溶けて解けてメルティー
気が付いた時には、体が動いていた。
「おい、一条!」
一緒にコンビニへ来ていた矢嶋の静止も聞かずに、手首をつかんで引き寄せた。
余計なお世話かもしれないけれど、あんな困った表情でいる彼女を放ってはおけなかった。陸斗が彼女に声をかけてからも、依然と投げかけられる男の言葉は汚くて、嫌悪しか抱かない。使われる? 捨てる? なんのことを言っているのかは分からない。ただ、これ以上、彼女をこの男の前に晒しておきたくなかった。
離れさせないと。そればかりが思考を占めた。遠くへ、もっと遠くへ、ひたすらに歩いた。男女の歩幅の違いなど気にしないような歩き方をして「痛い」という言葉が聞こえた瞬間に、我に返った。
振り返れば、ゼエゼエと息を切らしている実花がいた。「痛い」という言葉の意味を反芻し、彼女の視線を追えば、自分がしっかりと握っているせいで赤くなってしまっている手首があった。
「あーー」
指の跡が付くほどではないが、しっかりと赤くなってしまったそれ。大人の男が握って連れまわしていたのだから、女性の細い腕が赤くなってしまうなんて、普段ならばすぐに気が付くのに。どうしよう、とおろおろしていれば、ふふっと彼女の小さな笑い声が聞こえた。
「ごめん、痛いよな。えっと、冷やさないと」
何か冷やす物を持っていれば良かったが、生憎ペットボトルのお茶すら持っていない。昼ご飯を買いに外に出ただけだから、最低限の貴重品しか持ってきていないのだ。
「あ、大丈夫だよ? 痛いっていっても、そこまで酷くはないし」
「でも――」
そうは言っても、痛々しく赤くなっている手首。せめてコンビニでもないかと見渡すが、ちょうど完全なるオフィス街に入ってしまったようだ。コンビニも目立つ場所にはない。保冷材とまではいかなくても何か冷たいものを、と探せば、ひとつのビルの入り口に、地下へ続くファストフード店の看板が出ていた。ファストフード店であれば、冷たい飲み物くらいは売っているだろう。あそこに入ろう、と声を掛ければ、彼女は小さくうなずいた。
地下にあってあまり目立たないからだろうか、昼時だというのに案外簡単に席を見つけられた。順番に注文を済まして席へと向かう。「はい」と氷の入ったカップを渡せば、「ありがとう」と彼女はそっとそれを手首へと当てた。
余計なことをしてしまったかもしれないが、あの男は彼女に害をなす人物なのだろう。昨日のエレベーターはもちろんだが、先程の困り果てて、どこかおびえているような表情がそれを物語っていた。
あの男と実花は、一体どんな関係なのだろうか。使われるとか、捨てるとか、狂暴とか、そんな意味の分からないフレーズがぐるぐると脳内を回る。きっとあの「お前も上手くやれよ」は陸斗自身に向けられた言葉だったのだろうが、どういうことなのだろう。
気にならないと言えば、嘘になる。何があったのか、何に困っているのか。そして、あの男は誰なのか。困っているならば力になりたいし、苦しんでいるのならば話を聞きたい。しかし、この青ざめた表情の彼女にその話題を振ってはいけない気がした。
力不足だ。陸斗が困っている時は、スマートに、優しく手を差し伸べてくれた彼女に、自分は何も出来ない。ただひたすらに、彼女が元気になれば良いと、先程の光景を上書きできるようにと、明るい話題を提供するだけ。それにすら、彼女は曖昧に相槌を打つことしかなかった。
普段ならば、これが美味しいだの、こっちも気になるだのと、会話が弾む。実花も本当に美味しそうに食事をするのに、今はなんだか辛そうだった。まるで何かにおびえているような、迷っているような、そんな表情だ。
ハンバーガーを食べ終えて、一緒にビルへと戻る。またあの男に会わないかと注意して辺りを見渡したが、運よく遭遇せずに済んだようだ。実花がきちんと彼女の階で降りるところまで見送り、陸斗は自分のフロアへとそのまま上っていく。
ぐるぐるとした思考は、整理しようと思ってもなかなかうまくいかない。
彼女の力になりたいし、気になるのだけれど、余計な詮索は彼女の負担になるだけだ。彼女が自分にしてくれたように、そっと手を差し伸べて、寄り添ってあげたいだけなのだけれど。
「はぁ……」
小さな溜息は、目的階に到着した事を知らせる音にかき消された。
*****
定時を少し過ぎた頃。残業がどうやら長引きそうということで、陸斗はコンビニへ向かおうとエレベーターに乗っていた。
えっと、矢嶋はチョコレートって言ってたな……。
昼をブッチしたのはこれでチャラにしてやる、と渡された付箋に書かれていたのはよくあるチョコレートの名前だった。要は買って来いということなのだろう。
ブッチしたと言っても、別に一緒に食べようと約束をしていたわけでもなく、コンビニへ行く時に「一緒に行こうぜ」と無理やり彼が付いてきただけだ。しかし、置いて放ってきてしまったことは確かだし、これでチャラにしてくれるならばまぁ良いだろう。
昼休憩から戻るなり「修羅場だったのか?」とニヤニヤしながら聞いて来た時は流石にイラッとしたけれど。
エレベーターの中には陸斗一人。これならば一階までスムーズに行けるだろうと壁に寄りかかっていれば、ポーンと途中階であっけなく止まってしまった。
誰かが乗ってくるということで慌てて姿勢を直せば、ほどなくしてドアは開いた。ふいに表示された階を見れば、実花が務めている会社のある階だ。もしかして、なんて淡い期待を抱くけれど、乗ってきたのは別人だった。ダークブラウンのストレートヘアを揺らし、ヒールを履きこなして颯爽と入ってくる。俗にいうところの「美人」だった。
矢嶋が好きそうなタイプだと思いながら、特に気にも止めずにスマートフォンへと視線を移す。昼間のコンビニは近いけれどなんとなく先程のことがあったから行きたくはない。近場にもう一店舗あったはずだよな、なんてマップアプリを開いたところだった。
「一条さん、ですよね」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げる。先程乗ってきた女性が、こちらに射抜くような視線を向けていた。
「えっと、はい。そうですけど……」
こんな知り合いはいただろうか。仕事関係で必要ならば覚えているはずだから、きっと仕事以外だろう。昔から、自分が知らない人に声をかけられることはよくあった。だから今回もそのたぐいかと思ったが、それにしては視線が痛い。陸斗の容姿に惹かれる女性が送ってくるような、興味とも熱い感情とも違う、むしろ陸斗を敵対視している男性から送られるものに近い。もしかして、矢嶋に無理矢理連れて行かれた合コンで何度か会話をしていたのに、陸斗がそれを覚えていないことに腹を立てているクチだろうか。それなら申し訳ないが、本当に覚えていない。どうしようかと、次の一手を考えているうちに、彼女の方が口を開いた。
「斎藤かなでと言います。初めまして、ではないけれど、きっと覚えていないんでしょう?」
斎藤かなで。その名前は知らないけれど、「かなで」という音の響きには聞き覚えがあった。どこでだろう、と頭をフル回転させれば、昨日、実花が言っていた事を思い出す。
「かなでって言うんだけど、部は違うけれど同じ会社で」
ハンバーグ屋へ前に来たことがあると、その時は女の子の友人と一緒だったと言っていた。同じ会社とも言っていたから、もしかしたらそうなのかもしれない。
「……心当たりがあるようだけど、あの子から何か聞いていたのかしら。実花の、大学時代からの友人です」
「あ、えっと、どうも……?」
やはりそうだったのか。実花の友人という事でこちらの名前を知っているのは合点がいった。もしかしたら、実花も何か彼女へ陸斗の事を話していたのかもしれない。それは別に構わない。しかし、だからといって、この厳しい視線はなんなのだろう。
「最近、実花とよく食事に行くそうですね」
突然彼女は口を開いた。それは、確かにそうですねとしか返せないような、まるで事実確認のような言い方だった。なんだろう、これは。実花の友人ということで、少し気楽に話が出来るかと思えば、一気に緊張が走る。取引先との会話のような、取り調べのような、なんとも言い難い緊張感に包まれる。
「それが、なにか」
そちらがそのつもりならば、と陸斗も固い口調で応戦した。別に実花が誰と食事に行こうが、友人であるあなたに関係ないだろう、とでも言うかのように。
「……別に。ただ、利用しようと思って実花に近づいているなら、やめてもらおうと思って」
「利用……?」
何を言っているのだろう。利用? 誰を? 違う国の言語のように、意味をなさずに音として頭の中を通り抜ける。それは昼に男が言っていた「使われる」と似た響きを持っていた。
「中途半端な気持ちで近づいて実花を傷つけるのなら、私はあの子の友人として見過ごせない、って言っているの」
中途半端な気持ちで近付いて傷つける? 実花が彼女に何か言っているのだろうか。分からない。分からないけれど、このまま断定したような物言いをされ続けるのは、我慢がならなかった。
「……何の事を言っているのか分かりません。別に俺は、彼女と一緒に食事をしたいからしているだけで、他意はありませんが」
「ふぅん……」
「というか、初対面で失礼すぎやしませんか。昨日今日と会った男も、捨てられるだ端役だなんだって失礼なことばかり。もしかしてお知り合いかなにかなんですか」
イライラとした気持ちのままに言葉をぶつける。すると、その言葉に目の前の彼女は大げさに肩を揺らした。
「え、ちょ、男って。何、それ」
「スーツ姿の男ですよ。橋本さんの事を馴れ馴れしく下の名前で呼んだかと思えば、橋本さん自身はかなりおびえていますし。そちらも、もしかして友人と言いながらも、独りよがりにそう思っているんじゃ――」
「いつ!? その男と会ったのはいつ? 実花は大丈夫なのよね?」
突然の権幕に、今度はこちらが驚いてしまう。明らかに平静を欠いた様子に、なにか触れてはいけなかったものに触れてしまったのではないかと思う。
「昨日の昼と、今日の昼ですね。……かなり困ってはいましたが、俺が一緒にいたので。危害は加えられていないかと思いますよ」
勢いに押されて、思わず質問に答えてしまえば「良かった……」と彼女はホッとした様子でエレベーターの壁に寄りかかった。やはり知り合いだったのだろう。しかし仲間というよりも、敵対するような間柄らしい。
「……ありがとうございます。実花の傍にいてくれて」
突然しおらしくなった様子に驚いていれば、彼女は深く溜息をついた。
「大学時代の先輩なんだけど、実花にかなりひどいことをした人なのよ」
なるほど。そういえば実花は、かなでを「大学時代から一緒の女の子」と言っていた。そこで共通の先輩というわけか。ひどいこと、の内容は分からないが、あの困り具合や青ざめた表情から察するに、相当なのだろう。そんな相手に、偶然再会してしまったのか。
「……あなたも急に実花に近づいてくるから、もしかして同じように実花を利用しているんじゃないかって思ったの」
初対面に近いのに酷い態度をとってごめんなさいね、と彼女は頭を下げた。
「いや、別に……」
少し冷静になったのだろう。落ち着いた口調で話し始めた彼女は、人の良さそうな印象を受ける。きっとこちらが本来の彼女で、先程までは友人に変な男が近づいていると頭に血が上っていたのだろう。
「……利用するとか、捨てられるとか、何の事を言っているのかは分かりません。ただ、俺が橋本さんと食事に行くのは、彼女と一緒にいて楽しいからだし、一緒にいたいと思っているからですから。というか、そういう計算じみたことは、勤務時間外でやりたくもありませんよ」
真面目に、ただし真面目になりすぎないように答えれば、彼女はふっと力が抜けたように笑った。
「……そう。それなら安心かな。ごめんなさいね、本当に」
「いえ。誤解がとけたようでなにより」
「……誤解は解けたけど、実花を悲しませたら承知しないから」
最後に一瞬、また厳しい視線を向けられる。それに苦笑しながらうなずけば、丁度エレベーターが一階へと到着した。
「私は銀行に行くんだけど一条さんは?」
「あぁ、俺はコンビニです」
「そう? じゃあ途中まで一緒かしらね」
ここまで会話をしてきて、急によそよそしく離れるのもおかしな話だ。それに、自分に対して色目や好奇の視線を投げかけてくる人は多くあれど、この斎藤かなでという女性はどれにも当てはまらなかった。単に、友人に害をなす人物かどうかだけで見定めていたらしい。それならそれで、気が楽だ。
当たり障りのない世間話をしながらビルのゲートをくぐる。定時を少し過ぎたからか、人の出入りはまばらだった。早く帰らないと矢嶋がうるさいだろうな、なんて考えていたからだろう。自分達を後ろから呆然と見つめる姿には、全く気が付かなかった。




