いつか、東京で見た空
ソーダ水のような、冷たい冬の空は、いつか東京で見た色に似ていた。
鼻の奥がつんと熱くなった。
そして思うのだ。――今の私なら、逃げたとも流されたとも言わないのではないか、と。
大きく深呼吸をする。着替えて髪の毛を結い上げる。きれいに整ったデスクに向かい、今日をはじめていく。
「莉佳、遅刻するぞ」
冬吾に急かされて家を出る。
それは、新卒一年目の冬のことだった。
彼はふわふわした茶色の髪を黒いカチューシャでとめて、寝起きのスウェット姿の上にダウンを着込んでいた。
ヘルメットをかぶると、まだぼうっとしたままの私をバイクの後ろに乗せて、駅まで走った。
「夜にさ、なんか食いに行こう。会社出たらメールして」
冬吾はそう言って、ひらひらと手をふる。
駅前で彼と別れるのが名残惜しかった。このまま家に居たい。どこにも行きたくない。
ふと彼の後ろをグレーのコートを着た男が足早に抜けていこうとしていた。
「――最近、電車に変な人がいるんだよね」
男がぴくりと一瞬動きを止めた。
脈絡もなくそう言った私に、冬吾は首をかしげる。私はほほ笑みの形をつくり、ひらひらと手を振って、改札を入った。
すぐに踏切の音が鳴り出して、遮断器が降りてきた。
電車で仕事に行くのは、川を流れていく桜の花びらの様子に似ている。実際にはそんなにきれいなものではないけれど。
白い息を吐きながら、空を見上げる。ソーダ水のような冷たい冬の色。それなのに、どうしてだかふとそんなことを思った。
電車は時間通りに出発しなかった。
最後の二人が入れなかったからだ。走ってきた駅員の男性が、まるで体当たりをするようになんとか乗客を詰め込む。圧迫感に小さくうめいた。
満員電車はがたがたと揺れながら走り出した。
ぎゅうぎゅうになった様子は、小川の石のところで詰まってしまった桜の花びらに似ている。
ふとグレーのコートを着込んだ男と目が合う。今日は私の後ろにいないようだ。
あの人はいつも私と攻防をくり広げる痴漢。確証はないけれど。ややガラの悪い出で立ちで現れた、強面の冬吾を見て攻撃をやめたのだと推察している。
気持ち悪いけれど、証拠もないし、これまでもなんとか自力で防いできたのだから、もうどうでもいい。余計なことは考えたくない。労力を使いたくない。
東京駅で人の波に運ばれるように電車を降りた。そのまま駅の構内をただただ流されていく。
私はそこで考える。今日の挨拶はどうしようかな。笑えるかな。
駅から会社のそばまでは、地下道を通っていく。少しだけ遠回りになるから誰にも会わなくて済むので気に入っている。
ただただ胸のうちに広がるもやもやした気持ちを抑え込みながら、歩くことにだけ集中する。
エスカレーターを登りながら、徐々に顔を出す高層ビルを見上げ、目を細めた。大きく深呼吸をする。
そして、今日がはじまる。
「莉佳、きょうもお昼行かないの?」
岩永夏菜は同期で、隣の部署で働いている。隣といってもだだっ広い空間を仕切らずに使っているから、電話の声も聞こえてくるし、立ち上がれば互いの顔が見える距離だ。
「みんな、待ってるよ」
「私も行きたいんだけど、なかなかやることが終わらなくて。昼休みの間に少し進めたいんだ」
私はにこにこしながら嘘をついた。
「――そう。大変そうだね。最近、小説は書いてるの?」
私はどきりとする。
「ううん、さっぱり書いてないよ」
「……そっか。じゃあまた今度食べようね。――あ、莉佳ちゃん! そういえば今度、部署編成があるんだって」
「部署編成?」
「そう。いろいろメンバー異動があるみたいだよ。一緒になれたらいいよね。でも、同期だとさすがに無理かなあ」
夏菜はそう言って困ったように笑った。
同期同士は仲がよく、昼食はみんなで集まって取っていた。
そこに顔を出さなくなったのはいつからだっただろう。
寂しく思いながらも、とにかく人と関わることが負担になっていた。誰かと話すことはことさらにエネルギーを使う。
急ぎの仕事は午前中でほとんど終えてしまった。タイピングの速さと効率化のテクニックだけは自信がある。
くり返し行う作業は、ひと手間かけてマニュアルをつくり、それを上司に見せながら確認してもらう。
はじめに齟齬をなくしておくとミスが防げるし、一つひとつ質問しないで済むから相手の時間もあまり取らない。しかもこれは誰かに引き継ぐときにもそのまま渡せるから便利だ。
工程の多い、同じ作業をくり返すときは、マニュアルと進捗表を兼ねた表を作ってしまう。
エクセルで二段の表をつくる。一段目は左から右へ手順を書いていく。二段目は進捗チェック欄だ。マニュアルの手順に沿って作業を終わらせたら、チェック欄に丸マークを入れる。こうすれば抜けも漏れもなく、考える時間も必要ない。
くり返し行うことには、急がば回れということわざがぴったり。自分をロボットにするように、丁寧にマニュアルや進捗表を作り込んでいくと、結果的にとても早く終わるのだ。
そんなわけで自分の仕事はお昼を待たずに終わってしまっている。
ただ、私が帰るのは終電近い時間だ。あとは、いかにして仕事を探し出すかにかかっている。
会社を出るだけで、呼吸するのが楽になるような気がする。このままどこかに歩いていきたいけれど、体がだるい。結局、隣の
コンビニでおにぎりを1つ、ヨーグルトを1個、それにお茶を1本買って、すぐにオフィスに戻った。
恐る恐る見回したけれど、私の部署にはだれも残っていない。安心して席に着いた。
胃がきりりと痛んだ。おにぎりは半分しか食べられなかった。
袖机から手帳を取り出す。後ろのフリーページを開き、パソコンで「Excel マクロ」と検索しはじめた。
キーワードはその日によって変わる。Photoshopについて調べたり、PowerPointのまとめ方を調べたり、電話対応のマナーについて調べたりする。
そうしてまとめた手帳のフリーページは、さながらスキルのコレクション帳のようで、とても気に入っていた。
仕事がどんどん片づいていくときの感覚が好きだ。
普通にやっても時間をかければ終わる。けれども、小さな工夫を積み重ねていくと、どんどん質もスピードも良くなっていく。
今の私にとって、それこそが一番の生きがいだった。
上司や同僚の手伝い、備品の整理などを終えても、どうしても仕事が見つからないときは、こうして仕事の効率化を学ぶ時間にしている。
とりたててやることのない昼休みもそうだ。
午後も暇だった。Wordの小技を調べながら、人一倍電話を取るように心がけた。
この部署では、営業所とのやりとりがほとんどだ。外部の人と関わることがないので、マナーはそんなに気にしなくてもいい。
人と話すのが苦手だから内勤を希望していたけれど、今は、電話対応だけが楽しみな時間になっていた。
営業部の人がシステムでわからないところを調べて、わかりやすく伝える。そういう仕事だ。
「三井さーん、品川営業所の田中さんから電話」
「ありがとうございます」
不機嫌そうなその声に一瞬びくりとし、ひと呼吸置いて内線を取った。
田中さんからはよく電話がかかってくるので、顔も知らない人だけれど、妙に親近感がある。
『品川営業所の田中です。忙しいところごめんね、ちょっとお客さんからシステムのことで質問をもらったんだけど、よくわからなくてさ――』
そのとき、電話が鳴った。
私をのぞいて2人しか人がいないのに、誰も取ろうとしない。ふとそちらを見ると、あの人はチッと舌打ちをしたかと思うと、ようやく受話器を取った。
かんたんな確認だったらしく、すぐに電話は終わったけれど、そのあともう一人の同僚に彼女はにやにやしながらこう告げた。
「電話を取るのは一番下っ端の役目なのに、どうして私が取らないといけないんでしょうね。使えないなあ」
形の良いくちびるからにこにことつむがれるその言葉に、血の気がざあっと引くのがわかった。
「本当ですよねえ」
と、同僚がそれに同調している。
ふたりとも、私に聞こえないとでも思っているのだろうか。
今、私がしていることはなに? どうやったら同時に2つの電話を取れるのだろう。それは理不尽な言いがかりでしかなかった。
『――三井さん?』
「あ、すみません。ちょっと聞き逃しちゃったのでもう一度教えてもらってもいいですか?」
私はどくどくと鳴る心臓を押さえながら、そう告げた。
『いつもごめんね。それと指名しちゃってびっくりしたでしょう。三井さんはいつも丁寧に速く対応してくれるから、君にお願いしたかったんだ。忙しいところごめんね、助かったよ』
受話器の向こうで、田中さんが言った。
それは私が今日はじめてかけられた、血の通った言葉だった。
『特に、折橋さんだっけ。彼女の対応はひどいよね。もちろん、仕事時間を削って対応してもらってるのはわかるんだけど……。一度そっちの上の人に言おうかと思ってるんだけどさ。三井さんは大丈夫? いじめられたりしてない?』
田中さんの言い方は、冗談っぽく聞こえるけれど、その中に心配の色も見え隠れした。
そうです、とはまさか言えなくて、私はあいまいに笑った。
折橋紗季子は、入社五年目の先輩だ。
背が高く華奢な体をしていて、つやつやと手入れの行き届いた長い黒髪をいつも下ろし、線の細い眼鏡をしている。
私のすべてを彼女は気に入らない。
最近わかってきたのは、そこに理由なんてないのだということ。
思えばはじめて会ったときから、彼女は私にだけ冷たかった。時折だれかの悪口を言っていることがあり、それが自分のことではないかとひやひやしたのを覚えている。
ところが、彼女がきらっていた相手は私ではなかった。そのときは。
とはいえ、ほかの人にするように親切ではなかったから、気に入らない程度には思っていたのだろう。
やがて、彼女がきらっている人が誰なのかわかった。自分のきらいな相手を、周りの人たちにもきらってほしい。彼女の言動には、そうした心が透けて見えた。
たしかに、その人――河原林さん――は、少し変わった人だった。
見た目にも無頓着で、いつもよれよれのワイシャツを着ていたし、とにかく無愛想で、聞こえないくらいの小さな声で話すにも関わらず、言い回しもきつかった。
よくいらいらして、顔を真っ赤にして怒ることもあった。
はじめのうちは、私も彼のことが苦手だった。
それがわかると、折橋先輩は私に優しくなった。まるで、共通の敵を倒すパーティーのように。
ランチに誘われるようになり、よく話しかけられた。社内ネットワークで、彼の悪口が飛んでくることもあった。
すべてが変わったのは、河原林さんといっしょに外出した日だった。
まる一日話してみると、人見知りが裏目に出てしまう、朴訥な人だとわかったのだ。
知識が豊富で、慣れてくるととても気遣いのできる大人の人だとわかり、苦手意識もなくなった。
情報通な彼と話すのが楽しくなり、他愛のない会話をすることが増えた。すると、先輩には探りを入れられた。
「三井ちゃん、最近あの人とよくしゃべってるね」
「はい。――あの、最初はかなり苦手だったんですけど、話してみたらすごく楽しかったんです」
何度か彼の悪口に同調してしまったことを、私はひどく後悔した。
彼女の視線が冷たくなったのは、そのすぐ後のことだった。
河原林さんへの当たりは相変わらずきつく、ある日、泣きそうな目をして会社を辞めるのだと教えてくれた。
そして、標的が変わった。
よくある話だ。どこにでも転がっているような。しかも、彼女は無自覚で、それでいて巧妙だった。
直接的に攻撃されるわけじゃない。誰のことなのか名前が出てこないから、それが自分のことなのかと追及することもできない。
トイレの個室で、少し泣いた。
こういうときはいつも、ペンダントに触れることにしている。クリスマスに冬吾にもらったものだ。私のために時間を割いて、探してくれたもの。これだけがお守りだと思った。
私は、どうでもいい人間じゃない。そう言ってくれているような気がした。
そもそも、いじめられているとも言い難いのだ。
ただ、朝の挨拶を無視されるだけ。
全員に配られる彼女の差し入れが、私にだけ無いだけ。
時折自分のことかなと感じる内容の悪口が聞こえてくるだけ。
雑談ばかりして仕事をしない彼女に合わせて、終電で帰らないと嫌味を言われるだけ。
通りがかりに、たまに舌打ちをされるだけ――。
でも私も、河原林さんのことを悪く言ってしまったのだ。
それは、因果応報だと思えた。
トイレから戻ると、折橋さんが喫煙室にいるのが見えた。たくさんの人に囲まれて、楽しげに談笑している。
ふと、隣の部署の田宮さんに声をかけられる。
「三井ちゃん、いいね。折橋さんが先輩なんだろう? 楽しそうだよなあ」
私はあいまいに笑うしかなかった。
「そうそう、三井ちゃんはもう小説書いてないの? 」
私が驚いて見つめると、彼は「ああ」と言った。
「入社のときに話題になってたんだよ。君、本を出してるんだよね? その道で食べていこうとは思わなかったの?」
目をきらきらさせて詰め寄ってくる田宮さんに、私はあいまいに笑った。
「あー、タミーおじさん!」
折橋先輩がぱたぱたと駆けてくる。彼女より十以上も年上の田宮さんを、どこか馬鹿にしたような愛称で呼んでも、彼女は許される。
折橋紗季子は清楚な美人だ。彼女の本質に気づいている人はほとんどいない。
上司たちは、私たちの間に流れる空気になんとなく気がついているようだった。
それでも、私から申告しなければなにも対応できないらしく、困ったことがないかとこまめに聞いてくれた。
それでも私は言えなかった。これは「いじめ」なのだろうか? 証拠もなにもない。それに、折橋紗季子はみんなに信頼されている。みんなに好かれている。
いつも輪の中心にいる。
――ようやく一日が終わった。
折橋先輩のエンジンは、定時になったあとにようやくかかる。それまでは雑談をしながら、ちょこちょこと仕事を進めるだけ。
四時半頃から焦り出し、六時過ぎにはいらいらしている。ピークは疲れが溜まってくる八時だ。
そういうとき、彼女は意味もなく私のデスクの周りを確認するくせがある。そうして、なにかあらを探しては、嫌味をぶつけてくるのだ。
彼女が後ろに立つ。それだけで、息苦しくなる。
今日はもうやることもなくなって、でも帰ることもできなくて、ひたすら散らかっているところを探して片づけたり、上司に追加の仕事をもらえないか聞いたりしていた。
それでもやることがなく、読みやすい資料のつくりかたを調べていたら、折橋先輩に大目玉を食らった。残業代で遊ぶな!と。
帰ったら怒られるし、少なくともあなたの何倍も仕事をしています。――そんなふうに言い返せる私ではなかった。
21時の電車は混んでいて、私はヒールを履いた足を交互に浮かせて休めながら、なんとか最寄り駅にたどり着いた。
「ファミレスでも行く?」
駅に着くと、冬吾が待っていた。
朝に会ったときと同じ適当な格好をしていて、そのままで大学に行ったの? と訊くと、別に普通じゃねえ?と答えが返ってきた。
食べられそうにないなと思ったけれど、彼の腕にしがみついて、目をつむって、歩き出した。
「全然食べないじゃん。またお腹痛いの?」
「――うん」
私はほんの少しだけパスタを口にして、あとはあげる、と彼の前に置いた。
いじめと呼んでいいのかもわからない、冷たい対応がはじまってしばらくしたころ。耐え難い痛みで受診したら、胃カメラを飲むように言われた。ストレス性の胃炎だとわかった。
あまりものを口にしなくなり、私はみるみるうちに痩せていった。
バイクに乗せてもらって家に着く。
「そういえばさ、今日って月食らしいよ」
冬吾が言う。
「莉佳、そういうの好きだろ? 河川敷に見に行かない?」
私はうなずいて、一度荷物を置きに家に入り、冬吾のスウェットに着替えて出てきた。
もう夜中に近いというのに、河川敷は人でいっぱいだった。近隣に立ち並ぶマンションからも、みんながベランダに出て空を見上げている。
「なんだか、お祭りみたいだね」
私がそう言うと、冬吾は笑った。
皆既月食というのは、世界が真っ暗になるものだと思っていたけれど、月が赤銅色になって見えていた。
肌寒い冬の空気の中で、冬吾の腕にしがみついて、じっと空を見上げた。久しぶりに呼吸をしているという感じがした。
「ただいま」
「誰に言ってるの」
冬吾が笑った。
私たちは、半同棲状態だった。長い間続けてきた遠距離恋愛を終わらせたくて、東京に来た。
冬吾は一浪しているから、まだ大学生だ。四年生だけれどまだ仕事は決まっていない。
部屋はひどい有様だった。8畳のこの部屋は、一目惚れしたデザイナーズ物件で、私のお給料の半分ほどは家賃に注がれていた。
遠距離恋愛が終わった朝のことは今でもよく覚えている。大学の卒業式が終わったあと、迎えに来てくれた冬吾と一緒に部屋を片づけ、運ばれていく荷物を見送り、そうして新幹線に乗り込んだ。
あのころ、東京での暮らしを本当に楽しみにしていた。
やりたいことを諦めて仕事につくのは不安だったけれど、かわいい部屋で、おいしいものを作りながら暮らしていこう。そう思っていた。
でも、部屋は入居した時とは比べ物にならないくらい、散らかって汚れていた。奥のほうにはベッドがあり、手前にローテーブルとミニソファがあるだけの小さな部屋だけれど、至るところに本やものや箱が積み重ねられている。適当に投げ捨てられた服も塚のようになっているし、壁一面についた大きな収納は、開けると中からものが崩れ落ちてくる状態だ。
そんな中に、帰りに駅の花屋さんで買ってきた切り花を一輪だけ飾っているものだから、本当に混沌としていた。
そのころは特に残業続きだったこともあり、私は部屋を片づける時間も気力も持ち合わせていなかった。
不思議なことで、一日家事を諦めると、その分次の日が大変になり、その負債を回収しようと思う気力がどんどんなくなっていった。
見かねた冬吾がたまに片づけてくれていたけれど、ほとんどが私のものなので、どう扱っていいかわからないらしかった。
お風呂上がりに、タオルをまとっただけのまま、洗面所でうずくまった。
胃が突き刺すように痛くて動けなくなったのだ。どうもお風呂に入るといけない。
「また痛くなったの?」
冬吾が顔を出す。
「仕事やめたら?」
「むり」
「でもさ、そんなに痛みを抱えてまですることなの?」
「でも、今のこの精神状態で転職活動ができるとも思えない。やめたらもう、実家に帰るくらいしか思いつかないよ」
涙がぽろぽろとこぼれてきていた。――そう、やめたら未来はない。そうとしか思えなかったのだ。
方法はきっと、たくさんある。でも、それを考えることさえ億劫だった。
冬吾はしゃがみ込み、ふうと長く息を吐き出して、それから言った。
「結婚すればいいじゃん」
私が顔をあげると、彼は珍しく真剣な顔をして言った。
「――結婚なんて」
「俺は男だから、多少しんどくても働こうと思うよ。でも、莉佳は違うだろ。作家になりたいんだろ。会社をやめて、家のことをしながら、小説を書くのに時間使えばいいと思う。別に働きたいとか人と関わりたいなら、バイトとかすればいいじゃん。カフェとかでさ」
「でも、冬吾はまだ学生でしょ? 就活だって途中だし」
「その辺はなんとかするから大丈夫」
翌朝、新しい部の編成が発表された。
私はまた折橋さんと一緒で、隣の席で、他のメンバーは田宮さんをはじめ、みんな折橋さんと仲の良い人ばかりだった。なにかと気にかけてくれた上司も、他の部署に変わってしまった。
「うっわあ、最悪」
折橋先輩が、小さな声でつぶやいた。
「最近、よく会うね」
トイレで夏菜と一緒になった。
私はなにか言おうとして、――出てこなくて、声が詰まった。
「何かあった?」
私はうつむいた。
「聞くよ」
そう言って夏菜は私の手を引くと、お手洗いの外側を確認し、私を非常階段へと連れ出した。
「ここなら大丈夫。だれにも聞かれないよ」
夏菜の笑顔を見たとたん、また目頭が熱くなって、ぽつりぽつりと、これまでの出来事を話しはじめた。それはたぶん支離滅裂でわかりにくかったと思う。
うつむいたまま話し終えたけれど、夏菜の反応がない。なにか失敗してしまっただろうか、実は夏菜も折橋先輩の信奉者なのだろうかと不安になり、恐る恐る顔を上げる。
そして、ぎょっとした。
夏菜は、目を赤くして泣いていた。
「――どうして、夏菜が泣くの?」
「あの、ごめん……。聞いてたら、くやしいし、腹が立って。
莉佳ちゃん、それはね、いじめだよ。本人が自覚してなくても、そんなつもりじゃなくても、莉佳ちゃんがそう感じたのなら、いじめだよ」
「でも、証拠もなにもないの」
「――部長に話してみない? もしかしたら、今からでもなんとかなるかもしれないよ。人間関係が原因で異動させてもらった人もいるって聞いたもの」
その夜、私は部長に時間を取ってもらった。
なにから切り出していいかわからなくて、自分でも困惑していると、部長はお茶を一口飲んで、それから「異動のこと?」と口にした。
私は、ぱっと顔をあげて、うなずいた。
「――すみません。あの、証明する方法がないので誰にも伝えていませんでしたが、折橋先輩と私は、――その、うまくいっていません。もし事前にお伝えしていたら、異動に反映させていただいたり、……できたでしょうか?」
なんとかそれだけ言い切った。
部長は、薄い唇をほほえみの形にした。そして、首を振る。
「実はね、僕は把握していたんだよ」
「え?」
「折橋は、君に嫌がらせのようなことをしていた。そして、君はそれを気に病んでいる。そうだろう?」
私はうなずく。そして、困惑しながら「では、どうして?」と尋ねた。
「今回、君たちを離さなかったのには理由がある。君への試練として考えたんだ。
人間関係がうまくいかないことなんて、働いていたら多々あるよね。それを乗り越えていかないでどうする。自分で解決できないでどうする。
悪いのは8割折橋だろう。でも、君にも原因がある。君はコミュニケーションが不得手だ。生真面目すぎるし臆病だろう。いわゆるノリというものに合わせていくのに欠けている。それが不調和を生むんだ。
だからね、僕は、事前に君から相談を受けていたとしても、今と同じ人事を提案したよ」
「だれ一人として、味方になってもらえない異動を?」
部長はうなずいた。
「――そうだ、君、小説は書いているか? こういう苦難こそ、ネタになるんじゃないか。君の作品は良かった。今の君なら、以前とまた違った作品を書けるんじゃないか」
そのあとは、どうやって時間をつぶしたのか思い出せない。先輩の嫌味を気にする余裕さえなく、20時には会社を出た。
地下鉄のホームに電車が滑り込んでくる。
このまま消えてしまいたい。朝と同じ。ふらふらと流されるように電車に乗り込む。
部長の言っていることは、間違いなく正しい。こんなこと、これからいくらでもあるかもしれない。私が弱いだけかもしれない。
でも、私は疲れ果てていた。
就職活動をはじめたころから、幾度となく自分の人間性や能力を否定され続けてきた、そのくり返しに。
私は高校生のころに作家としてデビューした。本も何冊か出した。でも、ちょっとしたバッシングにあってから、心がぽきりと折れて、うまくいかなくなった。
そのまま流されるように生きて、いつのまにか就職活動の時期を迎えていた。
受賞経験という結果と、そのために目標設定をし、地道に努力を重ねてきたという過程を告げた。
ところが、どの企業でも取り沙汰されるのは「物書き」という異色の経歴だった。
「またデビューしたら辞めるんだよね? そんな人間を取ると思う?」
「君ってさ、書くことだけに向き合ってきたの? なんとも薄っぺらい人生だね」
圧迫面接でわざと言われているというのもあったかもしれない。でも、どの企業でも、私のこれまでは否定され続けてきた。
合格した企業でも「入社後は執筆活動をやめるように」と言われて、最終的には辞退した。
そうして最後に出会い、唯一「おもしろい!」と手放しで言ってくれたのが、今の会社だった。
入社後もどんどん執筆するといい、楽しみだ! と、最終面接でほめてくれたのが部長だった。
それまでは正直なところ、生きていくためだけに就職しようと思った。でも、入社して、いろいろな人の仕事への姿勢に触れて、働くことも楽しいのだとはじめて感じたのだった。
どこを見るでもなく、ぼんやりと外に目をやると、視界の端で、男の人がぎょっとした顔でこちらを見ているのに気がついた。
どうしたのだろう? と首をかしげて、ふと、頬が熱いことに気がついた。視界も曇っている。
恥ずかしい。これは一体なんだろう、どうしたら止まるのだろう。
自覚すると、ますます涙がこぼれ出した。あとから後からぽろぽろと落ちてくる。止まらない。
こんな公共の場所で泣くなんて、どうかしてる。――拭くものをなにも持っていなくて、とりあえず手の甲で目を押さえた。視界はすっかり滲んでしまった。
ふと目の前にティッシュが差し出された。
家に帰ると、別人のようになった冬吾がいた。
茶色くふわふわしていた髪は、ばっさり切られて黒く染まっている。
「――どうしたの?」
「仕事、決めてきた。四月から問題なく入社できるよ」
「え?」
「あと、うちの親にも結婚しようと思うって言ってある。うちの方は大丈夫。だから、あとは莉佳の親御さんに話すだけだよ。――今すぐじゃなくてもいけど、とりあえず考えておいて」
私は泣きながら冬吾にしがみついた。
「でも、逃げるみたいで気がとがめる」
「俺は別に逃げてもいいと思うけど……。しんどいことを、無理してまでやる意味なくない? そもそも、逃げたのか、道を変えたのか、それはこれからの過ごし方で決まると思うけど」
翌日、私たちはお昼前に目を覚ました。
久しぶりにすっきりとした目覚めだった。ふだんは閉ざしているベランダの窓を開けて空気を入れ替える。ゴミ袋を出してきて、床に無造作に積まれたものを選別し、どんどん捨てていく。
夕方ごろにはようやく目に見える部分がきれいになった。
その日は雪が降っていた。東京では珍しいねとささやきながら、身を寄せ合って近所のスーパーに赴き、数日分の食材を買ってきて、キッチンに立った。
「明日はまた会社だっけ?」
「うん。そうだよ」
「行けそう?」
「うん。――せめて三月まで。入社してから一年になるまではがんばろうと思う。
でも、でもね、……あのね、私、会社を辞めようと思う。それで、冬吾が言ってくれたとおりに、――結婚してもらってもいい?」
私が訊くと、冬吾は笑ってうなずいた。
逃げたんじゃなくて、生き方を選んだんだと言える、そんな未来をつくろう。私はそう誓ったのだった。
目が覚めたのは、家族が起き出してくるよりもずいぶん早い時間だった。
カーテンを引き、窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。ソーダ水のような、冷たい冬の空は、いつか東京で見た色に似ていた。
鼻の奥がつんと熱くなった。
そして思うのだ。――今の私なら、逃げたとも流されたとも言わないのではないか、と。
大きく深呼吸をする。着替えて髪の毛を結い上げる。きれいに整ったデスクに向かい、新しい一日をはじめていく。