TVチャンネル我が家
遅刻である。
僕がのうのうと寝こけている間にも時計の針は律儀に営みを続けていた。時計に内蔵された目覚ましタイマーは音が大きいから、と隣の部屋の姉に文句を言われてから使っていない。代わりに愛用していたスマホの時計アプリは、何食わぬ顔で「今日の業務は終了しました」と言わんばかりにブラックアウトしていた。どうやら僕がタイマーの設定を怠っていたらしい。
そもそも、タイマーをかける度、目に忌々しいブルーライトを当てる必要があるのがおかしいのだ。主に連絡用として貰った小型の電子機器は、時に僕を横道に逸らそうとして、集中を削ぐ。「音楽を聴いてみないか?」「パズルゲームが流行っているんだ。面白いぞ」と彼等が囁いても、僕は甘い誘いに乗ってやらない。すると、「あぁいいさ。けれど、私を拒否して目を背けるなら、私は君を起こしてやることもできないね。なんせ、画面をいやおうなしに開く必要があるんだから!」「画面を見た君は、また誘惑と戦う羽目になるんだね」と嘲笑する。人間が利便性を追求し、あらゆる機能を一緒くたに詰め込んだ結果、僕は誘惑に負けまいと懸命に抗わねばならなくなったのだ。これだから、近代の技術は嫌いだ。
遅刻、といっても、きっと僕と同年代の少年少女達が僕の時計を見ると、首を傾げることだろう。まだ早い時間なのに。そんなに急ぐことかしら。学校が遠いのかしら、と。僕の家から学校までは自転車でおよそ十分。これは決して遠い訳ではない。では部活の朝練?否、僕は部活に熱中する時間の猶予も残されていない。
そう、僕は数ヶ月後に高校受験を控えた、中学生。それも自分で言っちゃなんだが、かなり真面目な類の中学生だ。
部活を卒業してすぐ、勉強時間を倍に増やした。学校が開く時間に登校し、誰より早く席に着き勉強するようになったのもそれからだった。元々僕はさほど勉強熱心な性分ではなく、成績だって中の下辺り。だからこそ、このままじゃいけないと奮起しているのだ。
周りの友人からは「何を突然」「そんなキャラじゃなかっただろ」と言われ続けた。遠回しに、お前じゃ頑張ったところで限りがある、付け焼き刃の努力など無駄だ、そう諭されているのかもしれなかった。それでも、誰に言われたわけでもないが、僕は勉学に勤しむと決意したのだ。頑張っていい高校に進学して、更にいい大学に進学して…更に先の未来は分からないけれど、がむしゃらに努力すれば、漠然とした将来像もくっきりと輪郭を持つ、筈なのだ。
目にも止まらぬ速さ、というのは少々誇張ではあるものの急いで制服に着替える。身だしなみは最低限整えて、ここから学校までのルートを脳裏で短く逡巡させる。
教科書に加え参考書等も入った僕の鞄はかなり重たい。これを二階の自室から持ち運ぶのは少々体力を消費する。特に朝方、起き抜けの体には厳しいし、時間のロスになる。その為、どちらにしろ勉強のため起きている夜の間に、明日の準備をした鞄を一階のリビングに置いてあるのだ。玄関に置きたかったのだが、如何せん我が家の玄関はスペースに余裕が無い。多少の妥協は必要だ。
鞄さえ手にして急いで家を出れば、まだ勉強の時間は取れるはず。一呼吸の後、階段を滑るように降りた。
父と僕の弁当を作るため早くから起きている母と、いつもなら家を出る時やっと起き出す姉が、のんびりと朝のニュース番組を眺めている。僕の焦燥などいざ知らず、
「おはよう。いつもはこの時間とっくに学校行ってるのにねぇ、まぁ今日くらいゆっくり朝ごはん食べていきなさい」
「おはよ。そぉだよ、あんた最近なんも食べず出てっちゃうんだから。そんなだから、私より細くて青っちろいんだって」
「それはお姉ちゃんが、友達とクレープばっかり食べて太っちゃったからそう見えるのかもしれないわよ」
「ちょっと、お母さん!」
なんて呑気に母娘漫才を始めた。
「ごめん、今日も食べない。ゆっくりしてられない、早く行かないと」
「そんなに急いでるけど、今から三十分寝たって間に合う時間じゃないの」
「前も言ったろ、教室が開放されてからすぐに勉強できるよう、うんと早く家を出なきゃいけないんだ…あぁ、こうしている間にも時間が!」
一刻も早く家を出なければ。焦りながら鞄に近付いた。しかしその道筋を、母が割り込み立ち塞ぐ。
「母さん天気予報、母さん天気予報のコーナーです」
「ちょっと、どいて母さん!急がなきゃ駄目なんだって」
「今日の天気は晴れのち雨。朝は快晴ですが夕方に近付くにつれ小雨がパラつくでしょう。カッパを持っていくことをオススメします」
「あぁ、そうなの?…でも小雨くらいならいいや、カッパ着るのは面倒だし。家に帰った後だって勉強しないと」
「ブッブー、ダメです。カッパを持っていきましょう。多少でも濡れたままにすると風邪を引いてしまうかもしれません。ですよね?キャスターのお姉ちゃん」
「はい、こちら姉です」
朝食を食べていた姉まで立ち上がり、架空のマイクを握りながら、母と同じく僕の前で喋り始めた。
「現在はポカポカと暖かく長閑な晴れ模様。しかし、これに安心し雨具の準備を怠ってはなりません。そう、あれは私が君くらいの歳の頃。友達とピクニックに出かけた帰り道、突然の豪雨が襲いかかってきたのです。すぐに止みましたが折角のおしゃれコーデはぐしょぐしょ。おまけに風邪を引いてしまったのです。」
「それは災難だったね。でも今日は、予報によると小雨なんだろ?」
「その日の天気予報は一日晴れでした。つまり、天気予報なんてアテにならないのです。ですから母さん天気予報なんて信じずにいつでもカッパを持っていきましょう」
「天気予報のキャスター役なのに信じるなってどういう立場だよ。あーはいはい、持っていけばいいんだろ」
カッパの入った袋はリビングに設置されたラックにある。引き出して片手に持ち、再度鞄の方へ向かう。
「続きまして、今日のニュースです」
「まだやるのかよそのノリ。ふざけた母さん達の相手してる暇ないんだけど」
「ピリピリしてるみたいですね、嘆かわしい」
「誰のせいだと…」
「そんな息子にほっこりするニュースをお届けしましょう。先日作ったお弁当、お米の上に梅干しが乗っていたでしょう」
「あぁ…そういえば」
リビングに鞄を置くことで生まれた意外な利点は、すぐに母から弁当を受け取り鞄にしまえることだ。僕としてはその作業すら時間のロスであり、わざわざ作らなくても学校で買える弁当がある、と説明したこともあるが、値段は高いしどうしても栄養が偏るだろうと頑として揺るがなかった。母だって父と僕二人分の弁当を作るのは手間がかかるはずで、悪い話ではないと思うけれど。
「貴方は昔から、生粋の梅干し嫌いでしたね。ですからこれまでは弁当に入れないようにしてきたのですが、昨日は生憎おかずが無かったもので、お父さんの為に買った梅干しをぽとりと、白米の上に置いてしまったのです。梅干しとその周辺の米は残しているかもしれない、そう思って洗いに出された弁当箱を開けると、なんと…米粒一つ残らない、もぬけの殻でした」
「ええっ、梅干しの匂いだけで泣いてたあんたが?ほんとに完食しちゃったわけ?」
「い、いつの話だよっ。僕だってもう高校生になるんだから、ちょっと苦手なものくらい、我慢して食べれるよ」
感涙を拭う仕草をする母を見て、カッと顔回りが熱くなる。確かに僕は一家の中で一番幼いし、彼女らにとっては永遠の子供のように見えるのかもしれない。しかし僕だって成長しているのだ。…一口目はうっかり視界を潤ませてしまったけれど、それでもあの忌々しい紅の実を、白米で包み込み胃まで流し込んでやった。
「母さん、とっても感動しました。でも知っていたんです。貴方は強い子だから、嫌いな食べ物の一つや二ついずれ克服してくれるって。そして、その手助けをするのがお母さんのお弁当なんだって気づきました。そばに居ない間も、貴方の成長に関われる一つの手段…お弁当を作る理由はそこにあったんだ、と。なんだか胸がいっぱいになって、今日もついつい梅干しを置いてしまいました」
「いや、頑張って食べたってだけで好きになった訳じゃないから、出来れば入ってない方がありがたいんだけど…」
「鞄に入れておいたので、残さず食べてくださいね」
「その鞄が母さん達の後ろにあるんだけど。このままだと弁当を食べるどころか学校に行けないんだよね」
母と姉が顔を見合わせる。もしかしたらわざと立ちはだかった訳ではなく、ただ偶然、遮るように立ってしまっただけなのかもしれない。無意識下の嫌がらせだったのかもしれない。
「…それでは心がほっこり温まったところで、母さん占いのコーナー!」
「おっ、きたきた。一番の人気コーナーだ」
…どうやら、わざと妨害されているらしい。
「僕の勉強を邪魔して、母さんと姉ちゃんに何の利点があるのか本当に分からないよ」
「今日最も良い運勢なのは…」
「全然聞いてくれないし」
「テレビなんだから当たり前でしょ」
「さっきの天気予報で普通にやり取りしてただろ」
そう指摘すると姉も無視を決め込んだ。我が家で放映中の番組は、視聴者の声を聞いたり聞かなかったり様々らしい。
「おめでとうございます、射手座の貴方!」
「一位だ!ラッキー」
先程までキャスターに興じていた姉も、今は完全に視聴者の立場となったようだ。ガッツポーズを決めている。
「母親の機嫌を取ると吉!肩を揉んであげるといいことがあるかも?ラッキープレイス、スターバックス」
「やったぁ!ね、私新作の、チョコがたっぷり入ったやつ食べたいなぁ。いい?」
「しっかりほぐしてくれたらね。母さんの肩は手強いんだから」
「よぉし、任せといて!」
「やっぱり普通に会話してる」
僕が呆れているのを気にも止めず、姉は張り切っている。…今なら母と姉の意識は散漫している、ゆっくりと近づけば鞄が取れるのではないだろうか。
そろりそろりと、身を縮ませ、僅かに開いた母と姉の隙間、その向こう側に見える鞄の持ち手に腕を伸ばす。
「一位がいるならば最下位が存在することもまた必然…残念ながら今日最も悪い運勢の人は、起き抜けからせっかちで朝ご飯も食べずに飛び出そうとするうお座の貴方!」
「うっ」
ピンポイントに呼ばれた後、母と姉が距離を詰め、僕の腕をぴっちりと挟んだ。そのタイミングたるや、流石母娘と言うべきか。正に阿吽の呼吸だった。
「急がば回れ、この言葉を忘れないでください。何事も焦りは禁物ですよ。ラッキーフードは目玉焼き」
「ちょっと、痛い痛い!離してよ、ほんとなんなのさもう」
締め付けから逃れて腕を引き抜き、二人に不平を言う。
「僕はただ勉強がしたいだけだよ。勉強しなきゃいけないんだ。母さんにとっても望ましいことだろ?どうして邪魔するんだよ」
友人からもよく聞く話だ。母親から勉強するよう何度も催促される。受験生という自覚を持ちなさいと怒鳴られる。まさか、テレビ番組を模した妨害行為を働く親がいるだなんて、きっと誰も信じてくれないだろう。僕だって、母がそんな暴挙に出る理由が分からない。
「なるほど。そんなにも勉強がしたいのですか」
「あぁ、したいね。そのために鞄を取らせてくれないかな」
「…貴方の強い思い、よく伝わりました。そこまで言うならば応えてやらねばなりませんね…」
ようやく納得して貰えたらしい。神妙な顔で俯いた母と姉。たかだか鞄如きに随分と凝った茶番を用意したものだ。まぁ、健闘を讃える言葉でもかけてやろうか、と余裕が持てるほど、己の勝利を確信していた。
「激ムズ母さんクイズ…」
「は?」
「ついに出題する日が来てしまいましたね…これまでの努力と鋭い推察力が試される今大会に、挑戦者が現れてしまったのですから…」
「挑戦者って…あの母さんクイズに、無謀にも挑むやつが現れたってこと?」
「その挑戦者って、もしかしなくても僕のことだよな…勉強したいって、そういうのじゃないんだよ」
呆れながらそう口にすると、母は片眉を上げた。
「あら?ということは、棄権ですか?」
「そもそも参加なんて一言も言ってない」
やれやれ、といったジェスチャーをする母。地味に腹立たしい。
「つまり答えられる自信が無い、と?」
「そ、そういう訳じゃなくて」
「残念です。貴方ならどんな問題も簡単に解くと思っていたのですが、どうやら早計だったようですね。あぁ、やはり難問揃いですから、いくら真面目で聡明な貴方にも厳しいでしょうしね」
「厳しいだなんてそんな、全問正解してやるに決まってるじゃないか!」
勢いに任せてそう宣言すると、母はニヤリと笑う。しまった、乗せられてしまった。解けない難問、その言葉が僕のプライドを刺激することを理解した上で煽られたのだ。啖呵をきった以上後には引けない。
まぁ、宣言通り、全問正解すればいいだけのことだ。勉学から距離を置いて久しい母と現在勉強中の僕との頭脳にはそれなりに差があるはず。さっさと終わらせよう。
「流石チャレンジャー、勇気がありますね。その気位を保ったままでいられるようお祈りしております。では、問題!」
難しい、なんて名ばかりのクイズなど打破してやる。これまで得た知識を脳に循環させながら、切って落とされる火蓋を待つ。
「貴方の嫌いな食べ物は梅干し、父さんの嫌いな食べ物は大根、お姉ちゃんの嫌いな食べ物は玉ねぎ。では、母さんの嫌いな食べ物は?」
「…ただの家族クイズじゃないか。もっとキチンとした」
「分かってないですねぇ。周囲に気を配り、常に物事を見据える力こそ最も必要とされるのです。いつも身を置く家族に関してなら尚のこと。さぁ、推察力が試される時ですよ」
中々言いくるめられている気がするが、確かに家族の事情一つ知らないで、社会情勢等の問題には立ち向かえない…のかもしれない。
しかし困ったことに母の趣向に関しては全く検討もつかない。正直、父と姉の嫌いな食べ物だって初めて知った。
梅干しは白米に乗せる乗せないの判断ができるから別として、我が家は好き嫌いで献立を決めるしきたりは無かった筈だ。なぜなら大根も玉ねぎも、食卓に並ぶ味噌汁の中に入っていた。家族全員、具も変わらない同じものを食べていた。普段の食事から考えるのは難しいだろうか。
…待てよ、献立と調理を担当しているのは母だ。そもそも母は、自ら苦手なものを献立に振り分けようとするだろうか?公平性に欠ける話だが、これがヒントになるのかもしれない。
我が家は和食が多い。となると洋食?いや、和食の種類は多岐に渡るし具材も様々だ、その中に答えがある可能性も否めない。思い出せ、これまで食卓に並んだ和食達を。一般的な和食の中、我が家の食卓から抹消された献立があれば、きっとそこに答えが眠っている。
天ぷら。うどん。炊き込みご飯。肉じゃが。秋刀魚の塩焼き。だし巻き玉子。きんぴらごぼう。
「…ごぼう?」
きんぴらごぼう。よく聞く和食で、給食でも出たことがあるが、思い返すと家で見たことがない。味噌汁にも、炊き込みご飯にも、ごぼうは入っていなかった。
「…素晴らしい。まさか本当に正解するなんて」
「え、本当に正解なの?ほぼ思いつきだったけど」
あっさりと答えを探し当ててしまったようだ。なんだか釈然としない…いや、クイズをさっさと終わらせるためだ、早々に終わらせたのは望ましい結果であるはず。
「そうです、母さんは小さい頃からずっとごぼうが大の苦手なのです」
「言われてみれば、家でごぼうなんて見た事ない…ちょっとお母さん、玉ねぎは容赦なく入れるのに自分には甘いなんて酷いじゃない!」
「ごぼうだけは本当に食べられないの、食感と香りからしてもう駄目なのよ」
「私だって玉ねぎの食感も香りも、切る音まで駄目」
「僕だって、梅干しの食感も香りも、姿形まで耐えられない」
姉と張り合うようにそう口にするも、母は知らぬ存ぜぬどこ吹く風と相手にしない。
「こんなにあっさり解かれてしまうなんて…仕方ない、追加でもう一問!」
「今度は何の問題だよ」
次はもっと難しいのだろうか。更に推察力が試されるのか。
「第二問!お母さんの初恋の人は誰でしょう?」
「分かるわけないだろ!」
食べ物の好みからいきなりの方向転換。しかも、難問どころの話じゃない。
ただ、問題に出すということは、かろうじて答えられる範囲ではあるはずだ。ヒントを見つけてそこから探れば…何故僕は真剣にクイズに参加しようとしているのだろうか?
「流石に皆目見当もつかないでしょうから、ヒントをあげましょう。毎朝、お母さんはその人と会います。お姉ちゃんや貴方も偶に会っていますよ」
「えー、それちょっと簡単すぎじゃない?私もう分かっちゃった、答えていい?」
「ほんとに?でも、駄目です。回答権はチャレンジャーにしか認められないのです」
姉は今にも口にしたいと言わんばかりに、唇をもごもごと動かしている。朝に、母と姉、そして僕が出会う人、そして初恋の相手。父、というのが一番無難で、尚且つロマンティックな答えだろう。
しかしそれは些か単純すぎないだろうか。先に一問目ですぐ答えを見つけた以上、それほど簡単な問題を出すとは思えない。
僕は視線を動かす。毎朝、ということは今朝も、その相手は母と顔を合わせているという訳だ。ならば必ず家の何処かにヒントがあるだろう。
カーペット。サイドボード。テーブル。椅子。窓。テレビ。
そうだ、母が今見ているニュース番組。その後に放送される、所謂朝ドラというやつ。最近母がうっとりと眺めている男性を思い出した。
「主人公の過保護な父親役。あの人でしょ」
母より少しばかり歳を重ねているその役者は、母が若く今よりテレビをよく見ていたであろう頃には大層見目麗しい俳優だったのだろう。画面の向こうで輝いていた彼を恋い慕った母は、叶うはずもなかった想いを諦め年老いた後も、その姿を目で追っているのではなかろうか、と考えたのだ。
「…惜しい!しかし不正解」
「ええっ」
名推理を終えた探偵のような心地でいたから、少々間抜けな声をあげてしまう。
「しょうがない、さっきから答えたくてうずうずしているお姉ちゃん」
「はい!お父さんでしょ?」
「ピンポンピンポン、大正解!」
まさか、本当に単純な答えだったなんて。間違ったことより、どうにも気にかかることがある。
「一体、何が惜しかったんだよ」
「母さん、確かにその俳優さんがずっと好きですからね。実は、父さんと結婚したのもそれがきっかけなんです…若い頃の父さん、全盛期の彼とそっくりだったんだから」
僕と姉は、思わず顔を見合わせた。ごく普通の中年で仏頂面の父親が、ドラマに出演するイケメン俳優にそっくり?
「いやいやいや、まさか父さんが」
「ほんとほんと。母さんと父さんの新婚旅行の写真、貴方達にも見せたことあるじゃない」
見たことはある。幸せそうに微笑む父と母。ただどう頑張っても、あの俳優と父の顔立ちは重ならない。
「ちょうどその頃やってたドラマに主人公の恋人役で出演しててね、とっても素敵なセリフがあったの。それを父さんに言ってもらったりしてね」
「どんなセリフだったの?」
「一生、僕は君の虜だよ…って」
若い父が母にせがまれ、真似してみせるところを想像する。精一杯かっこつけて、頬を引き攣らせながら。
「…ぷっ」
僕と姉は同時に吹き出した。一度笑いだしたら収まらなかった。何度も空想の父の姿が頭を過ぎり、その度笑ってしまった。
「ちょっと、父さんに失礼でしょ、笑うなんて!父さんね、ドラマに合わせて掌を握りながら、膝立ちしながら上目遣いで言ってくれたのよ」
「ぶっ、はははっ!母さんやめて、想像しちゃうじゃないか!」
「あんた、笑いすぎだって…!でも、無理、笑いすぎてお腹痛くなっちゃう、ひひ」
ひっくり返るほど笑いながら、こんなに笑ったのは久しぶりだと気づいた。勉強ばかりで疲弊していた身体が、ほんの少しほぐれた様な気がした。くだらない些細な日常に、こんなにも笑ってしまって、きっと盛大な時間ロスだろう。けれど、無駄と切り捨てるにはあまりに残酷な、心地よい時間に思えたのだ。
「結局さ、二人の目的はなんだったの?」
「目的?」
しばらくして、落ち着いた後、僕は母と姉に聞いた。二人は揃って首を傾げる。
「何の意味もなく、しつこく邪魔するような真似しないだろ。怒らせるようなことでもした?それにしては手口が平和的ではあるけどさ」
「意味、ねぇ…大した意味があるわけじゃないんだけど。何かを知らせたいとか、伝えたいとか、そういうのじゃなくて…」
なんだよそれ。そう言う前に、ただ、と母が付け加える。
「ただ、貴方が最近、凄く大変そうに見えたから」
「え?」
「そうそう、あんたが最近夜遅くまで部屋に閉じこもって勉強して、朝早くから学校に行って勉強してるの、私達知ってるんだから。母さん、凄く心配してたんだよ」
「受験期に全力を尽くして勉強するのはとても良いことだと思う。けど」
「根を詰めすぎ。大体、これまでのペースを急に変えたら負担がかかるでしょ。あんた昔からそういう加減が苦手なんだよね」
呆れた、というように眉尻を下げわざとらしい溜息をつく姉。
「だから今日の朝くらい、気を休めて欲しくて。まさかお姉ちゃんが乗ってくるのは想定外だったけど、何ふざけてるのって止められるかと思った」
「私だって弟思いの姉なんです。お節介かもしれないけどね、私だって受験を乗り越えてるの。そんな姉ちゃんからアドバイス。朝ごはんはしっかり食べること!なるべく寝ること!焦らないこと!」
「貴方は貴方に合ったペースで、無理せず頑張ればいいんだから」
僕はようやく気づいた。母も姉も、僕のことを心配してくれていたのだ。頓痴気な即興の芸で、少しでも僕がリラックスできるように。
思い返せば、僕はとにかく勉強が第一だと普段の生活を大きく変えてしまっていた。その影響は僕自身だけでなく、日々を共に過ごす家族にも及んでいた。夜、デスクライトの明かりを頼りに勉学に励んでいた僕は、朝、陽光に照らされた我が家で、僕の身を案じる家族の姿に気づけなかったのだ。
「…ごめん、心配かけて」
「いいの、謝らないで。さ、まだ時間はあることだし、朝ごはんにしましょう。今日のラッキーフード、目玉焼きを作ってあるからね」
母はフライパンに向かう。既に作ってある目玉焼き。これまで、僕が朝食を食べなかった日も、こうして作ってくれていたのだろうか。添えられるブロッコリーとトマトを眺めながら、罪悪感に駆られる。
朝の訪れを互いに共有し合う言葉すら、長らくかけることはなかった。母も姉も贈ってくれた、大切な挨拶。謝罪よりも先に、僕が言わなければいけない言葉。一呼吸置いた後、はっきりと告げた。
「母さん、姉ちゃん、おはよう。朝ごはんいただきます」
母はにっこりと笑った。姉はふい、と顔を逸らしながらも確かに口元を弛めていた。
僕は久しぶりに、我が家で朝を迎えた。
卵と野菜の風味を堪能して、お弁当の入った鞄とカッパを持って、玄関のドアを開ける。時計の針は同年代の少年少女が家を出る時間と大差ない。もうそれに焦る必要は無いのだ。朝の勉強を完全に諦めたわけじゃない、ただ、身体に無理を強いるような勉強法にならないよう、時間は調節していこうという魂胆だ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃあい…あ、私もそろそろ準備しなきゃなあ」
家族の声に背を押されながら、よく晴れた青空の下に降り立つ。空模様はだんだん怪しくなるのだろうか、しかし僕にはカッパがある。なんせ、僕の家だけで放送される天気予報があったので。
自転車に乗り、ペダルを漕ぐ。弁当に入った梅干しは考えるだけで少し眉根を寄せてしまうけど、ニュースにまでなったんだから今日も完食しないと。
今日は何かいいことがあるかもしれない。順位は残念ながら最下位、それでも目玉焼きをしっかり食べたのだから大丈夫。
勉強への向き合い方が変わって、友人からまた何か言われるだろうか?結局お前には無理だったんだ、と。気にするな、僕は超難問を突破したチャレンジャーだ。
気まぐれに、朝の限られた時間、限られた場所で放送されるらしいテレビ番組。また放送されるのかなぁ、なんて考えながら、朝日の眩しい道を軽やかに滑って行った。