強さの理由
ガタン、ガタンと電車に揺られる。電車の進みが普段よりもゆっくりに感じられて、もっと速く、速くと気持ちばかりが急いてしまう。
「一条さん、これ、もし良ければ」
帰宅ラッシュとは反対の路線であるからか、人の少ない電車内。実花はピンク色の水筒を差し出した。
「私の水筒だから嫌かもしれないけれど、顔が真っ青だから」
「え、あぁ……」
顔色のことは分からないが、言われてみれば口の中がカラカラと乾いている。返事をしようにも、喉が乾燥して上手く音にならなかった。
何も考えずにその水筒を受け取り、とくとくとカップに注げば、中には麦茶が入っていた。くいっと一気に飲み干せば、それでもまだ足りなくて、もう一杯。そうしてやっと、乾きが潤って、少し頭もしゃんとしてきた。
「落ち着いた?」
「あぁ、ありがとう」
水筒を返せば、彼女は黙って受け取った。
そこからは、互いに何も話さずに電車に揺られ、タクシーに乗り込んで病院へ向かった。
きっと色々聞きたいことはあるのだろうに、彼女は何も言わない。「きっと大丈夫だよ」「しっかりして」なんて無責任な励ましも言葉もないことが、救いだった。
南病院。陸斗の住んでいる地域では最も大きい総合病院だ。
緊急外来の入り口から案内されるままに進めば、病室の前で伊藤夫妻と弟妹が待っていた。
「陸斗くん」
「遅くなってすみません。母の容態は」
「大丈夫よ。極度の過労とストレスですって。搬送された時に意識はあったし、今は眠っているわ」
付き添ってくれたという伊藤さんの奥さんは、そう穏やかな口調で教えてくれた。
「良かった……」
安心して不意に力が抜ける。カクン、と膝から崩れそうになった所で「一条さん!」と実花が肩を支えてくれた。
「にいちゃん」
「にーちゃーーー」
陸斗も倒れるのかと思ったのか、不安そうな表情をした弟達が駆け寄ってくる。ずっと不安で、怖くて、それでも気丈に振る舞っていたのだろう。陸斗を見て安心したのか、四人ともぼろぼろと泣きながら抱きついてくる。それをしゃがんで受け止めてやれば、痛いくらいの力でぎゅうぎゅうと抱き締められた。
「もう大丈夫だからな。にいちゃんはここにいるから」
「にいちゃん」
「にーちゃん」
ぐすぐすと泣き声が、人気のない病院の廊下で響く。夜だということで、照明も最低限しか付いていない。非常口の緑のランプだけが、ぼんやりと廊下の奥で浮かび上がっている。それは嫌でも五年前のあの日を思い出させ、幼い彼らも、きっと同じことを感じたのだろう。
あの頃はまだ漠然とした不安を感じていただけだった彼らも、もう既に死を知っている。もし、再びあの悲しい別離がきてしまうのではと、その小さな体では抱えきれないほどの恐怖を感じていたはずだ。
大丈夫だと伝えるために、ゆっくりと背中をさすってやれば、段々とその泣き声は小さくなっていった。
「陸斗くん、そちらの方は?」
弟達が落ち着くと、ふと皆の視線は陸斗の後ろに立っていた実花に注がれた。
家族でも近所でもない、彼らにとっては知らない人。どうしてこのような非常時にいるのだろうと、疑問を持つのは当たり前だ。
「えっと、一条さんの友人の、橋本実花と申します」
ぺこりと丁寧に頭を下げた彼女を見ながら「電話があった時、彼女と一緒にいて。俺を心配して付いてきてくれたんだ」と説明をする。
実際、彼女がいてくれて良かった。大切な人との別れは二回も経験しているし、既に大人なのだから大丈夫だと思ったが、だからこそ最悪の事態を想定してしまって動けなくなった。情けない話だが、彼女がああやって手を引いてくれなくては、もっと道中落ち着きを失っていただろう。
「あら、そうだったのね。陸斗くんのアパートの大家をやっています、伊藤と申します。それで、こっちは旦那ね」
にこにこと人の良い笑みを浮かべながら、伊藤さんはそう自己紹介をした。元々、夫婦揃って人当たりが良く、人付き合いも上手な人だ。人見知りするタイプとは思えないが、あっさりと彼女がここにいることを受け入れてくれたようだ。「こっちのベンチに座りなよ。仕事帰りでしょ」なんて、自分の隣を勧める始末だった。
「陸斗くん、先生から話があるって」
伊藤さんの声に顔を上げれば、病室から出てきた白衣の男性医師が手招きをしていた。
「ご家族の方ですか」
「はい、長男です」
ではこちらへ、と言われて立ち上がろうとすれば、弟達が行かないでとでもいうかのように、ぎゅうっと抱きついてきた。
「行っちゃやだ」
「にいちゃん」
「行かないで」
不安なのだろう、心細いのだろう。普段ならばあまり我が儘を言わない海ですら、陸斗から離れない。
「ほら、陸斗くんは大事なお話しがあるんだって。おばちゃん達と待ってよう?」
「でも」
「やーだー」
ふるふると首を横に振る弟達。いつもはよく遊びに行くくらいの仲なのに。
どうしようかと思案していると、すっと実花がしゃがんで声を駆けた。
「初めまして、お兄ちゃんのお友だちの実花って言います」
弟達の目線に合わせてそう優しく語り掛ければ、彼らは恐る恐る顔を上げた。知らない人ではあるが、陸斗の友達、ということに興味を引かれたのだろう。
「私、絵本を読みたいんだけど、一緒に読んでくれないかな? もう夜だし一人は寂しくて。海くんたちが一緒に読んでくれると嬉しいな」
にこにこと優しい笑顔でそう言った実花。末っ子たちは、お願い、に弱い年頃だ。それに、寂しい、と言われると何か今の自分達と共通するものを感じたのだろう。
「お姉ちゃん、さみしいの?」
「……うん」
「じゃあ、星がいっしょに読んであげようか……?」
ひょこりと顔を上げて、どこかまだ警戒をしながらも口を開いたのは末っ子の星だった。女の子ということもあり、実花に対する警戒も薄いのかもしれない。
「ありがとう。すごく嬉しいな」
「星が読んであげるなら、風も」
双子だからだろうか、風も顔を上げて、とてとてと実花の方へ歩いていった。下の兄弟たちが陸斗から離れていく姿を見つめながら、海と空の瞳は迷いに揺れていた。
「……海と空は絵本を読むのが上手だから、お姉さんに読んであげて欲しいな」
くしゃりと頭を撫でれば、二人は顔を見合わせた。どうしよう、でも、という声が聞こえてきそうだった。
「お兄ちゃんは、必ず帰ってくるから」
ね、という実花の問いかけに「必ず帰ってくるよ」と返す。必ず、という二文字に力を込めて。それは頼もしい響きをもって鼓膜を揺らす。だから大丈夫だよ、とでも言うかのように。
「……じゃあ、お兄ちゃんのお友達だもんね。読んであげる」
「絶対帰ってきてよね、にーちゃん」
「あぁ、約束だ」
そっと陸斗に絡んでいた細い腕が離れる。もう一度くしゃりと頭を撫でてから立ち上がれば、実花と目があった。互いに何か言うでもなく、彼女と、その奥に座っていた伊藤夫妻に頭を下げて、少し先で待っていた医師の元へと駆け寄った。
過労。それが母が倒れた原因だった。病室から少し離れた診察室で尋ねられたいくつかの質問は、最近無理をしていた母にどれも当てはまった。責任感が強い母は、自分の仕事への責務も、シングルマザーとして子供たちを育てる母としての責務も、なんとかして果たさなくてはと、知らぬ間に体の負担となっていたのだろう。
過度のストレスによる自律神経の乱れや、睡眠不足。脳へ十分な栄養が補給されておらず、眩暈がおきて倒れてしまったのだろうという見立てだった。
「とりあえず、十分な休息が必要です。しばらくは点滴が必要になりますので、二、三日は入院をしましょう」
白髪の医師の言葉に「お願いします」と返せば「君もあまり無理をしすぎないようにね」と穏やかに告げられた。
入院の手続きや諸々の書類を作成するからまた待合室で待っていてね、と言われ、弟達を残してきた所まで戻る。するとそこには、実花の膝や肩にもたれてうつらうつらとしている四人がいた。近くの待合室から持ってきたのだろう絵本が何冊か横に置かれていることから、きっと絵本を読んでいる最中に眠ってしまったのだろう。
「陸斗くん、おかえり」
後ろからの声に振り返れば、缶コーヒーを持った伊藤さんの奥さんがいた。
「あの子と本を読んでいたら、さすがに眠気が限界だったらしくてね、すぐにうとうとし始めたんだ。寝て良いよって言っても、にいちゃんが帰ってくるまで起きてる、って聞かなくてさ」
苦笑しながらも、その視線は穏やかだ。
「陸斗くんが帰ってきたら、うちの旦那に送らせようとしていたんだ。旦那も明日の市場があるからさ」
伊藤さんは陸斗達の住むアパートの隣で魚屋を経営している。その仕入れで朝一番の市場へ向かうことから、朝が早いことは知っていた。それにも関わらず、こんなに遅くまで付き合わせてしまったことに申し訳なさが募る。
「遅くまですみませんでした。本当にありがとうございます」
「なに言ってんのよ、陸斗くん達は私達の息子同然なんだから。私は陸斗くんと一緒に残るからさ、ほら、入院の手続きとか、慣れてんだ」
あははと豪快に笑うおばさんは、きっとこうして陸斗達の父親が倒れた時にも母を支えたのだろう。双方の祖父母はとうに亡くなっていて、頼る親戚がいない母にとって、彼女がいかに頼もしい存在だったかという事を痛感する。
「ありがとうございます……」
「いいってことよ。ほら、海くん達に早く顔を見せてやんな」
どんと背中を押され、そのまま弟達の元へと駆け寄る。陸斗に気づいた実花は、おつかれさま、と小声で声を掛けてくれた。
「ありがとな、弟達と一緒にいてくれて」
「ううん、私はなにも。みんな良い子で絵本を読んでくれたんだ」
愛おしそうに弟達を見つめる彼女。「ほら、おにいちゃん戻ってきたよ」と優しく膝の上の星と風の頭を撫でる。すると、うぅん、と寝ぼけ声を漏らしながらゆっくりと瞳が開いた。
「にい、ちゃ、ん」
「あぁ、戻ってきたよ」
「にいちゃん?」
「にいちゃ、ん!」
声に反応して、今までうとうとしていた四人は一斉に起き上がる。抱き着いてくる彼らを抱きとめてやれば、ぎゅうっと抱きしめ返される。
「母さん、大丈夫だって。何日か病院にお泊りするけど、すぐに元気になるよ」
「ほんと?」
「うん、本当」
「良かったぁ……」
ほっとした表情をする彼ら。気丈に振る舞ってはいても、ずっと緊張していたのだろう。ようやく肩の力が抜けたようだった。
「お姉さんに絵本読んでくれたいたんだって? みんな偉いな、ありがとう」
くしゃくしゃと頭を撫でてやれば、えへへ、と笑う彼ら。しかし安心したことによって眠気がぶり返してきたようだ。うつらうつらと話ながらも船をこぎ始めた。
「ほら、おじちゃん達と一緒に帰ろうか」
「……にいちゃんは?」
「にいちゃんは、まだ病院でやらないといけないことがあるんだ。伊藤さんと一緒に帰って、良い子で寝ててな」
重たい瞼をなんとか開けながら、嫌だというかのように、うりうりと今まで頭を預けていた実花の膝へ顔を押し付ける。心細いのだろう、その気持ちはよく分かるが、手続きがどれくらいかかるか分からない以上、このまま残していくわけにもいかない。伊藤さんにもこれ以上残ってもらうわけにはいかないし、帰宅の際に一緒の車に乗せてもらった方が良い。
「ほら、もう眠いだろうけど少し頑張ろうな」
そう言ってぽんぽんと肩を叩けば、ゆるりと頭を上げた星が呟いた。
「お姉ちゃんは……?」
「え?」
「お姉ちゃんも、いなくなっちゃうの……?」
きゅっと実花のスカートを掴んで、彼女を見上げている。その瞳は不安げにゆらゆらと揺れていた。
それでも、彼女をこれ以上引き留めるわけにはいかない。ただ一緒にいたというだけで、ここまで来てくれた彼女にさらに迷惑をかけるのは憚られる。
「星、お姉さんは――」
「ううん、一緒にいるよ。おうちに帰るまで一緒にいる」
なんとか我慢させなくては、と思って口を開けば、陸斗よりも先に実花が答えた。その言葉に、ぱぁっと明るくなる表情。陸斗がいない間に、星はずいぶんと実花に懐いたらしい。
「……ほんと?」
「うん、本当」
良かったぁ、と呟いて、星はまたむにゃむにゃと膝の上でまどろみ始めた。
「橋本さん、さすがにそれは申し訳ないよ」
「いいの。今は非常事態でしょう? それに私もこの子達が心配だし。もし一条さんが迷惑でなければ、もう少し一緒にいさせて?」
その優しい言葉を跳ね除ける理由はなかった。実際、陸斗も弟達を帰すのは心配だったし、懐かれた彼女がそばにいるとなれば、少し安心する。
「……ごめん。なるべく早く帰るから」
「ううん。任せて」
その時自分は、きっと情けない顔をしていたのだろう。自分一人ではどうにもならなくて、でも守らないといけないものはあって。恋人ではなくて、先程は友人といったけれど、本当にそう言って良いのかも迷うような間柄。それなのにここまで頼って良いのかと迷いがないわけではない。しかし、ここで差し伸べられた手を取らない程、まだ強くはない。
「ほら、一緒におうちで寝ようね」と声をかけて、ぽんぽんと優しく弟達を起こしていく彼女。むにゃむにゃと半分夢の中のような彼らは、言われるがままに、とてとてと伊藤さんと実花と一緒に駐車場の方へと歩いて行く。
病院の出口からその後ろ姿を見送っていると、ふいに伊藤さんの奥さんが口を開いた。
「友達って言ってたけど、そうじゃないんだろう?」
「え、」
「橋本さん。実花ちゃんだっけ? お互いさん付けだったからねぇ、そこまで親しくないのかなって。おばさんの勘だけどね」
茶化すでもなく、小さくなった彼らの後ろ姿を見ながらおばさんはつぶやいた。どうやら見抜かれていたらしい。
「まぁ、はい、色々ありまして。一緒にご飯を食べに行く間柄、ですかね」
我ながら言っていてなんだそれと思うが、今の二人の関係性はそれでしかないのだから仕方がない。
「でも、陸斗くんが弟達を任せるんだ。なかなか信頼しているんだろう?」
「……そうですね」
「良い子じゃないか。礼儀正しくて優しくて気配りができて。何より、澄んだ瞳をしているよ」
「……はい。すごく、素敵な子ですよ」
それは率直な思いだった。陸斗の素の部分を見ても幻滅せずに、このような緊急事態においても、初対面の弟達にも気を配ってくれて。素敵な子だ、とても。
「彼女にしちゃえば良いのに」
今度は完全にからかう口調で、にやにやと呟かれた。
「え? あー、それは、その」
考えていなかったわけではない。しかし改めて他の人から言葉にされると詰まってしまうものがある。
ふぅん、と面白そうに呟かれたところで「一条さん、お待たせしました」と医師が呼ぶ声が聞こえてきた。諸々の手続きの準備が出来たのだろう。陸斗は、今いきます、と踵を返して歩き出した。
*****
入院の手続きを終え、伊藤さんと電車で自宅の最寄り駅へと到着したのは深夜遅くになってからだった。
「ありがとうございました」
「いいのよ。何かあったらすぐこっちに来なさいね」
それじゃあ、と伊藤さんは魚屋の二階へと帰っていく。それを見送ってから、陸斗もアパートの二階へ。もう弟達は寝ただろうか。ギシリギシリと木造アパートの階段は、どんなに静かに上ろうとも小さく悲鳴をあげる。
カチャリと鍵を回してそうっと中に入れば、小さな明かりが灯っていた。
「え……?」
「あ、おかえりなさい」
台所の隣の小さな居間。座卓で本を読んでいた実花は、陸斗の帰りに気が付くなり立ち上がった。
「手続き、お疲れさまです。みんな寝てるよ」
「あ、あぁ、ただいま」
忘れていたわけではない。ただ、手続きの煩雑さや弟達のこと、そして陸斗自身の疲労により、彼女が家で待っているという事実を意識の外に追いやっていた。だから、純粋に驚いたし、おかえりなさい、とふわりと笑顔で出迎えられたことにある種の感動を覚えるのも無理はないだろう。
「伊藤さんは明日の準備があるって言って戻られたの。帰ってくるまで付き合えなくてごめんな、って伝えて欲しいって」
「分かった、ありがとう」
緊急時にこんな時間まで付き合ってくれたことだけで十分だ。後日またお礼に行かないとな、と思っていれば、ふわっと良い香りが鼻を掠めた。
おや、と台所を見れば、流しにはいくつかの食器が出ている。
「伊藤さんが帰ってから、みんなお腹がすいたって言うからお台所借りたよ。勝手にごめんね」
そういえば、母が倒れたのは買い物帰りだと言っていた。もしかしたら弟妹達は夕食をとっていなかったのかもしれない。きっと恐怖と不安、緊張でそれどころでなかったのだろう。それが、帰宅して緊張が緩んだ途端に空腹に気付いた、といったところか。
「いや、それは全く構わない。むしろそこまでありがとうな」
「ううん。もし良かったら一条さんも食べる? 雑炊なんだけど」
「じゃあ、軽くもらおうかな」
温めるね、なんて声を掛けられる。その間にそっと寝室へ続く襖に手をかければ、弟達はすぅすぅと寝息をたててみんなよく眠っていた。小さい体で、二度目の死へ遭遇してしまうかもしれないと、きっと、とても怖かったのだろう。
「……にいちゃん?」
薄明かりで目を覚ましてしまったのだろうか。星がむくりと起き上がった。
「ただいま。まだ寝ていて良いぞ」
ゆっくりと頭を撫でるが、ゆるりと首を横に振られる。
「良い匂い、する……」
まだ半分ほどしか目が開いていないのに、ぼんやりと呟いたかと思えば、ゆらゆらと居間の方へと歩いていく。
「あ、ちょっと星」
「星も、たべる……」
「え? 星ちゃん?」
慌てて星を追いかければ、実花も驚いたようだ。お玉を片手に、どうしましょう、とこちらを見ている。
「……じゃあ、少しだけ、な」
星の分も頼む、と言えば、彼女はこくりと頷いた。
星は座卓の前でちょこんと座りながらも、まだ眠いのだろう、ぽけーっとしていた。
「運ぶよ」
ありがとう、と言って実花から器を受け取る。優しい出汁の香りがふわりと鼻を抜けた。
「ほら、星、熱いからふーふーするんだぞ」
「うん」
ふぅーふぅーと何度か冷ましてから、はふりと口に運ぶ。
「……おいしい」
へにゃりと笑って、もくもくとスプーンを器から口へと往復させる。
それを見ながら、「いただきます」と手を合わせて、陸斗も温かい雑炊を口へ運んだ。
和風に味つけられたそれは、優しい出汁の味がする。具は卵とネギのみという簡単なものだが、だからこそこの時間の胃に優しい。
「美味しい」
「そう? 良かった。みんなもよく食べてくれたんだ」
実花がそう言えば、星はどこか自慢げにこくこくと頷く。
「それじゃあ、私はそろそろ帰るね」
陸斗達が食べ始めるのを見届け、ふっと実花は立ち上がった。言われて壁の掛け時計を見れば、確かに終電ぎりぎりの時間だ。
「っそうだよな、悪い。駅まで送るよ。終電間に合うか?」
色々な事態が重なって気が回らなかったが、こんな遅くまで付き合わせてしまったのだ。弟達の面倒だけでなく、陸斗の夜食まで用意してもらってしまった。
「大丈夫だよ。今はみんなの側にいてあげて」
「いや、でもこんな遅くに一人で帰せないから。それでなくても、俺のせいでここまで付き合わせちゃったし」
「私は大丈夫。みんなが起きた時に、一条さんがいないときっと不安になるよ」
ただでさえ、今日は誰かがいないことが不安になるんだから。
そう言われてしまえば返す言葉がない。しかし、はいそうですかと言って、こんな夜更けに女性を一人で送り出すことはできない。
どうしようかと思っていれば、実花がカバンを持って立ち上がったことで、帰宅しようとしていることを察したのだろう、星がガタッと立ち上がった。
「お姉ちゃん、行っちゃうの? やーだー!」
行かせないとでもいうかのように、ぎゅっと実花の足に抱きついた。ぐすぐすと目には涙も浮かべている。
「星ちゃん、私、もう帰らないと。また今度一緒に遊ぼう?」
「やだ……」
「星、あまりお姉さんを困らせないの」
「やーーっ!」
ぐりぐりと頭を押し付ける姿に、実花はそっとしゃがんで星を抱き締めた。
「お姉ちゃ、一緒にいて……。お母さ、いないの、だから、お願い……」
行かないで、とか細い声で嗚咽混じりに請われてしまえば、実花は困ったように眉を下げた。
「一緒にいてあげたいけど……、そろそろ行かないと、帰れなくなっちゃうんだ」
「いや、いや」
ぽんぽんと背中を撫でてやっても、落ち着く様子はない。そうこうしているうちに、終電の時間は迫っていく。
「……泊まるか?」
「え?」
「こんな時間だし、一人で帰すことはしたくないし。もし、その、橋本さんが良ければ、だけど」
何を言っているのだろうと思う。恋人でもない成人女性に対して、泊まっていけ、なんて。しかし、今この状態において、それが最善策のような気がした。
「……いいの?」
「俺は別に。弟達も、あんなに懐いているし。ただ本当に、今でも迷惑をかけてるから、これ以上かけるのは本当に申し訳ないと思ってる。でも、いてくれると、正直心強い」
一人でなんとかならないわけではない。しかし、陸斗自身も今回の一件で、精神面を含め大分消費してしまった。そこでふと、本音がこぼれてしまった。
「……じゃあ、泊まらせてもらおうかな。星ちゃん達のことも心配だし」
突然ごめんね、と言う実花に、こちらこそ、と慌てて返す。そんな陸斗達のやり取りを聞いていた星は、泣き声も少しだけ落ち着いて、不安げに実花の顔を見上げた。
「お姉ちゃん、お泊まりする……?」
「うん。今日は一緒にいられるよ」
良かったぁ、と安心したようにへにゃりと星は笑った。
「星ちゃんが眠るまで一緒にいてあげるよ」
「……起きてもいなくならない?」
「いるよ。だから安心して寝て良いよ」
「……うん」
ほっとした表情で星は実花へもたれ掛かった。ぽつりぽつりといくつか話をしながら、しばらく背中をさすってやれば、やがて、すぅすぅと寝息が聞こえてきた。
「ありがとう。俺が運んでくるな」
「うん、お願い」
実花から星を受け取り、寝室へと歩く。そっと横にして布団をかけてやれば、そのまま寝入ってしまったようだ。寝室を後にする前、四人の弟達を見れば、月明かりに照らされて目元にうっすら涙の跡が。幼い彼らにとってどれほどの不安だったのかと、陸斗もきゅうと胸が締め付けられた。
ゆっくりと襖を閉める。時計を見れば、とうに終電はなくなってしまった時間だった。
「悪いな、結局ここまで付き合ってもらって」
「ううん。私が心配だっただけだから、気にしないで」
「明日、何か予定とかあったんじゃないか」
「仕事はお休みだから、急に呼び出されないかぎり大丈夫」
ゆるりと頭を横に振る彼女。座ってお茶を飲んでいる向かいに、陸斗は座った。
「……驚かないのか。こんな家で、とか、年が離れすぎてる、とか」
色々な事態が重なって、気にすることもなく弟達と対面し自宅まで来てもらったが、改めて考えると、弟達に会わせたのも、自宅を見せたのも、実花が初めてだった。
都心の大手商社の営業課のエースとうたわれ、エリートだ名家だなんだと噂されている人物が、本当は築五十年の木造アパートに住んでいるなんて誰が想像しただろうか。六畳二間に六人暮らしという、決して広いとは言えないぼろぼろの部屋で、布団を窮屈に並べて眠っているだなんて。それに加えて、息子といってもおかしくないくらい年が離れている弟達。人によっては、失礼な話だが疑うようなまなざしを向けてくることもある。それにも関わらず、彼女は特に気にする素振りも見せずに接してくれていた。気になるだろうに、陸斗側の詳しい事情を聞こうともせずに。
「うーん、別に。気にならないと言ったら嘘になるけど、家族にはいろんな形があるから。一条さんが「家族」って言うなら、そうなんだろうなって」
少し考えたのちに、慎重に言葉を選ぶように彼女はそう述べた。
「私の家、共働きだったって言ったじゃない。ずっとすれ違いの生活をしていたんだよね。それでも中学生の頃までは、たまに一緒にご飯を食べられていたんだけど。高校生の頃からは両親共に海外を飛び回っていたから、振り返るとほとんど一緒に過ごしてないの。帰ってこないって分かっているのに、習慣って怖くてさ。また一緒に食べれれるかもしれない、その時はもっと美味しいものを作るんだ、って、ずっと一人で、ぽつんとご飯を作って食べてた」
それは、昨日の夜に食事を共にしながら彼女が話した内容の続きだった。だから一緒に食べることが出来て嬉しいと、笑顔を浮かべてくれていたことは記憶に新しい。
「そんなに一緒に過ごしていないし、それって本当に家族なのかって言われるかもしれない。だけど、私にとってはそれが家族だから。普通の人とは少し違うかもしれないけどね」
今回の一件で垣間見えた彼女の落ち着きや、大変であろう仕事に対しても文句ひとつ言わない強さ、それらの理由が分かった気がした。ずっと、一人で何でも対処してきたのだろう。辛い時も自分を励まして、大変な時も自分を落ち着かせて、そうやって成長してきたのだ。
「だから、一条さんが戻ってくる前、みんなと一緒にご飯を食べたの、すごく嬉しかった。こんな時に不謹慎かもしれないけれど、初めてだったの。あんなに大勢で囲む食卓なんて」
眉を下げて、ごめんね、と言う彼女。そうか、陸斗にとっては当たり前であった日常が、彼女にとっては当たり前ではないのだ。それだけのことだけれど、そうやって嬉しいと感じてくれていたこともあって、弟達はあんなに懐いていたのだろう。
自分と異なる境遇を、環境を、ただ自分と違うという理由だけで、よくも知らずに嫌悪し忌避する人々は一定数存在する。しかし彼女はそうではない。自分とは異なるものを、そのまままるっと受け止めてしまうのだ。受け止めて、噛み砕いて、自分が理解できるものへと昇華させている。それはきっと彼女の美点であろう。
だから、きっと俺も。
飾らずに、真っ直ぐに自然体で接してくれる彼女。そして、自分以外を自分なりに受け止めることの出来る彼女。だからこそ、今まで誰にも話してこなかったことを、彼女になら良いかと、話していたのだろう。
「実はさ、」
気が付いた時には、言葉を発していた。
「俺の父親、俺が幼稚園の頃に亡くなっているんだ」
今まで生きてきて、誰にも話したことがなかった事。自分から進んで話す内容ではないし、それによって変な同情をされるのも嫌だった。でも彼女にならと、ぽつりぽつりと言葉がこぼれる。彼女は何を言うでもなく、真剣な表情で、黙ってこちらを見つめていた。
「ずっと母さんが一人で育ててくれた。貧しかったけど、楽しかった。それで、しばらくして、俺が中学生の頃に母さんが再婚して、俺には新しい父親が出来た」
母親との長い二人暮らしは、貧しいながらも充実していた。贅沢は全く出来ないけれど、沢山の料理を教えてもらい、勉強も母親にみてもらった。きっと、料理の楽しさに気づいたのは、この時が最初だったのだろう。
「新しい父親とはすごく仲が良くてさ。スポーツを教えてもらったり、勉強を教えてもらったり、とにかく本当の父親みたいに過ごしたんだ。そして、何年か経ってから弟達が生まれたんだ」
家族が増える。それがどんなに嬉しかったことか。大切にしようと、守ろうと、最初に海が生まれた時に誓った。家族七人、慎ましいながらも笑いの絶えない家だった。家のために高卒で働こうと考えていた陸斗に対し、「家のことは気にするな」と背中を押したのは父だった。「学費を出せなくてすまない」と、血のつながりのない自分に対して心底申し訳なさそうな顔をしていて、その気持ちだけで十分だった。学費を稼ぐため、バイトと勉強に明け暮れた毎日だったけれど、充実していた。それなのに。
「風と星が二歳の頃だったかな、雨の日だった。父親が交通事故にあったのは」
仕事からの帰宅途中、飲酒運転の車に巻き込まれた。すぐに緊急搬送されたが、ほぼ即死だったそうだ。その場にいた人に後から話しをきいたところ、歩道を歩いていた子どもをかばうように飛び出したらしい。子どもが好きだった、優しい父親らしい最期だと思った。
そこから、またシングルマザーになった母。以前よりも仕事を増やし、必死で働いていた。陸斗もバイトを増やし、家の足しになるように働いた。葬儀も全て終わり、また日常が戻ってきた頃に、今度は海がふさぎ始めた。どうしたの、と理由を聞いても「大丈夫」の一点張りで、辛そうな顔をしながら毎日保育園へ通っていた。
「片親だから、ってからかわれていたんだよ。きっかけは些細なことだったらしいんだけど」
葬儀で何日か休んだ後、保育園のクラスではあるゲームかなにかが流行っていたらしい。海自身、それにさほど興味もなく、元々裕福ではない家だ、そんなものを買う余裕はないことは理解していた。
そんな時に「海くんの家、貧乏だから買ってもらえないんだよ。お父さんいないから仕方ないもんね」と、幼い子供特有の残酷な無邪気さをもって、クラスのリーダー格の子が言い放ったらしい。これは後から分かったことだが、彼が思いを寄せていた女の子は、海が父を亡くした事を大層気にかけてくれていたらしく、休んでいた間に園であった事を色々教えてくれていた。今から考えれば、ただ単純に妬みだったのだろう。好いた女の子が自分ではなく海を相手にしているという、それだけのことだ。しかし、幼い海は「ただの妬み」と跳ね除けることは出来なかった。
その日から、何かにつけて「海くんはお父さんがいないから」と言われ続けていた。本人も辛いのに、一生懸命働く母親や兄の姿を見ていれば、安易に言うことも出来ず、一人で抱え込んでいた。幼い体で、我慢をしたいた。
「だから、弟達がもうそんな事を言われないように、俺がしっかり働かないとと思って、今に至るんだけどさ」
片親だからといって、彼らが辛い思いをしないように。自分が世間一般からみても立派といわれるようになれば、彼らを穿った色眼鏡で見る人間も減るだろう。それが、家族が増えた時に守ると誓った自分に対する約束であり、沢山の愛情を与えてくれた母と亡くなった父への恩返しだった。
「ごめんな、なんかこんな湿っぽい話をしちゃって」
今まで誰にも話したことのなかった自分の過去。時折詰まりながら話したし、支離滅裂だったかもしれない。彼女は一体どんな反応をするのだろうと、そっと顔を上げた。
「ううん。むしろ、何だか色々納得した気がする」
今まで真剣な表情を崩さなかった彼女は、ゆるりと首を横に振った。
「営業課のエリートだ、なんて言われるとお堅いイメージがあるけど、初めて会った時からそんなことはなくて。他の人から、壁がある人だって聞いても、知れば知るほど優しくて。不思議だな、って思っていたんだけど、大切な人を守るためだったんだね」
そっか、とふわりと笑った彼女。普段周囲が陸斗へ抱くイメージとはかけ離れた、情けない話だったかもしれない。しかし同情するでもなく、笑い話にするでもなく、すっとそのままを受け入れてくれた。
それを見て、胸につかえていたものが、ふっと軽くなったような気がした。
翌朝、弟達が全員起きてくるのを待って、朝食を一緒に食べてから実花は帰っていった。朝日を浴びながら「それじゃあ、またね」と言って駅へ向かう彼女の後ろ姿は美しい。
見えなくなるまで手を振りながら、陸斗は昨晩から収まることのない鼓動を嫌というほど自覚していた。
もう、誤魔化すことはできない。彼女の優しさに、心の在り方に、惹かれている自分がいる。
芽生え始めていた感情は、もう無視できないほどに膨らんで、朝日の中で小さな蕾をつけていた。




