生姜焼き定食
「それでは、ありがとうございました」
得意先への営業回り。移動中に他人の目を気にせず一人になれるという点では嬉しいのだけれど、やはりかなり気疲れしてしまう。自動ドアをくぐって外に出ると、陸斗はそっと息を吐いた。
守りたいもののために、目標のために、ひたすら邁進していれば、気が付いた時には営業課のエースだなんてもてはやされていた。社内で期待されるのは別に構わないし、大きな契約を任せてくれるのはありがたくも思うのだけれど、正直息がしづらい。業績を妬む先輩や同期、媚びへつらってくる後輩、そんなものは些細な事で気に病む必要もないと分かっているけれど、こちらだって必死に仕事をしているのだ。尊敬すべき先達を見習い、欠けている部分を補い、準備をしているにも関わらず、無遠慮にも突き刺さってくる視線。笑顔で見ないふりをしているにも限度がある。
「……旨いものでも食べようかな」
腕時計を見れば、ちょうど昼時だ。落ち込んだ気持ちを手っ取り早く回復させるには、美味しい食事が一番の薬だ。生憎この辺りの土地勘はあまりないけれど、電車で二駅行った場所には馴染みがある。外回りと称して出かけたこの辺りは、幸い会社からは離れた場所だし、少し寄り道をして昼食をとってから帰っても怒られないだろうと、陸斗はそのまま駅へと向かった。
ガタンガタンと電車に揺られ、降りた駅は記憶の中のそれと何も変わっていない。少し剥がれかけたポスターに、銀行口座開設のお知らせ。学割のツアーや自動車教習所の看板は、隅の方が錆びていた。陸斗が降りると、学生と思われる数人の男女がわいわいと話しながら乗り込んでいく。レポートがどうの、サークルがどうのと話している姿は、過ぎし日のことのようで懐かしい。
そういえば、この間はどうして。
学生グループの中にハーフアップの女性がいて、ふとこの前のエレベーターでの一件を思い出す。
橋本実花。それが彼女の名前だった。特別好みの顔だとかそういうわけではないけれど、彼女のあまりにも美味しそうに食べる姿がなんとなく記憶に残った。合コンだというにも関わらず、媚びずに自然体のように振る舞う姿がどこか新鮮に感じた。だからまたどこかで会えたら、なんて心の隅で思ったりもした。ただ、それだけのこと。
あの時、なんで呼び止めたんだろうな。
用事があるわけではないし、特に話したい事があったわけでもない。しかし、条件反射的に、気が付いたら名前を呼んでいた。それは自分でもよく分からない衝動で、実際彼女が振り返ってからは、何をどうすれば分からず焦ってしまった。結局、外回りからの帰りが重なった裕也に非常にからかわれる羽目になったのだけれど。
「お前が合コンで会った女のことを覚えているなんて、初めてじゃないか?」
にやにやとしたり顔で笑う彼に、うるさい、と敢えてぶっきらぼうに返した。確かに、今まで仕事外で出会う女性は多くあれど、その作られた量産型のような姿や媚びるような態度に辟易し、全く興味がなかった。名前も、顔すらも記憶にない。前に会いましたよね、と話を振られても曖昧に返すことしかできなかった。
それにも関わらず、あの彼女と話し食事をした時のことは、じんわりと陸斗の心の中に残った。それがどうしてなのか、理由は分からないけれど。
まぁ珍しかったのかもしれないな、なんて自分の中で無理やりそれらしい理由を付けて、また慣れた道をぷらぷらと歩く。学生時代の記憶というのは不思議なもので、何年かぶりに行くはずの目的地に、迷うことなくすんなり辿りつくことが出来た。
大学通りから少し離れた裏路地に位置する、小さな定食屋。長年の汚れでくすんでしまった黄色の屋根に、どこかがたつく木製の引き戸。古びた景観にそぐわない、定食、という真新しいのぼりは、もしかしたら最近新調したのかもしれない。
ガラガラと引き戸を開ければ、ぶわりと鼻につく油のにおい。決していい匂いとは言い難いけれど、どこか懐かしく安心させる匂いだった。すみません、と声をかけるやいなや、カウンターの奥から初老の夫婦が顔を出す。
「いらっしゃい、ってあれ、陸斗くんかい?」
「おやじさん、お久しぶりです」
「あら~、前からイケメンだったけど、ますます格好よくなっちゃって!」
「ありがとうございます。おばさんも変わりませんよ」
ここは、陸斗が大学生の頃から非常に懇意にしている定食屋だった。大学からは少し離れているため、大学の昼休みといってもあまり学生は多くない。むしろ近隣のサラリーマンや土木工事関係者が多く、提供される定食も学内の食堂よりも安くてボリュームがあり、なおかつ美味しい。学生同士のきゃぴきゃぴとした空間よりも、こちらの方が安心した。
「ごめんね、りっくん。ちょうど今満席なのよ。相席でもいいかしら」
「あぁ、構いませんよ」
サラリーマンばかりの定食屋で相席というのは別に珍しくはない。むしろ、久しぶりに来たにも関わらず、昔と変わらぬ盛況ぶりであることに嬉しさすら感じる。
「じゃあここで。今お水持ってくるわね」
案内されたのは奥の二人掛けのテーブル席。誰が座っているのかは、入り口からは柱の影になって見えない。
言われた通りに奥まで進む。歩きながら見た店内は、内装も全く変わらない。木の板に直接書いたメニューに、端の方が黄色く変色しかけているポスター。瓶ビールの広告が貼られた冷蔵庫に、棚の上の小さなテレビ。社内で描かれている理想像のような自分は決してこんな所にはこないのだろうけれど、昔から変わらぬこの空気が陸斗を安心させた。
ぺたんこになったクッションが置かれた椅子に座る。相席と言われたのだから、その席の向かいには誰かがいるのは当たり前で、ふとそのまま目線を前にやる。その瞬間、今まで浸っていた感傷など、全てどこかへ霧散した。
「え」
目に飛び込んできたのは、見覚えのある黒髪。いやいやまさか、と思いつつも、目の前で美味しそうに生姜焼きを頬張る女性は、陸斗の記憶の中のそれと合致した。ハーフアップにしていた髪の毛は後ろでひとつにまとめられており、休みなのだろうか、私服姿の彼女は前回会った時とどこか纏う雰囲気が違っていた。彼女は目の前の生姜焼きを堪能することに忙しいらしく、こちらには目もくれない。
「りっくん、今日は何にする?」
あまりの衝撃に固まっていると、水を持ってきてくれたおばさんに声を掛けられた。そうだ注文、と慌ててメニューを開こうとするが、飛び込んできた目の前の生姜焼きに思わずごくりと喉が鳴る。
「え、あ、じゃあ、生姜焼きで」
「はいよ。ごはん大盛にしておくね」
おばさんとのやり取りで、ようやく目の前の彼女が顔を上げたかと思えば、彼女もやはり、大きく目を見開いた。黒目がちな瞳はぱちくりと瞬き、ぽろりと箸の間から白米がこぼれた。
「え……? えっと、一条、さん」
「橋本、さん……、えっと、どうも」
またもや情けない言葉しか出てこない。仕事や気の乗らない合コンではいくらでも適切な言葉選びが出来るのに、いつも突然現れる彼女に対しては、どうもそれが出来ない。
気まずい沈黙が二人の間に流れる。それはたまたま思いもよらぬ所で顔見知りに出会ったからか、はたまた社内との自分の印象とのギャップに失望しているのか。
特別、世間話をする仲ではないけれど、かといって無視を続けるのも無理がある。久しぶりですね、は何だかナンパのようだし、お休みですか? はいささかプライベートに立ち入り過ぎているのではないか。そもそも、きっと彼女の雰囲気からそれはないのだろうけれど、もし彼女に陸斗がこのような店を好んでいる事をもし会社で吹聴されてしまったら、それは困る。いや、別に恥ずかしいことではないし良いのだけれど、社内イメージが音を立てて崩れてしまえば、周囲からの評価も変化するだろう。
営業課のエース、と呼ばれるほどに実績があげられたのは、もちろん周囲の支えも大きかったけれど、入社時からの自身の絶え間ない努力によるものだと自負している。しかしそれでも、実家が名家だとか、金持ちだとか、そのような根も葉もない噂を信じて、大きすぎる期待をかけてくれた人々が一定数いて、それらの期待を裏切らずにこなしていくことで、現在の地位まで至ったことも理解している。イメージ効果というには大げさだが、今まで培ってきた評判や業績にそれが影響し、結果として今までの努力が無意味なものへとなり下がってしまうのは避けたい。
かといって、変な嘘で塗り固めて誤魔化してしまうのも良心が咎める。それになにより、作られた女性の中で自然体に振る舞っていた彼女の前で、なんとなくそれはしたくなかった。
さてどうしようかと逡巡していれば、彼女は再び何事もなかったかのように白米を頬張りだした。つやつやと光る白米を、美しい所作で、かつ勢いよく口に運ぶ。そして、てらてらと光る生姜焼きに、飴色玉ねぎも口に収めれば、あの日の夜のように満足そうにほうと息を吐いた。思わず、ごくりと喉がなり、空腹がきゅうと小さく音を立てた。彼女は目の前の陸斗の事など気にせず、ただ純粋に食事を楽しんでいた。
「……ほんと美味しそうに食べるよな」
ふいに聞こえた音にびくりとすれば、それは自分の口から漏れ出ていた本音だった。こちらがぐるぐると考えていることなど露ほども知らずに、ただひたすらに目の前の食事を堪能する彼女に、思わず心の声が飾ることなく口をついていた。
やばい、と思った時には既に遅く、その言葉は彼女の耳にもしっかりと届いていた。きょとん、とした顔で再びこちらを見る。
「だって美味しいんですもん」
焦る陸斗をよそに、へらりと笑って告げられた言葉。素朴すぎる表情と言葉に、思わず肩の力が抜けてしまう。美味しいから美味しそうに食べている。そんな当たり前のような言葉に、ふはっとつられて笑みがこぼれる。
なんだそれ。でもまぁ、そうだよな。
お待たせ、という声を掛けられ、陸斗の分の生姜焼き定食も運ばれてきた。ほかほかとした白米に、湯気のたつてらてらと光る生姜焼き。肉の香りと生姜の独特の香りが食欲を誘う。
「一条さんも生姜焼きにしたんですね」
いただきます、と手を合わせたところで今度は実花から声をかけてきた。
「初めてこのお店に入ったんですけど、ここの生姜焼きとっても美味しいですよ」
君が生姜焼きを美味しそうに食べるからだよ、とは何となく気恥ずかしくて言えずに何気なく「唐揚げも美味いよ」と返してみる。
「へぇ、唐揚げかぁ。私、大好きなんです。あぁでも、コロッケも美味しそう」
彼女の視線を辿れば、壁にかかっているメニューを見ている。キラキラとした目で、油染みのある木製のメニューを見ている姿は、何だか都心のOLには似つかわしくない。しかしそれは嫌ではなく、むしろ好ましいとすら感じられる。
美味しいものを素直に美味しいといえる、それは陸斗の大切な人々の姿と重なって気が緩んでしまう。夕飯に何を食べたい? と聞いた時のあいつらと、同じ表情。そういえば、ご飯を美味しく食べる人に悪い人はいない、なんて言われたのはいつの事だっただろうか。本当に食べることが好きなんだなぁ、と思ってふいに親切心がわいた。
「この店、毎週月曜日は唐揚げが一つ増量されるから、頼むなら月曜がおすすめ。あと金曜は小さいデザートがつきますよ」
「え……?」
「あぁそれと、冬になると蠣フライが出るけどそれも美味いですよ」
「え、え……? もしかして一条さん、常連さんなんですか」
ぼんやりと学生時代の記憶を辿って連ねらば、突然の情報に彼女は分かりやすく慌てだす。わたわたしている姿はまるで小動物かなにかのようで、笑ってしまいそうになる。なんだかもう、彼女相手ならば飾らなくてもいいかもしれない。理想と違って失望したなどと言う相手ならば、きっとあの日の居酒屋で隅で料理を一緒につついた時点で言われているだろう。
「通っていた大学が、近くで。昼休みによく来ていたんです」
生姜焼きを口に運びながらそう答えれば、「あぁ!」と彼女は納得したように声を上げた。
「確かに近くに大学があるって不動産屋さんに言われました。そっか、このあたりだったんですね」
「不動産、ってことはこの辺りに住んでいるんですか」
単純に言葉に反応しただけだったが、踏み込みすぎた質問だっただろうかと微かに後悔が滲む。しかし彼女は全く気にしていないように「はい」と答えた。
「先月越してきました。でもなかなか忙しくて、全然このあたりのこと知らないんです」
このお店も散歩中に偶然見つけたんです、と笑う彼女。散歩ということは、やはり休日なのだろうか。この前の様子からも、忙しい部署にいるであろう事は予想が付くが、実際に彼女がなんの仕事をしているのかは知らない。矢嶋と話した時も、女性幹事の同じ部署の同期の友人、ということしか彼も知らなかった。もしかしたら、休日が不定期な部署なのかもしれない。
「一条さんは外回りですか? お疲れ様です」
丁度良く、とでも言うように投げかけられた質問にイエスを返し、「橋本さんはお休みですか」と尋ねれば予想通り彼女はこくりとうなずいた。
「先日やっと新システムがリリースしまして。今日は休日出勤の代休をいただきました」
「システム……、ということは開発部か何かですか」
「開発部とはまた微妙に違うんですが、まぁ、大体そんな感じです。システムエンジニアなので、リリース前はどうしても忙しくなっちゃうんです」
この前の合コンの後も職場に逆戻りでした、とあははと笑う彼女に、やっとあの日の彼女の装いや、解散後に姿が見えなくなった理由が判明した。確か矢嶋は、幹事の子は人事部と言っていたから、人事部に友人がいるのだろう。
「残業は当たり前、夜中に呼び出されることもしばしば、の部署なので、あまりお店が開いている時間に帰って来られないんですよ。だから本当はもう少し美味しいお店とか探しに歩きたいんですけど、なかなか難しくて」
だから今日は一発目で美味しお店に出会えてラッキーです、と笑う彼女。仕事の忙しさへの不満もあるだろうに、幸せそうに綻ぶ笑みにあたたかな気持ちになる。
「かなりお忙しいんですね」
「まぁ、そうかもしれません。でも、自分が携わったシステムが社会のどこかで誰かの役に立っていると嬉しいですし。それに忙しいのは一条さんもでしょう?」
営業課のエースだって聞きましたよ、と何でもないように言う彼女。
「なんとなく意外でした。一条さんがこういうお店に来るのは」
もぐもぐと食事をしながら、特に気に止めることもなく呟かれた一言に、ぴくりと肩が揺れる。
やはりそう思われるのか、と急速に背筋が冷えていく。飾らずに話したらすぐこれだ、とどこかで落胆する自分を感じながら「やはり意外ですよね」と苦笑する。外回り中の昼休み、母校の近くとは言え、オシャレとは言い難い所で食事をしている自分を彼女はどう捉えたのだろう。
止まってしまったこちらの箸に気付き、彼女はきょとんとした様子で「まぁ、意外ですけど」と返してきた。
「こういう隠れ家的な美味しいお店を知っているなんて流石だなぁって。やっぱり部屋に込もって開発ばかりだと気づけないこともありますし、外に出ることの大切さを実感しています」
そう言って再び生姜焼きへと箸を伸ばす彼女。あまりにも斜め上すぎる返答に、陸斗はぽかんと呆気に取られざるをえなかった。
「が、がっかりしたんじゃないんですか」
「? 何にですか?」
発言の意味が分からないと言いたげに首を捻る彼女。きっと本当に分かっていないのだろう。
「なんかこう、俺がこういう場所にいることに」
言ってから無性に羞恥に襲われるが、飛び出た言葉は戻らない。目の前の彼女は少し考えた後にやっと陸斗の言いたい事を理解したらしく、少し真面目な顔をした。
「なんでがっかりするんですか。美味しいものを食べてしっかり仕事して、かっこいいじゃないですか」
目の前の生姜焼きを一切れ、丁寧な所作でつまみ上げ、彼女は清々しくも真っ直ぐな瞳でこちらを見つめる。
「安くて美味しくてお腹が一杯になって、店員さんも優しい。そんな素敵なお店を知っていて、何をがっかりする必要がありますか」
とろりと生姜焼きを口に運べば、また彼女は心底美味しそうな表情をする。その表情に、固く冷えた自分がじんわりと温かく溶けていけ。
確かに彼女の言う通りで、美味しいものを食べて仕事を頑張って、それの何がいけないのだろう。飾らずに、と思った矢先、どこまでいっても自然体な彼女の前で、最後の足掻きとでも言うように見栄を張ろうとした自分が急に恥ずかしくなる。
全員が全員、彼女のようであるとは思えないし思わない。むしろ彼女は極少数派だろう。他の人達はこのような場面を見たら幻滅をするのは容易に想像が出来る。
でも、彼女は違った。そんな姿を見て、やはり彼女の前では、こちらも自然体でいたいなと、ぼんやりと思った。
しばらくは箸が皿を滑る音だけが響き、互いに黙々と食事を続ける。先に来ていた実花の茶碗は既に綺麗になっており、あとは玉ねぎが数枚残っているだけだった。
「あの」
こちらの声かけにつられ、ふいに彼女は顔を上げる。この瞬間はきっと、偶然が起こした奇跡なのだから。あと数分でもう会えなくなってしまうと思えば、自然と言葉が口をついた。
「この辺り、四年間過ごしたから色々お店とか知っていて。だからもし良ければ、今度他のお店とかも、教えましょうか」
それは学生時代に仲の良い友人達数人と出掛けた店達。 どこも安くて少し汚くて、でもとびきり美味しい店ばかり。他の人ならば誘っても店を見るやいなや嫌な顔をされるかもしれないが、彼女はきっと喜んでくれるだろう。
「はい、ぜひ!」
心底嬉しそうに頷く彼女。そのまま連絡先を交換し、やがて彼女は先に帰っていった。新しく登録された名前を見ながら、そういえば自分から女性に連絡先を聞いたのも初めてだな、とぼんやりと思う。
越してきたばかりの彼女に対する親切心の延長線上。しかしそれは名目で、本当は美味しそうに食べる彼女と、また食事をしてみたいと思っただけなのかもしれない。
久しぶりに誰かと食べる懐かしい味は、空腹だけでなく、違うどこかも確実に満たしたのだった。




