空の色は何色か?—in the blue sky—
生まれて最初に震えた感覚は、音によるものだった。
「昔はさ、コウノトリって生き物が人を生んでいたらしいよ」
たゆたう風の暖かさが頬を撫ぜる。
理解していた。音を聞くのも温度を感じるのも初めてのはずなのに。自らのかたちすら、教わるまでもなく。
まぶたを開く。それは、長いまばたきであったかのように自然な動作で。涙膜が世界から眼球を保護する。
どこか緩慢で、惰性のように止むことのない風に揺れる雑草。
なだらかな大地は地平線まで見渡せ、背低く生えた新緑の群れに、この場所が草原であると少年は知る。
背後からはせせらぎが。ひんやりとした気配に誘われて体を動かせば、透き通った水が緩やかに流れている。
その行先には、パッケージングのされていない鈍色の大きな缶詰がどんぶらこと揺れていた。
蓋は空いている。
「今はね、わたしたちは缶詰の中から生まれてくるんだ」
声のする方へ体を戻す。
風景を認めるよりも先に少女の姿は認識していた。背丈がずいぶんと低かったから、頭上を越してその先の光景を見ることができただけだった。
景色に溶け込んでしまいそうな白髪が川の流れよりも流麗になびいている。意思の弱そうな垂れ下がったまぶたの中には、しかして理知を感じさせる青い瞳が宝石のように輝いていた。
「宝石……宝石ってなんだったっけ?」
宝石のようと感じながら、少年の頭の中では具体的な像は結ばないでいた。
「ふふーん。おねえさんが教えてしんぜよう」
そう言って少女は、なだらかな胸を張って少年の疑問に答えた。
端的に鉱物の成り立ちについて口にして、
「——まあけどね、宝石なんてもの世界にはもうないからよくわかんなくて当然よ。コウノトリと一緒」
そう結んだ後も、変わらず風は吹き続けていた。
「それで少年、きみは自分の名前を知ってるかね?」
少女に案内されるままに草原を歩む道中。
問われた内容を反復するようにして少年は記憶の水面に糸を垂らした。
獲物は餌がなくても釣り上げられた。
「βー108」
「βロットの子か。この前消費期限を迎えた子がいたから補充されたんだね」
ちなみにわたしはαロットさ、と少女はまたも胸を張った。
誇らしげな様子にむっと小さな反抗心が少年の胸に芽生えた。
「別にどこのロットとか関係ないですよね……」
「そうでもないさ。でなきゃわざわざ識別をつける必要はない」
「そ、そうなんですか?」
それは少年の知識にはない事柄だった。
世界の色も自分の寿命も教えられるまでもなく知っているはずなのに。
自分の脳に収まっていない事象は、つまりはこの世界にはもう存在しない事実。
「……コウノトリ」
そう呟いて、少女の背中がわずかに跳ねた気がした。
「昔はいたのかもしれない。けれどもう確かめる方法はないはずなのに……存在しないものは、知り得ないはずなのに」
くつくつ。音がした。
少女の背中が小刻みに揺れる。
小さく笑っているのだと、残念ながら少年の知識では想像できなかったが。
「宝石だって。なんでそうだって言い切れたんですか?」
「そうだね」
先を歩き続けていた少女の足が止まる。
「話を聞き続けたのさ。たとえ記録も記憶も消え去っていくものだとしても、事実だけは変えようがない。存在したという事実は変えようがないと、そうは思わないかい?」
足先が変わる。
少女が少年の方を向く。
楽しそうな笑みに歪んだ顔。ぐんにゃりと歪んだまぶたの中、理知を宿した瞳が爛々輝き、
「……、」
その危うげなかたちにゾッと背筋が震えた。
少年は、その欠けた美しさにゾッと、心の底を絡めとられていた。
「薄れた現実は伝承に。薄れた伝承は物語に。そうして欠落を続けて、わたしたちはわたしたちの生まれた理由を忘れてしまった」
まばたきも、呼吸も忘れて。
世界を構成する要素が少女だけであると錯覚するほどに思考を奪われて。
「ねえ、少年」
風が吹いた。
風は、吹き続けている。
「わたしと一緒に忘れ去られた記憶を探しに行かないか?」
差し出された手に逡巡する余地はなく。
少年は自分の胸が高鳴る理由もわからないままにその手を取った。
「よし、約束だぞ」
「え、あ、はい……」
ひときわ強く握り返されたあと、するりと指先が抜けていく感覚があった。
逃すに惜しいが、追うにはその去りざまはあまりに優美だった。
火照る顔より暖かな体温を握りしめて未練を閉じ込める。
「でも、存在しないものをどうやって探すんですか?」
「それは追々だ。急く気持ちはわたしにも多くあるが、まずはきみに生活を身につけてもらわねばね」
「生活の仕方くらい知ってますよ」
「知っているからと言ってこなせるかは別さ。生まれた理由はともかくね、生まれたなら生き続けてみなきゃいけないものさ。三年というのは茫洋と過ごすには短いみたいだよ」
「そういうものですか……」
そう言われてしまえば否定する理由もない。
「おねえさんは何年生きてるんですか?」
「れでぃに年齢を尋ねるものではないぞ」
「みたいですね」
「できてないじゃないか」
「なるほど」
得心いって顎を撫でる少年に呆れのため息を返し、少女は歩みを戻す。
草原の緩やかな丘陵を越えて、木漏れ日落ちる森林に踏み入れる。
真綿のようにしっとりとした踏み心地に、少年は気持ち足取りが軽くなるのを自覚する。
それは未開の地を歩むにはあまりに浮ついていると、認識は遅れて。
まばゆい景色の中に消え入ってしまいそうな少女の背中を掴もうとするように少年の足は早くなっていく。
「ずいぶん上機嫌じゃないか」
それが少女の目にはどう映ったのか。
いつのまにか隣り合っていた彼女の笑みに、少年は息が止まりそうになった。
「不思議なんです」
どうにか息を吐き出して、少年は胸のうちを吐露する。
「はじめて通るはずなのに、なんだか歩き慣れた道のようで」
ふわふわとかたちのわからない感情には蓋をして。
郷望とも言うべき感覚が少年の足取りを軽くしているのもまた事実だった。
「そうだね。きっとこの道を通るのは初めてではないのだろう」
「けど僕はさっき生まれたばかりで」
「きみが生まれたのはさっきだろう。なら、前のきみがこの道を通ったと言うことさ」
「前の、僕?」
「缶詰は量産品さ。同じロットでも味の違う品は作られるだろうが、やがてそれは循環する」
「βー108」
「そう。βロットの108番目の人間がきみと言うことだね」
「けど僕に昔の記憶はないですよ」
「当然だよ。記憶はつまり年月さ。三年間の消費期限を迎えて廃棄された缶詰の補填に入る品が消費期限切れでは話にならないだろう?」
「消費期限……」
その概念は当然、少年の頭に入っている。
ちらりと、視線を少女の反対に移す。
少年は自らの細腕を十本横並びにしてもまだ足りないであろう木の幹を殴り付けた。
空気の抜けるような軽い音がする。
振り抜いた手の甲を眺める。
出血はおろかささくれ立つ真皮の一枚もない。
「僕たちは缶詰に保護されている」
「うん。消費期限を迎えて腐り落ちるまでは傷ひとつつかないよ」
「傷がつかないのが体の機能なら、三年で体が腐り落ちるのもまた体の機能なんですね」
「抗えない摂理というやつさ。どうしてそうなのかも、これから調べなきゃだけどね」
こんな話があるんだよ、と少女は続けた。
かつての人間は三年で朽ちることはなかった。かわりに怪我が絶えず、それが原因で三年に満たず体を失うことがあったと。
「なんでわたしたちは三年で朽ちる缶詰になってしまったのだろうね」
そう結んで、
「ほら見えたよ」
足を止めた少女が指を刺す。
少年もそれに倣い、指の先に目を向ける。
その先、やわらかな日差しに導かれるように視線は彼女の示した場所を違わず追った。
ぐるり木々に囲まれた窪地があった。
全容を確認するのは到底むずかしい大きさだった。
「大地のへそみたいだ」
「臍か。言い得て妙かもね」
からから笑って少女は上着の裾をちらりとめくった。
塗りたくったような白色の肌がなだらかな丘陵を描いて、つつましく咲く花のようなくぼみが——、とそこで少年は彼女の体から目を逸らした。
彼女のへそに水を貯めてそこから滴り落ちる水の様子は、あの川のせせらぎより美しいだろうという邪念も頭を振って取り払う。
「じゃあ行こうか」
その言葉で我に帰る。
少女の口元ではなくおなかに目がいってしまったが、裾は正されていた。
「……」
「どうしたの?」
「あ、いえ」
「そう?」
あまり気にした様子もなく少女は歩みを再開した。
それに従って足を進めて、窪地の緩やかな斜面を降った。
そこには営みがあった。
缶詰型の住居の前で談話に興じる人々の音は温度を生む。
行き交う流れが温度を攪拌して、遠くに命の息吹を運んでいく。
それは生活だった。
「よう変わりもん」
ふたりが到着してすぐ。
明らかに少女に向けて、決して明るくない声音が向けられた。
彫の深い顔をした屈強な男性だった。
「やあθー−38」
「今日はどうなんだ? 見つかったのか、世界の真実とやらは」
「いいや。そう簡単に見つかるものならわたしが探さなくてもとっくにわかっているはずさ」
「まあいいけれどよ。もうそろそろだろ。見つからなかったからって駄々こねて、周りにうつすのだけはやめてくれよ」
「肝に命じておくよ」
聞いているのだかそうでないのか。判別のつきにくい声色で少女は変えした。
慣れた会話なのか。男も特に顔色を変えることはなく、ふと少年に目を向けた。
「新入りか。いやなやつに捕まったな。まあ早くその頭のおかしい女から離れて生活するこったな。なんなら俺が住居を斡旋してやってもいいぞ」
その無遠慮な物言いにむっと視野が狭くなる。
思考が真っ白のまま、口の端から言の葉が漏れ出るままに従い——その機先を少女の言葉が遮った。
「彼にはわたしが先に目をつけたんだ。へたな誘惑はやめてもらえるかな」
「はっ。苦労するぜ、少年」
ぶっきらぼうに言い放ち、男は踵を返した。去り際の瞳には慰労が混じっているように見えた。
「相変わらず失礼な男だ」
その口ぶりに憤りの色はなかった。
対応も慣れているように少年には感じられた。
「いつもああやって絡まれているんですか?」
「まあここ最近はね」
軽い口ぶりでそう言う。
「じゃあ早速だけれど家に行こうか」
少年は少女の背中を追いかけるのに慣れてきたことに気付いた。
何事も繰り返せばそうなっていくものだと感心する。
だからこそ、慣れていないことには敏感になっていた。
なんだか、と。
口にはしないが、周りからの視線がやけに冷たい気がした。
原因は、聞かなくても推察できた。
先をいく少女。彼女が何も言わないなら、少年から何かを訊ねるつもりはなかった。
重大な見落としをしていることに気づきながらも目を逸らす。慣れていた。
「さて」
ふたりは一軒の住宅の前で足を止めた。
「前に消費期限を迎えたβロットの子が住んでいた家だ。消費期限を迎える前に廃棄されたからこのまま住めるぞ」
「えっと……それで僕は何をすれば?」
「言っただろう? 生活をするんだ。人と話して、寝て、外を歩いて。生きてみるんだ」
「じゃあいつ忘れられた記憶というのを探しに?」
「ちゃんと生活してるなって思ったらまた声をかけるさ!」
そう言うが早いか。少女は走って来た道を戻っていった。
唖然とする。吹っ飛んだ思考を手繰り寄せる頃には、彼女の背中は見えなくなっていた。
外に出たのだと、考えるまでもなくわかった。
「せいかつ……生活かぁ……」
輪郭の掴みにくい言葉だが、少女の言葉に背くという思想を少年は持ち合わせてなかった。
——時が過ぎる。
七度目の眠りを超えた頃だろうか。
住民との関係は比較的良好と言えた。
なんて事のない会話の繰り返しだが、知識の再確認という意味では役立つことも多かった。
快、不快の比率は概ね前者が占めていたが一点、少女の話だけはだれからもいい顔をされなかった。
昔はおとぎ話を好むだけの可愛い子だったのだけどね。いつからか行動に移すようになって——口を揃えて似たようなことを聞かされた。
空の色は変わらず青色のまま、規則的に意識が重たくなる瞬間が来る。
それが眠る合図だ。
そういえばあれから少女に会っていないとまぶたを閉じて——次に意識が開いた瞬間に目に飛び込んできたのは、まさしくその少女の顔だった。
ただの一眠りで三年が過ぎてしまったのだと、時の流れを錯覚する不変の美しさがそこにはあった。
「少年」
その美しさはいつになく厳しく引き締まっていた。
けれど瞳だけは変わらずに。いつか見た危うい青さが爛々輝いている。
「本当に世界の真実を探しにいく覚悟はあるか?」
「もちろん」
迷う余地はなかった。
それがたとえ筆舌にし難い苦しみに導く光だったとしても、少年は自らの存在を投じることに躊躇はない。
「きみについていくよ。どこへだって、どこまでも」
「そうか」
少女は、その印象からはかけ離れた安堵で相好を崩して、
「じゃあ行こうか」
目的地は訊ねない。
彼女の行き先が少年の行く道だった。
そこは川の上流。どこから来たのかと問われれば、当然川の起点だ。
それは彼らの価値観においては、建物と呼ぶに怪しい建築物だった。
「工場……正確にはプラントって言うらしいよ」
缶詰の生産場所。
そのような場所があるという知識はある。
どういった仕組みで動いているのかはわからなかった。それが示すのは——、
「行こうか。たぶん、行くだけで終わるはずだよ」
その言葉に頷いて答える。
ふたりは敷地へ足を踏み入れた。
足並みはいつの間にかに並んでいた。
少年は歩幅を変えていない。
だから扉へは彼が先に手を伸ばした。
錠はなかった。
横で目を見開く少女に見なかったふりをして扉を開いた。
しん、と静寂が落ちていた。
空色の光にぼんやり照らされた空間に、重たくのしかかる無音。
それを誤魔化すような、わざとらしい呼吸の音が聞こえた。
「わたしたちは、この世界に存在するものの知識をあらかじめ有している」
歩み出しはふたり同時だった。
「この場所のことはあらかじめ知っていた。けれど何をしている場所なのかの知識はない」
わざとらしく靴音を鳴らして少女は滔々語る。
「それはつまり……この場所がもはや本来の役割を果たしてないってことじゃないかって思ったの」
部屋をいくつか渡る。
静かに流れるレーンや、缶詰製造のための炉の横を通りすぎる。
「わたしたちはなんなのか。この世界はなんなのか。すべてはその役割で繋がってるんじゃないかしら」
そして最後の部屋にたどり着く。
推察ではあるが、確信があった。
多弁だった少女は、部屋の前にたどり着いた瞬間から朽ちたように息が浅い。
少年は扉に手をかけようと指先をわずかに動かして、
「……」
その行き先を少女に向けた。
「っ!? やめっ!!」
少女は大袈裟に距離を取って手をかわした。
沈黙がふたりの間に積もる。
それを破いたのは、少年のため息だった。
「やっぱりもう……消費期限を迎えているんですね」
「……知らないはずないわよね。そのために……」
「ええ。よく聞かされましたよ。あの子はそろそろ三年目を迎えるからって」
「なんでついて来てくれたの? だって、さわらなくてもうつるかもしれないんだよ」
消費期限を迎えた体は徐々に腐り落ちる。延命を望めば肉体的接触や空気感染で周りに腐敗をうつすことになる。
「そうですね……ただ、それでも今ついてくることを選ばせてくれたじゃないですか」
「そんなのは理由になってない。知ってなかったら利用してやろうって……もし途中で足がだめになったら……君にうつして無理やりに運ばせるつもりで……」
「どこまでが本当なのかは関係無いです……ただ、僕はどうであれあなたについていきたいと思った。そう思った理由がこの先にある気がするんです」
少年は少女に手を差し伸べた。
「さあ、あなたが始めた物語です。僕を最後まで導いてください」
少女は手を伸ばして、
「……」
少年の手を取らなかった。
彼女の手は扉にかけられていた。
「行きましょう」
それはいつだって少年を導く言葉だった。
最後の扉が開かれる。
見た事のない色で照らされた部屋だった。
空の透き通るような冷たい色合いとは真逆な、ふれた先から人の体温を感じそうな色。
その部屋には一つの缶詰が鎮座していた。
ふたりの来訪を歓迎するように、厳重そうな封はひとりでに開く。
その中をのぞき込む。
黒色の球体と、数枚の薄い板が入っていた。
少年にはどちらも正体を窺い知れない。
聡明な彼女なら何かわかるかもしれないと隣を窺って、
「……ぁ」
まぶたからしずくを落とす少女の姿を見た。
その光景に少年は胸の辺りを掻き毟りたい衝動に駆られた。
この感覚の正体も、この場所にはなかった。
そう思った少年とは裏腹に、少女は嗚咽まじりに声を漏らした。
「そうか……わたしたちは……わたしたちは……こんな大切なことを忘れて……」
「何を忘れてたんですか?」
少年の問いかけに少女は崩れた顔のまま向き直って、
「遅かったんだ、わたしたちは……世界はとうにわたしたちを見捨てて終っちゃってたんだよ……空はずっと青いままで……けれどわたしたちは生きているんだ」
少女が少年に向けて手を伸ばそうとする。
その指先が腐り落ちた。
「あーあ」
少女の体がどんどん崩れ落ちていく。
少年はその光景が認め難いように顔を歪めた。
「なんでこんないきなり……!」
そこで気づいた。少女のもう片方の手が黒色の球体にふれていることに。
その球体は、もはや球形を保っていなかった。
ぐずぐずに崩れ落ち、まるで腐っているようであった。
「そっかぁ……ねえ」
少女の声に顔を向ける。
泣き顔はいつの間にか、咲き誇るような笑みになっていた。
「わたしはきみが——」
その言葉が紡がれることはなく。
少女の全身は腐り落ちてかたちを失った。
「ああぁぁぁぁぁあああ」
少年はその残骸に駆け寄ろうとして、少女の言葉を思い出す。
「……わたしたちは生きているんだ」
そう彼女が口にした。
「生まれたなら、生き続けなくちゃ……」
ならば、その言葉に従うのが少年の生き方だった。
残骸を避け、部屋を出る。
少女と一緒に歩んだ道のりを、一人で遡る。
工場から出ると、変わらない青空に出迎えられた。
幸か不幸か、空気感染は免れたようだ。
「…………」
少年は右手をひさしのようにして空を仰ぐ。
変わることのない、青々とした快晴。
夜に見捨てられた世界は、焼きついた真昼にように移り変わることはない。
黄昏を迎えることはない。
「あの時……」
少年が思い出すのは、消費期限に至った少女の姿。
最後の最後に答えを見つけたように笑った彼女は、一体何を言おうとしていたのか。
少年には皆目見当がつかなかった。
とうにその答えを、人類は忘れてしまったのだから。
それが規定されたものでも少年少女と象られた彼らが、恋をすることすら叶わない。終わりに見捨てられ、円熟からは程遠い結末。
愛の実らぬ青い果実が人類史の終末だった。
「あの時の続きを、君は教えてくれるかな」
彼らは再び巡り合うだろう。
それは奇跡などではなく、ただの確率論。
αー1とβー108という設計図に基づいた缶詰の出荷期間がかぶさっただけの話。
新たに出荷される彼らは消費期限同様、記憶は引き継がれない。
変わることない世界で、昨日の続きだけは語られない。
それでも、
「だから——忘れ去られないように、君への記憶を語り継ぐよ」
現実は伝承に。伝承は物語に。
たとえその価値が薄らいでいこうとも、あの日繋いだ手の温度は紛れもない本物だ。
その熱を逃さないように、少年はぐっと右手を握り込む。
終わりを失った世界で、それでも彼らは生きていた。
青い空の中で、人類は生き続けていた。
だから。
少年と少女が再び手を繋ぎ合う日は奇跡などではなく——いつの日か訪れる、ありふれた幸福なのだ。