夜空の半月
「はぁ……」
実花は大きな息を吐いて、帰宅するやいなや、ごろんとベッドにダイブした。今日も残業で、帰宅は日付が変わる少し前。作り置きしているおかずでご飯を食べようかと思うが、疲れてもう一歩も動きたくない。
働くのは良いんだけど、もう少し納期を考えて欲しいなぁ、なんて。
チームの実力をかってくれているのは嬉しいし、先輩方と一緒に作り上げていくことはやりがいもある。しかし、少なすぎる時間と多すぎる要望に、全員が疲れ果てているのも事実だった。
きゅう、と小さくお腹が鳴る。体はベッドに縫い付けられたように重いのに、体は正直だ。冷凍しているご飯をレンジで温め、作り置きをだせば十分だろう。
そういえば、この前の生姜焼き、美味しかったなぁ……。
ふと思い出したのは、三日前の代休の日。天気も良いし、折角だから周辺を知るためにも散歩をしようと出かけて、ふと立ち寄った定食屋。古びた外観からは分かりづらいが、店から出てくる人たちの笑顔や漂ってくる香りから、きっと美味しいお店なのだろうと思って入ってみた。実際それは当たっていて、非情に嬉しかったのだけれど、まさかのサプライズも待っていた。
一条陸斗。先日の合コンで、とても美味しそうにご飯を食べていた人。かなでから話を聞き、雲の上のような存在だと認識していたのだけれど、その人に名前を覚えてもらって、しかもこんな小さな定食屋で出会うなんて。さらには、他のお店まで教えてもらえることになるなんて。
ダイブした際にカバンから飛び出したスマートフォンを持ちあげ、そっとメッセージアプリを開いてみる。そこの一番上に並ぶ、新しく登録されたばかりの連絡先。
あの時は勢いというか、美味しいものを目の前にしてそちらに気持ちがいっていたというか。深くは考えずに振る舞ってしまったけれど、なにか変なことはしていないだろうかと、あの日から時折不安になる。あまりにも彼が美味しそうに食べるから、楽しそうに食事の事を語るから、目の前の彼が他者の営業課のエースとして周囲から一目おかれている存在だという事はすっかり頭から抜けていた。ただ純粋に、一緒に食事を楽しむ相手としかとらえていなかった。
まぁでも、色々あるんだろうなぁ……。
意外です、と実花が言った瞬間に少しだけ陰った表情。がっかりしたんじゃないんですか、と尋ねてきた時の少し驚いた表情。彼のあの容姿や立場から、きっともっとおしゃれでリッチなお店に行っていると周囲からは思われているのだろう。実花の身近な存在では、かなでがそうだった。
人事の華、と入社時から囁かれてきたかなでは、女の実花から見ても美しく、都心の美しきOLという響きがしっくりくる。ランチはおしゃれなお店で同期達と、というテンプレートな日常を送っているが、その一方で実はかなりのラーメン好きという側面もある。
実花とかなでが所属していた映画サークルは、映画が一番、という人間が多く集まっていて、衣装やカメラにお金を使う分、食費を削っているメンバーばかりだった。だから、大学近くの安いラーメン屋や定食屋、居酒屋にはしょっちゅうお世話になっていて、それらに一定のなつかしさを感じる。勿論、おしゃれで美味しいお店も好きだ。ただ、都心のOLという仮面をかぶらなくて良い休日や終業後に、会社から少し離れた場所を指定されて彼女に呼び出されるのは、決まってそういう店だった。逆に、実花が探してきたそのようなお店にも、かなでは喜んでついていく。
男所帯の中で、キラキラとした生活とは無縁の生活を送っている実花にはよく分からないが「都心のOLブランドっていうのがあるのよ」といつかかなでは中ジョッキを傾けながら呟いていた。美味しいものを食べてしっかり働く。それだけで十分かっこいいと思うけれど、周囲を気にしないといけないだなんて難儀だなぁ、という感想を抱いたのはよく覚えている。
きっと陸斗もそういうことなのだろう。だって彼は、私よりも、かなで側の世界の人間なのだから。
そっとメッセージアプリを落として目を閉じる。お店を教えますね、と言われてから何も連絡が来なくて三日。きっと忘れられてしまったのだろう。もしかしたら、社交辞令だったのかもしれない。彼ほどの人間になると、一日で顔を合わせ、連絡先を交換する人間の数なんて相当なもののはずだ。だから、偶然定食屋でばったり会った、合コンとオフィスビルですれ違っただけの女のことなど忘れてしまって当たり前。名前を覚えていたのも、たまたまだろう。
かなでが余計なことを言ったせいで、少しだけ期待していた自分がいたけれど、私はかなでみたいな美人ではない。見た目だけでまた連絡をとりたいと思われる容姿ではないし、かといって会話が上手いわけでも、何か情報や人脈を持っているわけでもない。期待も、勘違いも、しない。だって、それが叶わなかった時の寂しさにやるせなくってしまうから。
だから別に期待していたとかそういうのではなくて。ただ、彼がとても美味しそうにご飯を食べるから。また一緒に食べられたらいいな、なんて思った。それだけのこと。
ふう、と息を吐いてのびをする。時計の針はもうすぐてっぺんを指し示す。この時間に夕食をとるのは女子としていかがなものだろうかと思わないわけではないが、そろそろ本当にお腹が限界だ。いそいそと立ち上がろうとした瞬間に、ヴヴッとバイブが鳴った。なんだろう、と視線をスマートフォンにやれば、そこには今さっきまで考えていた人の名前が。突然すぎて、思考がフリーズしてしまう。
「一条陸斗」と表示された通知画面。え、え、どうしよう、と慌てていると、そのままタップしてしまう。便利な指紋認証がこの時だけは恨めしく、難なく開いたロック画面。
「うわっ」
タップしてそのままトーク画面へ。既読が付いてしまったであろうその画面には「こんばんは」「先日はありがとうございました。それで、この前言っていたお店を教える件なんですが」と表示されている。
「へ……」
忘れられていたと思っていたのに。彼はどうやら連絡先を交換したことも、小さな約束も覚えていたようだ。
なにか返さなきゃ。こんばんは? お疲れ様です? どうしようかと、言葉を打っては消してを繰り返していると、ポンとまた新たにメッセージが届いた。
「良ければ今度、ご飯一緒にいきませんか」
「はい……?」
思わず一人の部屋で変な声を上げてしまう。てっきりお店の情報を教えてくれるだけだと思っていたのに、まさか誘ってもらえるだなんて。どうしよう、どうしようと思いつつも、「こんばんは、お疲れ様です。こちらこそ先日はありがとうございました」「ぜひご一緒させてください」とあたりさわりのない文章を、いつもより時間をかけてうった。ここでもっと可愛らしい言葉を返せれば良いのだろうが、生憎そこまで対人スキルのない実花は、丁寧に、最低限失礼のないように言葉を連ねるしかなかった。そこから会話はとんとん拍子で進み、二週間後の金曜日に食事へ行く約束となった。それではまた、と終わりのメッセージを返して既読が付いたところで、そっとメッセージアプリを閉じた。
ふと時計に目をやると、てっぺんにあったはずの長針は既に半周を回っていた。頬が、熱い。夕食をとろうとしていたことなどすっかり頭から抜け落ちて、ぼふりと枕へ頭をうずめた。
ふわふわと夢を見ているみたいだと、思う。
自分とは遥か遠くの世界の人間で、関わり合うことなどないような人なのに、こんなに急に距離が近づくなんて。自分も彼の存在などついぞ前までは知らず、もしかしたらすれ違っても気にも留めていなかったかもしれない。それなのに。
今までだったら、ただの偶然、で片づけていたことも、かなでのせいで妙に胸がざわついてしまう。
期待しちゃだめだって、ただの偶然だよ。今までの事を忘れたの。頭の中で警鐘が鳴る。そういうんじゃない。ただ、またご飯を一緒に食べたいと思った、ただそれだけ。あまりにも美味しそうに食べるから、思わず目を奪われただけ。誰に対する言い訳なのか分からないことを、何度も脳内で繰り返す。芽生えそうな感情には目をつぶって、平静を保とうと自身を落ち着ける。
ごろんと寝返りをうてば、細く開いたカーテンの隙間から漆黒の闇に浮かぶ暖かな半月が見えた。