第三話「奉仕」 1
1.
皿洗いや掃除だけでなく、接客もするようになり、忙しなく厨房と店内を行き交うようになる。最初こそ、ぎこちない様子で客の前に立っていたが、回数を熟すうちに慣れてきてはいた。
「今日は一回だけ、でしたね」
「……すいません」
慣れてきてはいたが、失敗はする。今日は皿を一枚、割ってしまった。
二人は静かな店内で、椅子に座って話し込む。反省会みたいなものだ。肩を落とす如月を慰めるように、蘭は笑っている。
「いいんですよ。お父さんも気にしていませんから」
「目が、こわかった」
「あはは、いつも通りですって」
子どもみたいな、無垢な笑顔を蛍光灯が照らす。如月はそれから顔を逸らして、そっと息を吐く。
しばらくの間、怪文書は贈られ続けていた。新聞記事の文字を使って、事故について恨み言がつづられている物だ。下駄箱、机、はたまた家のポストにまで入れられる始末。如月の父の目にだけは触れないよう、気を付けてはいるが、知らぬ間に手に取っているかもしれなかった。
以前、暮らしていた場所でもあったことだが、その時は如月の母が処理をしていた。
「いや、だめだ。このままじゃ」
気が滅入り、バイトは失敗だらけで迷惑をかけてばかりだ。鬱蒼とした雰囲気では客も逃げる。あまり露骨では、周囲の人に気付かれてしまう。
太ももを叩いて立ち上がった。
しかし、何をすればいいのか、見当もついていない。
急に立ち上がるものだから、蘭の方は驚いて椅子から落ちそうになった。
「わわわ、びっくりしました。良い喝です。若人らしいです」
「そろそろ帰るよ。じゃあ、また」
「ん? うん、またねー」
月が隠れる夜空の下に飛び出した。いつもより歩幅が広がる。
薄暗い夜道は寒気を誘い、どこからか聞こえてくる犬の遠吠えで肌が粟立つ。コンクリ塀に挟まれた路地では、一つしかないはずの足音が、重なって聞こえてくるかのようだ。
まだ半分も行っていないところで、雨粒がたんたんと細かに頭髪を打つ。
急に降り出した雨は、あっという間に大粒となり、行く道を塞いだ。後退して駅近くのコンビニの屋根の下に入る。
多少、濡れはしたものの瑣末な問題で、雨具を使って帰るだけの余裕はある。
肝心の雨具だが、コンビニに入れば売っていると踏んでいた。中に入って探すが品切れで打つ手なし。
店員に尋ねるのも気乗りせず、雨が止むまで待つことにする。ただ待つのも暇なので、新聞だけ買って、「ありっとーおざーっしたー」と投げやりな挨拶で見送られて、外に出る。
「……流石にもう、載ってるわけないか」
あの脱線事故を言及している記事は、どこにもありはしない。鉄道会社の謝罪と被害者またその親族らへの、献身的な対応は滞りなく行われた。事故の原因は速度超過であった。
新聞から顔を上げ、雨雲の様子を伺う。雨足が弱まる様子は見られない。
新聞を折り畳んでズボンに差して、走り出す準備をした。日中の仕事で疲れている父を呼ぶわけにもいかない。
暗闇の中、車のライトに人が一人、照らし出された。夜遅く、ビニール傘を差してまでコンビニへ来る人はきょろきょろと辺りを窺っている。
こちらに気付いた様子で、傘を上下に揺らしながら駆けてきた。コンビニの灯りがその人の顔を明らかにする。
「鈴木さん。どうしたんだ」
蘭が傘を差しながら、胸に手を当てて呼吸を整えていた。もう片方の手には紺色の傘が握られている。
「雨、降ったからどっかで雨宿りしてるかなって、思って。ふー、勘が当たって良かった」
「わざわざありがとう。丁度、走って帰ろうとしてたところなんだ」
「はい、じゃあ、私の家へレッツゴーです」
傘を渡すや否や、先に戻っていってしまう。
如月は受け取った傘を差して、蘭の横まで早足で追いつく。
「いや、いやいや。ちょっと」
「ん? ああ、お父さんがですね、濡れてるなら連れてこいって」
「これくらい平気だ」
「ダメ。傘貸したんですから言うこと聞いてください。それに、お父さん、心配してましたから」
蘭は如月の方を向き、口をぱくぱく開けて、また前を向いてから言った。
「私もその、心配してるんですよ? 一応これでも。そうは見えないかもしれませんが」
その顔は暗くてよく、見えはしない。
蘭の家に着き、如月はメールを父に送ってから風呂と寝巻、それから寝室を借りて床に就く。
一月ほど前も、同じ天井を見ながら眠った。その時はすんなりと意識を遠のかせることが出来たが、今回は何度も寝返りを打ち、寝つけずにいる。
怪文書の事、鏡の中の事、冨田の事。そこに、心配をかけている、心配をしてもらっているという悲喜こもごもとした事象が加わる。かと言って、打ち明ければ、ついに気が狂ったかと言われかねない境遇であることは承知している。
思いきりだけではうまくいかないものだ。
布団を剥いで、頭を押さえてから数秒、タオルを持ってゆっくりと立ち上がった。
顔を洗いに行こうと部屋を出て、洗面所に向かう。
洗面所が脱衣所を兼ねていることを考慮していなかったのが過ちだった。そこまで頭が回らない状態ではある。
「え……」如月の口から、言葉が漏れる。
洗面所兼脱衣所には、タオルで体を拭いている蘭がいた。
うなじから恥骨部にかけての素肌が、目に映る。水滴が僅かに残り、火照って赤みのある柔肌をさらに美しくみせた。
――女性の、蘭の裸体がそこにはあった。
あられもない姿に、身体が石のように固まる。
くびれにも見惚れそうになったがそれよりも、傷痕に目を奪われた。蘭が体の前を拭きながら振り向くまでの短い間だ。
左肩にある二つの小さな丸と、右の肩甲骨辺りにある四つの木の枝のような細い傷痕。深くえぐられたようで、健康的な肌色に白く、しっかりと刻まれていた。
「ちょっとお父さん、寒いから早く締めて」
「……うん」
「あ? うん。えっな、なな、え、えっ、とえっああわわわわ」
「……ごめん」
タオルで前を隠して座り込んだ姿をしり目に、如月は脱衣所を出て扉を閉めた。
寝室に戻って布団に倒れて眠りに就いた。
朦朧とした意識のまま上体を起こす。休日であり、だいぶ眠っていたことを自覚してから、昨夜のことで体が静止した。
途端に顔を赤くして、ベッドをせっせと畳み始めた。
それから自然な足取りで部屋を出る。蘭と廊下で鉢合わせるまでは完ぺきであった。
「あ、おはよう、ございます」
緊張が口から出てきたかのような挨拶をする。謝罪の意味も含めて頭を垂らす。
すぐに反応してもらったのが、救いだった。
「おはようございますです。今日もごきげんうるわしゅうございますね」
二言で様子がおかしいものだと分かったから、頭をあげて顔色を窺う。
青ざめ、額から汗を流す顔が一つ、四肢が整う直立不動の身体の上に乗っていた。
「あの、すいませんでした」
「こちらこそ、大変、お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんっ」
今度は互いに頭を下げ合う。
如月は不審に思って、姿勢を正して蘭の前に立った。
「お見苦しいって、そんな」
「あんな傷見せてしまい、気分を害されたのではないかと思った所存でありまして」
震える声に、如月は咄嗟に答えた。
「そんなひどいものじゃないだろう。それにその、あー……きれ――あぁ、やめだ。深くは聞かない、だからもう止そう、お互い謝るのは」
「うん……ごめんなさい」
「おいっ」とツッコミを入れれば「はいぃ」と返される。
お互い相当、滅入っていた。
如月は頭を掻いて、それから大きく息を吸う。本来なら、逆の立場であるはずなのだから、それを自覚させなければならない。
「お、俺は!」
腹から声を出し、人差し指を突き付けた。鬼灯のように顔を赤くし、今にも爆ぜてしまいそうな勢いで言う。
「俺はお前のっ、裸をっ、見たっ! 分かるか!? なのにどうして怒鳴られはしても、謝られなければならない! 意味が分からん!」
「え、ええぇそんなこと言われても」
「いいから怒れよ! 怒っていいんだよ!」
「こ、こわい。変ですよ、それ」
「あぁ変だよ! 全部が全部変だよ! 許容量をとっくに越えてんだから当たり前だろ! なにが鏡だ、なにが怪文書だ、なにが幽霊だ! 今更、裸の一つや二つ見たところでどうにかなってたまるか!」
「あぁうううぅ」
「母さんがいなくなったのだってまだ……!」
フリをしている内に息も上がる。高揚して腹の内のものどころか、胃袋さえも吐き出すかのような気迫だった。
深呼吸をして動機を鎮めようとする。
「悪い……いろいろ軽率だった」
縮こまっていた蘭の脇を抜けるが、後ろから服の裾を引っ張られる。
「もう、ごめんなさいは言いません」
「別に言ってくれていい。どうこう言う権利なんて俺にはないんだから」
「どうすればいいか分からないんですよね」
大きく息を吸ってから、蘭と向き合った。
蘭の澄んだ眼が向けられる。
「受け入れてもらえて、ちょっとうれしいです。人に、初めて見られたのでどういう反応をされるのか、すごく恐かったです」
「……ひどい、その、傷痕だったけど大丈夫なのか?」
「もう完全に塞がっていますから平気です」
「なら、うん」
「それよりも他のことで、如月くんは悩んでいるんですよね。それをどうにかしなければならないんですよね」
「悩みはしてるが、どうにも。どうにもできないなら悩む必要も――いや、キミに愚痴るようなことじゃなかった」
蘭の手を裾から放して距離を置き、逆に蘭は間合いを詰めていく。
「なにを」
「私に出来ることがあれば、なんでも言ってください」
「そうは言うが……キミはどうしてそんなに」
そこで如月は息を飲み込んで、ためらいを見せるが、蘭の眼を見てから言葉を紡いだ。
「キミはどうしてそんなに、献身的なんだ」
「献身的っていうのはちょっと、大げさだと思うんですけど。一度、失敗しているんです。もう後悔したくないから、悩んでる人の傍にいて、助けになるって決めたんです」
「言ってしまえば、それは自分勝手だ。この間もそうだった」
「我がままで、自分勝手でごめんなさい」
まっすぐな目を直視する。如月ではなく、もっとずっと先を見ているような目だった。
如月は息を一つ吐く。
「もう、ごめんなさいは言わないんじゃなかったのか」
はっとして口を押える蘭に、改めて向き合う。その背の窓ガラスから陽光が差し、眩しいものだったが目蓋を閉じはしない。
「大丈夫だ。今、どうするかを思いついたよ」
「て、てきとー言ってごまかしてません?」
「キミのおかげだ。自覚はないだろうが」
「今度は馬鹿にされた気分です」
むくれっ面の蘭を笑う。
つい先日、如月は冨田に対して、なんとかすると言ったばかりだ。
家に戻って父の様子を窺う。居間の机に突っ伏しており、手に酒の入ったコップを握っていた。引っ越し前から変わらない、父の休暇の風景だった。
机の上には写真立ても置いてある。如月の部屋にもある、家族三人で撮った写真が如月の目に写る。まだ如月が幼稚園児のころに撮ったもので、シャッターを切ったのは祖母だったか祖父だったか、あやふやである。
母の顔はずっと見てきた。病院に勤めていた母は、仕事から帰ってきても疲れた様子は一切見せず、一人で家で待っている如月に、いつも笑って「ただいま」と言うような人だった。写真の母も笑っている。
母は病院で働くような人だ。父は今でも必死に働いている。
――悩んでる人の助けになる。
蘭はそう言った。子、親、友人、知人、他人、誰でもいいのだろう。程度の大なり小なりや、結果的な事象であったとしても、助け、という行為に違いはない。如月は自分の部屋の布団に倒れ込んだ。




