逃避行とハンバーガー
「うーん、お昼か……」
結局あの後、シャワーを浴びてしまえばいくらか気持ちは回復した。職場までの道のりで再び三宅に会うことはなかったし、デスクで仕事を始めてしまえば余計なことは考えずに済んだ。
お昼だー、という関口の声に反応して時計を見れば、確かにそんな時間だった。
「あれ? 今日はお弁当じゃないんだ」
「そうなんですよ。ちょっと時間がなくて」
「ふぅん、珍しいね」
じゃあまた後で、なんて高木に声をかけてから、パタパタとエレベーターへ向かう。昼時、オフィスが立ち並ぶこのあたりのコンビニはすぐに品薄になってしまう。かといって、休憩スペースはビル内共用だから、また会ってしまうかもしれない。さっさと買ってデスクで食べてしまおうと思い、スマートフォンと財布だけを持って外へ出た。
案の定一番近くのコンビニは混んでいて、窓ガラスの外からも中の混み具合がうかがえる。スーツ姿ばかりで、きっと考えることは皆同じなのだろう。
サンドイッチかおにぎり、あとはお茶くらいなら買えるかな。
そんな事をぼんやりと考えていて、注意力が散漫だったのかもしれない。後ろから近づいていた影に、全く気が付かなかった。
「よぉ、実花」
思わずバッと振り返れば、そこには片手を上げた三宅が立っていた。
「な……」
「今から昼か? 女が一人でコンビニに昼を買いにきてんのか。寂しいやつだな。あ、それとも一緒に食ってやろうか」
自分だって一人で買いに来ているくせに、なんなんだ。折角、忘れかけていたのに、本当に、最悪。
「いや、結構ですから」
「そういうなって」
ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべている三宅に、嫌悪感しか抱かない。しかし、逃げようとしたって、気が付けばコンビニの壁と三宅に挟まれていて逃げ場がないし、走って振り切ろうにもサラリーマンで込み合っている道を走るのは難しい。大声を上げるにしたって、ここはあくまで職場の近くのコンビニだ。変に目立つようなことはしたくない。
「ほら、行こうぜ」
「いや、だからやめてくだ――」
「ごめんな、橋本さん。待たせちゃって」
三宅の手が実花の肩に触れようとした瞬間、強い力で横にぐいと引き寄せられた。
え……?
聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこには陸斗が立っていた。
「一条さ、」
「ごめんな、待たせて。ほら、行こう」
三宅など目に入らないとでもいうかのように実花だけを見つめてニコリと笑えば、そのまま手首を掴まれ、ぐいと引っ張られる。そのまま歩き出そうとした陸斗に、ポカンとしていた三宅も声を荒げた。
「おい。てめぇ、昨日の――」
「俺が彼女と約束をしていたので。失礼します」
今まで見たことのないような冷たく鋭い視線で三宅を一瞥したかと思えば、三宅もひるんだようだった。
「え、ちょ、」
状況を把握できていない実花が慌てたような声を漏らしてしまうと、いいから、と陸斗は実花にだけ聞こえるようにそっと呟いた。
「はんっ、そういうことかよ。せいぜい使われて捨てられちまえば良いんだ。お前も上手くやれよ? 下手すると狂暴だからな、この女」
悔し紛れにごたごたと悪態をつく三宅には見向きもせずに、陸斗は実花の手を掴んだまま歩き出した。力が、強い。ぐいぐいと引っ張られるがままに、小走りで陸斗の後をついていく。一体どこまで行くのだろうか。分からないけれど、しかしその後ろ姿には確かな怒りが感じられて、声を掛ける事など出来なかった。
*****
「ほんっと、ごめん」
急遽入ったファストフード店で、陸斗は手を合わせていた。
「いいんだよ。むしろ、助けてくれてありがとう」
「いや、でも」
そう言って、気まずそうに陸斗は実花の赤くなってしまった手首を見た。
あのまましばらく歩いたところで、流石にどこまで行くのだろうと「一条さん!」と実花が何度か声を掛けるも、一切耳に入っていないようだった。男の人の力でぐいぐいと引っ張られてしまえば、掴まれた手首が流石に痛くなってくる。「一条さん! 痛いって!」と声を上げれば、「痛い」という言葉に反応したのか、陸斗は我に返ったようにぴたりと足を止めた。
「あ――」
自分が握っていた実花の手首を見れば、それはくっきりと赤くなってしまっている。それを認識した瞬間に、おろおろとし始めた陸斗に、実花は思わず笑ってしまった。
「ごめん、痛いよな。えっと、冷やさないと」
「あ、大丈夫だよ? 痛いっていっても、そこまで酷くはないし」
「でも――」
とりあえず何か冷やせるものを、と周囲を見渡すが完全なるオフィス街に入ってしまったようで、コンビニすらない。たった一軒、ビルの地下に入っていたファストフード店に駆け込んで今に至る。
「ごめんな、急に連れ出して」
「ううん。困っていたから本当に助かったんだ。ありがとう」
正直、本当に助かった。あのまま三宅と対峙していても、不快感がせり上がってくるだけで何をすることも出来なかっただろう。痴話喧嘩か何かと周囲からはちらちらと視線を投げかけながらも助けてはくれない。もし陸斗が助けてくれなかったらどうなっていたのだろうと、考えるだけでぞっとする。
「橋本さん、困っているみたいだったから。知り合いかな、とか思ったんだけど、多分昨日のエレベーターの人だよな」
エレベーターの人。その言葉に、実花はこくりとうなずいた。昨日、三宅が発した内容の真意までは読み取れずとも、実花に対して良くないことを言っているという事は分かったのだろう。
「ごめんね、なんか情けない所をみせちゃって」
「いや、全然。困った時はお互いさま、だろ?」
それは、ついこの前、実花が陸斗へかけた言葉だった。本当に気にしていないとでもいうかのように、カラッと笑った陸斗。その笑顔には、不快感など一切感じない。
「連れてきてもらってなんだけど、一条さん、時間とかは大丈夫……?」
あの時、陸斗がなぜあの場にいたのか分からない。もしかして、なにか他に用事があったのではないかと不安になれば、彼は緩く首を振った。
「全然。俺もお昼を買いに来たけど、コンビニが混んでいてさ。どうしようかなって思ったところだったから」
むしろ座って食べられてラッキーだったかも、と笑うのは、きっと実花に気を使わせないようにしているのだろう。
「……ありがとう」
「いえいえ。ほら、食べよう。折角のポテトがしなっとなっちゃうよ」
そう言えば、陸斗は目の前のハンバーガーにガブリと齧りついた。
そうだね、と実花も手元のポテトに口をつける。
陸斗は、優しい。きっと、三宅と何があったのか、あいつが言った言葉の意味、気になることは沢山あるだろう。そして、三宅が陸斗に投げかけた言葉が孕んだ暴力性も嫌味も、きっと彼は気づいているはずだ。それなのに、何も聞いてこない。実花が困っている、それだけでただ手を差し伸べてくれる。
嬉しいと、思う。実花のなかで彼は特別で、大切だとも、思う。でも、怖い。
全員が三宅のようだとは思わないし、それは全ての人に対して失礼だということも分かっている。しかし、優しくされればされた分だけ、裏があるのではないかと思ってしまうのだ。もう少し踏み込みたいと、仲良くなりたいと、欠片でも思ってしまったら、また裏切られてしまうのではないかと。
陸斗と一緒に過ごす時間は楽しい。もっと一緒に過ごしたいと思うし、今日だって突然のことではあったけれど一緒に食事が出来て嬉しいのだ。それなのに。
なぜか、いつものように言葉が出てこない。陸斗の話に、無難な相槌を打つことしかできないし、言葉の端々に裏がないかどうか気になってしまう。
陸斗は三宅とは違うのだ。そう、分かっているのに。
口数の少ない実花を心配しているのだろう。陸斗は普段よりも会社のことや家族の事を沢山話してくれて、なんとか実花を元気づけようとしてくれた。無理をさせて、気を使わせてしまっていることが、申し訳ない。でも、カラ元気で振る舞えるほどの元気は、実花に残っていなかった。
午後の始業時間に間に合うためには、そろそろ出ないといけない。きっと今日も残業だろうし、しっかり食べないといけないことは分かっているのだけれど、ぱさぱさとしたバンズは口の中の水分を奪っていく。
心配をかけないように、最低限は食べなくてはと、半分以上残っているハンバーガーに手を伸ばす。濃いめに味付けられたビーフパティに、とろりとしたチーズ。味のアクセントになるピクルスに、全体の味をととのえてくれるソース。
普段ならば、これが美味しい、これはどうやって作っているんだろう、なんて思考が働くし、会話にもなるのだけれど、今日はどうしても感想もなにも出てこない。ただ目の前のものを、消費するためだけに手を伸ばす。
口に入れたハンバーガーは、全く味がしなかった。




