ハンバーグメテオ
お礼がしたい、と彼女に連絡を取って返ってきたのは予想外すぎる提案だった。
結局あの夜の後、入院の見舞いや保険関係、弟達の事などで半休をとらせてもらったり早退させてもらったりで、仕事が溜まりに溜まっていた。陸斗がいなくても会社は回るが、陸斗と会議をしなくては進まない案件もいくつかあるわけで。家の事が落ち着いたと思えば、会議に会議の連続だった。そんな中でやっと見つけた隙間時間。歩きながらも仕事の話をする毎日だったけれど、定時を少し過ぎたあたりで何とか誰にも声を掛けられずに自動販売機へと席を立つことが出来た。
あまり時間があくのもなぁ。
実花にはきちんとお礼をしたいと思っていた。あまりあの日から期間があきすぎるとまた連絡が取りづらくなるし、早くしないとと思っていて、行儀が悪いと思いながらも歩きながらスマートフォンを取り出した。心配をかけてしまった彼女に、母が回復して戻ってきたことも伝えたい。
お礼の文章とともに、また食事でも、と仄かな期待を孕んだ文章を付け加える。ただ、会議ばかりのこの日々を思えば、それが叶うのは少し後になってしまうかもしれない。悔しいながらも社会人としてそれは逃げられない。誘っておきながら日程がなかなか空いていないことで、彼女にただの社交辞令と受け取られてしまうのではないかと、少し気になってくる。
あ、やばい。
今までならば気にしなかった程度のことだけれど、先日の一件から、陸斗の中で実花は確実に特別な女の子へと昇華されていた。そして、それを意識してしまえば、途端に送った文面が気になってくる。歩きながら打っているために、普段よりもそっけなくなってしまった文章。それもまた気になりながらも、送らないよりは良いだろうと急いで「後になってしまうかもしれない」という内容を送れば、途端に既読が付いた。
その反応速度にびくりと肩を揺らしながら彼女からの返信を緊張しながら待っていると、「ぜひ、行きたいです」とどこか改まった口調ですぐさま送られてきた。
よし、と心のなかで小さくガッツポーズをすれば、再び小さく震える端末。内容としては、陸斗の多忙を気遣い、気にしなくて良いというものだった。
え、いやいや。ちょっと待って。
先程の文章は別に自分の多忙をアピールしたかったのではないのだけれど、上手く伝わらなかったらしい。このままでは、優しい彼女は遠慮をしてこの話は終わってしまうだろう。そうではなくて、お礼はもちろんだけれど、陸斗がまた実花と一緒に食事に行きたいのに。上手く伝わらないことが、もどかしい。
このまま話が収束に向かってしまう前になんとか手を打たなくてはと、今度は誤解を生まないようにまっすぐな言葉を送る。彼女が締めの言葉を送ってくる前に送信しないと、と急いで送った文章。ポンという音と共に表示されたそれを改めて見れば「俺が一緒に行きたいから、行かせて」という何ともストレートなものとなっていた。
待って待って、これじゃあ、ちょっと。
誤解を生まないことを意識したばかりに、なんともナンパのような文面になってしまっている。これじゃあ、彼女に気があることがバレバレじゃあないか。いや、実際、気はあるのだけれど、こうもあからさまなのはどうなのだろう。引かれてしまうのではないかと、「一緒に食べるの、俺も楽しいし」と弁解じみたメッセージを送る。嘘はついていない。一緒に食べるのが楽しいから、一緒に行きたいだけ。自覚したばかりの自分では、彼女にまた会いたいという気持ちを全面に押し出すことはなんとも難しい。
どんな反応が返ってくるのだろうと、恐る恐るトーク画面を見れば、最後の文章にも既読が付いている。しかし、なかなか返信はこない。移動中かもしれないだろ、と自分に言い聞かせるが、もしかしたら自分の文章がいけなかったのではないかという気もしてくる。
そわそわとしながら歩いていると、いつの間にか自動販売機の前に辿りついていた。目当てのコーヒーを選択してお金を投入すれば、ガコンとコーヒーが落ちてくる。返信がこないのならばこのままデスクに戻ってしまおうかと考えていれば、ヴヴッとポケットの中が小さく震えた。
慌ててスマートフォンを取り出せば、表示されていたのは予想外すぎる内容だった。
「今度は私がオススメのお店に行きませんか?」
きっと「え?」とかなんとか陸斗は声に出していただろう。廊下に誰もいなくて良かったと、そのまま自販機の向かいにある小さな休憩用のソファに腰かける。陸斗とて彼女と行きたいお店は沢山あれど、今度どこに行くかはまだ具体的に考えていなかった。だから別に彼女にオススメで構わないのだけれど、どこか「お礼」という趣旨から外れてしまう気がする。
お礼なのに申し訳ない、という内容を返せば「最近行っていないので、一緒に行ってもらえると嬉しいです」と送られてくる。それならば、断る理由がない。陸斗のオススメを紹介するのはまた別の機会にすれば良いだけだし、彼女の好みを知る事が出来るのならば楽しみだ。何よりも、先程のナンパのような文章について、特に彼女が気にした様子がないことに安心した。
その後、いくつかやり取りをすれば、月曜日のランチを一緒に行くことに決まった。明日は彼女に予定があるらしく、土日は生憎陸斗が出張だった。土曜日出勤の代休で月曜日が開いている実花と、午後からの出社で良いと言われている陸斗。予想していたよりも上手く互いの都合をつけることが出来て、内心はかなり舞い上がっていた。
どこに連れていってくれるんだろな。
わくわくとした気持ちを胸に、出張用の書類をさっさと作成してしまおうとデスクへ戻る。ホットで購入したはずの缶コーヒーは、いつしかぬるくなっていた。
*****
そして迎えた月曜日。午前十時三十分という、ランチには少し早めの時間に決められた集合時間。会社がある駅からは少し離れた駅にある、各駅停車しか止まらない小さな駅が今回の待ち合わせ場所だった。ランドマークのようなものもないし、今までの場所のように学校があるわけではない、穏やかな住宅街。一体どこに連れていってくれるのだろう、とわくわくしていると、ロータリーの柱に寄りかかる実花が見えた。「一条さん」と手を振る彼女に、改札口から手を振り返す。ふと時計を見れば、集合時間の十分前だった。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、私も今来たところ」
微笑む実花に不覚にも心臓がとくりとする。
それじゃあ行こうか、と彼女が歩き出す。「少し並ぶお店なんだ」という彼女に「何のお店?」と聞けば、「着いてからのお楽しみ」と楽しそうに答えられてしまう。
昔は商店街として栄えていたのであろう、シャッターが立ち並ぶ大きな通りをしばらく歩く。穴の開いた天井からは、太陽の光が漏れていた。十分ほど通りを歩けば、「こっち」と細い道を曲がる。そこから何度か路地を曲がって、いつしかあまり人通りのない路地裏となっていた。
夜道は危ないだろうな、という印象を受けてしまうような細い道。こんな所にお店があるのだろうかと思っていれば、「あそこだよ」と彼女は突然指をさした。ビルとビルの間にある、背の低い小さな佇まい。普段ならば通り過ぎてしまうような場所にあるそこには、既に二、三組が並んでいた。
丸太を模した看板に「肉の森小屋」と力強い文字が描かれている。名前から想像できるように、森小屋をイメージしているのだろう。丸太で作られたような壁面に、木製の重たそうなドア。取っ手には少し細身の枝が使われている。こんなランチには早い時間から人が並んでいることから、相当な人気店なのかと思えば、扉には準備中の看板が掛けられている。どうやらまだ開店をしていないらしい。
「お店自体は十一時からなんだけど、小さなお店だから最初に入らないと混んじゃうんだ」
最後尾に並びながら、実花はそう呟いた。確かに、外観だけみても相当小さなお店であろうことは伺える。開店前ということもあって、店からは何の香りも漂ってこない。結局なんのお店なんだろうかと、きょろきょろと看板のあたりを見てみるが、まだメニューなども外には出ていなかった。
「ハンバーグ屋さんだよ」
陸斗の思考を読んだかのように、彼女は笑った。
「私も連れてきてもらって一度だけ来た事があるんだけど、すごく美味しいの。ランチだとかなり安くて沢山食べられるんだよね」
「……へぇ」
そういえば、一緒に行く人がいない、というような事をやり取りした時に言っていた。こんな小さな駅の、路地裏の小さなお店。確かに誰かに連れてきてもらわないとなかなか知る機会はないだろう。
誰と来たんだろう、という疑問がほんの小さなささくれのように引っかかる。いない、という言葉から、もしかして昔の彼氏か何かだろうかと、なんとも複雑な気持ちになる。別に、そんな事を気にしたって仕方がないのだろうけれど。
「あ、連れてきてもらったって言っても、友達だよ? 大学時代から一緒の女の子」
慌てたように付け加えられた情報は、陸斗の不安を払拭するには十分なものだった。
「かなでって言うんだけど、部は違うけれど同じ会社で。最寄り駅がここで、連れて来てくれたんだ」
自分も来た事がないのに店名がおもしろいからって連れて来られたんだよ? と笑う実花に、ふっと陸斗の気持ちも軽くなる。なるほど、友人の最寄り駅だというならば、こんな小さなお店を知っているということにも納得ができる。
それよりも、そんな弁明をさせてしまうほどに変な顔をしていたのだろうか。
「……女二人でハンバーグっておかしい?」
「いや?」
黙ってしまった陸斗に何を思ったのか、彼女は少し口を尖らせた。別にそんな事を気にするわけないのに。
「美味しいものを食べてしっかり仕事して、だろ?」
いつだか実花が言ってくれた言葉をそっくりそのまま返してやる。陸斗の心を溶かした、彼女にとっては何でもないのであろう一言。それは、今でも大切に陸斗の心に残っていた。
一瞬きょとんとしたかと思えば、どうやら陸斗の意図に気が付いたらしい。すぐさま、ぱぁっと笑顔を浮かべた。
うん! と嬉しそうに答えたかと思えば、カランカランとベルの音とともに列が動き出す。時計をちらりと見れば、時刻は十時五十五分。もしかしたら列が出来ているからと少し早めに開けてくれたのかもしれない。重たい木製の扉をくぐり、木の温かい雰囲気あふれる店内へと足を踏み入れた。
*****
牛肉たっぷりハンバーグに、とろりとチーズインハンバーグ。ベーコンとソーセージとのトリオプレートに、厚切りステーキなんてものまで。メニューを眺めているだけでお腹が空いてきそうだ。ランチメニューということで、好きなメインプレートにご飯とサラダ、スープが付いてくるらしい。しかもご飯とスープはお替わり自由という表記までしてある。
「ちなみにオススメは?」
一緒にメニューを眺めている実花に尋ねれば、迷うことなく「一番人気」とポップな見出しが付いている「牛肉たっぷりハンバーグ」を指さした。
「正直な所、来たのは二回目だからよく分からないんだけどね。これは、前回来た時に食べたけどすごくおいしかったよ」
ソースも選べるの、と言う通り、写真の下には小さく、デミグラスか和風醤油と書かれている。
「じゃあ、それにしようかな」
「私も」
すみません、と店員を呼んで注文を済ませる。ふと店内を見回せば、いつしか満席になっていた。確かにこれは、昼時に入りたければ早めにくるしかないだろう。
温かいおしぼりで手を拭いて、このまま普段の会話になってしまいそうになったところで、本来の目的を思い出した。思わずなごんでしまいそうになっていたが、そうじゃない。それでは改めまして、と前置きをすれば、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「この前は、本当にありがとう。無事、母も退院しました」
お世話になりました、と座ったまま頭を下げれば、実花は分かりやすく慌てだした。
「え、ちょっと、そんなに気にしなくて良いのに」
「でも今日はやっぱりお礼だから。それに、本当にあの時助かったんだ」
一緒に食事をしていて別れ際にかかってきた電話。それに冷静ではなくなってしまった陸斗を、彼女は深い事情を聞かずにただ支えてくれた。病院に行ってからも、実家に戻ってからも。陸斗だけではない、突然、たった一人の親が倒れてしまった弟達の事も考えて傍にいてくれた。突然のあの状況に、告げられた陸斗の過去。驚いていないはずがないのに、それでも彼女は変わらずに接してくれる。隠していたのかと、会社での振る舞いは嘘なのかと、一線を引かれてしまってもおかしくはないのに。
「本当に、ありがとう」
嬉しかった。容姿や噂にのみ惹かれて陸斗自身を見ようとしない人ばかりのなかで、あの情けない、自分本来の姿を見てもなお、変わらない彼女の存在が。自分が大切にしているものを、同じように大切にしてくれる彼女の事が。
「いいんだよ。困った時は、お互いさまでしょ? それに、みんなで朝食を食べたでしょう。あれが本当に嬉しかったから」
それだけで十分、と笑う彼女は穏やかだ。そこにはお世辞や謙遜も見られず、彼女の本心からの気持ちだという事がうかがえる。そんなところが、やはり――。
「お待たせしました」
降ってきた声に顔を上げれば、ジュウジュウと音を立てたプレートが運ばれてきた。熱いのでお気をつけください、と言われて前に置かれたプレートの上では、ソースが激しく音を立てていた。
「ほら、食べよう? 熱々が一番おいしいよ?」
へらりと笑って、フォークとナイフを渡してくれる。その姿にやはり救われながら「そうだな」と受け取った。
真っ黒なプレートに向き合えば、げんこつ程度の大きさのハンバーグに、皮つきポテト、そしてニンジンのグラッセ。彩りを添えるようにパセリも添えられている。
やはり最初は、とハンバーグにフォークとナイフを差し込めば、途端にあふれ出てくる肉汁。切ったところからじゅわりとこぼれて、熱したプレートに触れて音を立てた。そのままそれを口に運べば、途端に口の中に肉のうまみがぶわりと広がる。肉のこってりとした感じに、和風醤油のソースが絡みつく。互いの良さを引き立てあって、くどくない、なんとも絶妙なハーモニーだ。
「……うまい」
「でしょう?」
こちらの顔色をそわそわと窺っていた実花に感想を述べれば、嬉しそうな声を上げる。
「熱々が絶品なの。肉汁がたっぷりで、本当に美味しいよね」
そう言って彼女も自分のハンバーグを口に運んだ。んーっと美味しそうな表情に、こちらまで嬉しくなる。皮つきポテトは、一度揚げているのだろうか、シンプルな味はこってりとした口の中を落ち着かせてくれる。ニンジンのグラッセは、ストンとフォークが通る柔らかさで、仄かに甘いが甘すぎない。きっと、このプレート全てを食べた時に丁度良くなるように計算されたのであろう。
美味しい肉に、ご飯も進む。陸斗の皿は気が付けばすっかり空になっていて、「おかわりいかがですか」と尋ねてくれた店員に素直にお願いをした。
「そういえばさ」
ハンバーグをナイフで切りながら、陸斗は口を開いた。
「星がまた会いたいって言ってるんだ」
「星ちゃんが?」
「あぁ、星だけじゃなくて他の弟達も会いたいって言ってる。母親もちゃんとお礼をさせてくれってうるさくてさ」
あの一晩で弟達はかなり実花に懐いたようだ。最近では「お姉ちゃんは次いつくるの?」と催促される始末だ。母親には陸斗から、友人が助けてくれたという話をしていたのだが、どうやら伊藤さんや弟達からも実花の話を聞いているらしい。きちんとお礼をさせなさい、とことある度に言ってくる。
「お礼は本当に気にしないで良いって」
「じゃあ、今度弟達に会いに遊びに来てくれよ」
それなら良いか? とまるで代替案のように言えば「私で良ければ」と彼女は少し照れた風に言った。私で良ければ、じゃなくて、あなたじゃなきや駄目、なんだけどな、と思ったが、流石にそれを言うのはやめた。
「やっぱり土日が良いのかな?」
「弟達全員会いたがっているから、出来れば。あぁ、母親もいる時だと良いな」
会いたいって本当にすごくてさ、と言いながら思わず苦笑してしまう。
「じゃあ、一条さんの都合が良い土日を今度教えて?」
「了解、また連絡するな」
それからしばらく他愛のない話をして、気が付けば二人の皿は綺麗になっていた。時計を見れば、丁度良い時間だ。午後から出社だから、そろそろ出れば十分間に合うだろう。
「私も会社に忘れ物しちゃったから、一緒に行っていい?」
断る理由もないし、むしろもう少し一緒にいられるのだと思って、「もちろん」とすぐさま返事をした。会計を済ませて電車に揺られている間も、会話が尽きることはなかった。
二人の会社が入っているオフィスビル。やってきたエレベーターに乗り込めば、中途半端な時間だからだろうか、陸斗と実花の二人だけだった。それぞれの階のボタンを押し、ドアが閉まる瞬間に「乗りまーす」という大きな声が聞こえてきた。高層ビルであるこのビルではよくあることだ。反射的に、ドアが開くボタンを押せば、ぜぇぜぇと息を切らしたスーツ姿の男性が乗ってきた。
「すみません、十三階までお願いします……って、実花?」
息を整えながら姿勢を戻した男は、ふと陸斗の隣に立っている彼女に視線をやった。その男が発した、実花、という呼び方に反応する。だってそれは彼女の――。
「なんだ、やっぱり実花じゃねぇか。なんも変わってねぇのな!」
「三宅、さん――」
大きく目を見開いた彼女は、その男の姿を確認するなりどんどん青ざめていく。
「扉が閉まります」という無機質な音に、ふわりと感じる無重力感。喉の奥からせり上がっていくこの不快感は、一体なんだ。
「橋本さん、大丈夫?」
「えっと、だい」
「はんっ、またお前使われてんのかよ。そういや斎藤と同じ会社だったっけか。気の毒だよなぁ、端役は」
大丈夫、という言葉を実花が発するよりも前に、嘲るかのようにかぶせられた言葉。それは意味までは分からずとも、彼女に対して酷い事を言っていることだけは分かる。男の言葉を聞いた瞬間、彼女はビクリと肩を震わせた。
「すみませんが、あなた――」
「まぁ、その時だけでもイケメンに相手されれば幸せだよな。束の間の幸せ、ってやつか? そのあたりが、分相応ってやつだよな」
品定めをするかのように、舐めるような視線を陸斗に投げかければ、男はがははと下卑た笑いをこぼした。それは不快感を通り越して、嫌悪でしかない。
ふざけるなと、何か言い返してやろうと口を開いた瞬間に、チンと目的階に到着した音が響いた。「じゃあな」と一方的に言い捨て、ドカドカと降りていく男を思わず引き留めようとすると、くいっと横からスーツを引かれた。
「私は、大丈夫だから」
何が大丈夫なんだ。そんな真っ青な顔をして、小さく震えているのに。
しかし、その手を振りほどこうという気にはなれずに、いらだたし気にドアを閉めるボタンを押した。そのままエレベーターはゆっくりと上昇していく。その間、先程までは尽きることのなかった会話はどこかに行ってしまい、狭い箱の中の空気は鉛のように重く、まるで葬儀場だった。
実花のオフィスが入っている階に到着すれば、彼女は弱々しく扉へと歩いて行き「すみませんでした」と頭を下げた。
それは何に対しての謝罪か分からなくて、何を言ったら良いのか迷っている間に、ゆっくりと鉄の扉は閉まっていった。閉まる瞬間の彼女は、嬉しそうだったほんの一時間程前の表情とは打って変わって、泣きそうな、でも無理をして作られた表情だった。
エレベーターは上がる、上がる。重力に逆らったその運動に、なんだか今は、吐き気がしそうだった。




