張ったな。伊藤さんに代わってくれるか?」
ひっくひっくと声を漏らしながら、弟は小さく「うん」と言って、電話を代わってくれた。
「もしもし、陸斗くん。話は海くんから聞いたかな」
「伊藤さん、夜分遅くにありがとうございます。えぇ、買い物帰りに母が倒れたとだけは」
「そうか。買い物から帰ってきたところで急に玄関で倒れたみたいでな。空くんが走ってうちに来てくれたよ。今は、うちのかみさんが付いて救急車に乗って南病院に搬送されたよ」
「……そうですか、ありがとうございます」
救急車で搬送、という言葉に過剰に反応してしまう。嫌でもあのサイレンの音が脳裏によみがえる。陸斗から大事なものを奪った、あの、二つのサイレン。あるはずはないのに今もなお、耳の奥から聞こえてくるようだ。伊藤さんの奥さんが付いているならば安心だと、すでに病院に向かっているならば大丈夫だと、自分に言い聞かせる。
「これから俺は海くんたちを連れて病院に向かうよ。陸斗くんも来るだろう?」
「はい、これから向かいます。……その、母と弟達をよろしくお願いします」
「おうよ。それから、気を付けてこいよ。三度目の正直、って言うだろう? きっと大丈夫だから。神様もそこまでひどいことはされないだろうよ」
「……はい」
きっと、陸斗が今何を考えているのか、彼は理解しているのだろう。二度のあの悲しすぎる別離の時に、対応に追われる母に代わって陸斗の手を繋いでくれていたのは、伊藤夫妻だった。
通話を終えれば、心配そうな顔をしている実花と目が合った。そうだ、今まで一緒に食事をしていたんだった。母が倒れて、急いで病院に行かなくてはならなくなったことを、伝えなくては。
「橋本さん、ごめん。その、今、えっと、あ……」
上手く声が出ない。伝えて、そして駅へ走っていかなければならないのに。通話を切ったことで、ふと冷静さが失われたのだろうか。言葉にする事を拒絶するかのように、上手く音にならない。
スマートフォンをカバンへしまいながら話そうと思えば、カシャンとそれは下へ落ちた。
「あ……」
それをスッとしゃがんで拾ったのは実花だった。手にしたそれを、陸斗の手にのせ、彼女の両手で陸斗の両手を包み込む。
「電話の内容からなんとなく察したよ。病院、行こう。私も一緒に行くから」
「でも、さすがにそんなこと、」
「こんなに震えている人、放っておけないよ」
ね、と両手をぎゅっと握られる。そこで初めて、自分の手が震えていることに気が付いた。
一緒に食事をするだけの仲なのにここまでしてもらうなんて、とか、迷惑をかけられない、とか、いくつもの考えが頭をよぎったけれど、その触れた手があまりにも温かくて。それは、今の陸斗にとって何よりも心強かった。