第一話「幸わう町の花々」 2
2.
如月満とその父は坂を下っていく。
駅前まで行き、そこからまた歩いた。
駅の近くに焼肉屋があり、夕食はそこで済ませることにする。
装飾や目立つような看板はなく、ここは誰かの家だと言った方が頷ける。バイト募集と手書きされたチラシが、店の質素さを際立たせている。
しかし、駐車場は狭いながらも満車だ。
「学生のころからあったなあ。入ってみたいと思っていたんだ」
そう言いながら、如月の父はのれんを潜る。
店の中に立ち込めていた香ばしい匂いと、それから若い女性の声が二人を出迎えた。
「いらっしゃいませー!」
元気な声だ。
焼肉屋を思わせる、張りのある声。にぎやかな店内でもよく通った。
店の奥の、バンダナをした店員が発したもので、早足で二人の前にやってくる。
「二名で」
「二名様ですね。どうぞこちらへー」
左右に四つ、計八席あるテーブル席の一つに、二人は座った。
四席は埋まっていて、会社帰りの中年男性やカップル客が、楽しそうに喋りながら肉を焼いていた。
店員は厨房にもう一人、小じわの入った武骨な顔の男性がいるだけだ。
如月は店内をじろじろと見回してしまう。外食の経験はあまりない。
先ほどの若い店員と眼が合い、にこやかに会釈をされた。
肩を丸めて、小さく会釈を返す。
「満。お前は何食べたい?」
メニュー表を見ている父の言葉で、顔を戻した。
「ああ。腹は減ってるから、なんでもいいよ」
「なんだ、一目惚れか」
「うるさい」
軽口でいなしてメニューを指差す。
「ナンコツとか食ってみたいな」
「食ったこと無かったのかナンコツ。固いぞ? 食えるか?」
「骨なんだから固いだろうよ。平気だよ」
「そうかそうか。まあ、とりあえずは」
お冷とおしぼりを持ってきた店員に、タンとキムチを注文する。そこからは段々と油の濃いものを頼んでいき、焼き肉を堪能した。
注文が来る間、如月は水をちょくちょく口に含んでは、店内と厨房をせわしなく行き交う店員を視界の端に入れながら、静かでいる父の様子を伺っていた。
酒が入って眠りこけてしまった父を見ながら、如月は黙って肉と野菜を焼く。
店内からは他の客が消え、閉店の時間となってしまった。
所謂、泣き上戸というやつで、特に喋ることはなかったけれど泣き崩れ、父は眠りについた。
「母さ……ん……」
寝言を聞き、そろそろ起こそうとして、如月は席を立った。
「うちなら大丈夫ですよ、朝まで寝てってくれても」
そう言って止めたのは店員だ。
先ほどまでの元気な様とは打って変わって、物腰柔らかにささやいた。
「お父さん、疲れているんでしょう?」
「さすがに悪いです」
店員は音を立てずに食器を重ねて、別のテーブルに移す。そこから流れるように椅子を持ってきて、如月の横に座った。
「いろんなお客さん見てきましたけど、こういうときは寝かせてあげるのが一番ですよ。また明日から、がんばるためにもね」
言われて、白髪交じりの父の頭に目をやる。
「いや、でも」
それでも言うことを聞こうとしないので、店員は如月の肩を叩いて強引に出る。
「いいからいいから。うちのお肉は泣くほど美味しいって評判なんですよ。ですから、うちで介抱してあげるのも当然の義務、ってわけです」
「はあ。そうですか」
ぐいぐいと来るものだから、納得してしまう。確かに箸は進んでいた。
「ところで、アナタは学生の方、ですか?」
如月は店員の方を向いた。
身体を乗り出し、顔が近くなっていた。その顔は整っていて、瞳も水晶のように澄んでいる。頭に巻いたバンダナは外され、艶のある短い黒髪も露わになる。
じっと見ていると、店員に小首を傾げられた。
口を一度、閉じてから如月は答える。
「今年から高二です。今日ここに越してきたばかりで、四月からフヨーダイ高校に通うことになってます」
水を口に含んで、余所を向いた。
少し早い自己紹介は、良い練習になったことだろう。
「そかそか。フヨーダイなんですね。たぶん駅から出た時に目に入ったと思うんですけど、駅前にある高校に私は通っています」
店員はうんうん、と頷く。一人で何か納得した様子。
話が読めないので、如月は眉をひそめる。
「名前がまだでした。鈴木蘭って言います。よくあるスズキに、爛々と燃えているんですけど草を被せて火を消した方のランです」
ややこしい、と野暮なことは言わない。
「如月満です」
如月も向き直って名前を言う。
やはり顔が近いので、反射的に目を逸らす。
「どう書くんでしょう?」
「逆さまに読むと、満月の如し、になります」
「マンゲツノゴトシ……如月くんですね、如月くん。うん、良い名前」
復唱して覚えようとする蘭。
「それは、どうも」
なんだろう、と怪訝に思う前に、蘭が理由を口にした。
「私も二年なんですよ。で実家はここ、焼肉屋を経営しています。それでですね、折り入ってご相談があるのですが」
「うん……うん?」
相槌を打っていたが、話の流れが読めて、疑念の声が漏れ出す。
店の前には、バイト募集と手書きされた張り紙があった。
「現在ここではアルバイトを募集していまして……引っ越してきて、わたわたしているとは思うんだけど、どうかな?」
「どうかな、って」
「会ったばかりでどうかとも思いますが、一度だけでもいいので、ここで働いていただけませんかっ」
蘭は拝むように手を合わせた。
父の起きる気配はまだ無く、突っ伏している。助け舟は
こめかみを掻く如月に、蘭は続けて言う。
「つい先日、アルバイトの大学生の方が辞められて、厨房にいる父は足が悪くて調理で手一杯でして、私一人だと結構つらいんです。お皿洗いとか盛り付け、その他もろもろが間に合わないんです」
猫の手でも借りたいようで、一人で注文を受け、一人で料理を運んでいるところは実際に如月も目にしている。よく見ていた。
「その、いいんですか。人間性とか、社会性とか」
「初対面の人に、ちゃんと自分の名前を説明できる人なら、だいじょーぶです!」
「友だちとかには……いや、なら、そんなに切羽詰ってないですよね」
「手当たり次第、知り合いに声をかけてみましたがダメでした。全滅です。人望ないんです私オヨヨヨ」
怪しく泣く演技には、苦笑を返す。
如月は目を瞑り、黙考してから蘭を見た。経営状況を聞かされ、美味しい肉まで頂いたのでは、この場で断りようがない。
働くことは初めてでちらりと父を見て、それから母の顔を思い出す。
看護婦だった母はいつも笑顔で仕事をしていたと聞く。
「……上手くできるか分からないけど、大丈夫ですか」
引っ越ししてきたばかりですることがなかった如月には、良い話だったのかもしれない。
蘭が如月の手を取って、礼を言った。それから布団と風呂を貸すので今晩は泊まっていくようにも言った。
蘭の分け隔てない態度には、慣れない。
断れば、犬の遠吠えのする夜道に、放り出されていたのだろうか。それは誰も知る由もない。
厨房にいた武骨な顔の男が如月の父を運ぶ。
蘭の父親だ。
蘭は母親似であった。
「何かあったら言いに来てくれ。居間にいる」
その男は空き部屋まで二人を連れてきた。抱えていた如月の父を布団に寝かすや否や、二人の前から姿を消す。
如月は風呂を借りてから、既に敷いてあった布団で眠ることにした。食いそびれたナンコツと、蘭のことを思い出していたが、すぐに眠れた。
如月は夢から目を覚ますと同時に、被っていた布団を退ける。目からは涙が零れ落ち、頬を伝う。
外はまだ暗い。
二人を起こしに来た蘭に、如月は泣いているところを見られてしまう。
廊下から差し込む光を頼りに、蘭は静かに歩み寄り、如月の背中をさする。その口は開かず、何も言わない。
「ありがとう。でも、平気だ」
目元を拭う。涙をすでに止まっている。
寝ている父を起こさないよう部屋を出た。
蘭の父親は既に家を出ていたので、居間には如月と蘭だけだ。
顔を洗い、コップ一杯の牛乳を飲み干してようやく、如月の目が冴える。
如月は椅子に座りながら俯いた。眼元は赤いが、台所で料理をしている蘭には確認できない。
ご飯と味噌汁と、卵焼きとサラダを持ってきて、蘭が対面に座る。
如月は俯いたまま、か細く言葉を漏らした。
「家に泊まらせてもらって、朝食まで頂くなんて、なんだか、申し訳ない」
「気にしないでください、うちではしょっちゅう、あることなんで。一人はイヤだからって人にも、夜中ずっとお父さんを相手に愚痴る人にも、朝になったらこうやって、ごはんを作ってあげてるんです」
「そう、なんですね。なにからなにまでありがとう」
如月は蘭の方を向いた。
蘭は目を閉じ、そっと自身の胸に手を当てている。
互いの視線は机に並ぶ朝食へと落ちる。
「うちはね、お母さんがいないんです。もともと病弱でして、丁度二年前くらいに亡くなってるんですよね。ご飯もその時から作るようになって、もうだいぶ上手くなってしまって……あははー、急に身の上話なんかしちゃって、ごめんなさい」
蘭は笑う。笑って茶を濁し、箸に手を伸ばした。
「みんなうれしそうに食べてくれますから、作るのも楽しくなっちゃうんです」
「じゃあ、俺もうれしそうに食べないと」
如月の言葉に、手を止め、静かに頭を下げた。
「すいません」
「どうしたんですか」
「実を言うと、アナタのお父さんを見て、なんとなく察してしまったんです。失礼な事ですけど、きっと、そうなんじゃないかって」
「ああ……うん。そっか」
「うちのお父さんも、あんな感じで泣いてしまう時期がありましたから……それに」
顔を上げて如月の目を真っ直ぐに見た。
急だったもので如月も慌てて姿勢を正し、蘭の言葉を遮る。
「優しいですね、鈴木さん」
「そ、そんなことないです。今、気が付きました。私自身が拠り所を、求めてしまっていたんです。今、ホッとしてしまいましたから。だから、ごめんなさい。探るような真似もして、ごめんなさい」
また頭を下げる。
「折角いろいろと気を遣ってもらったんだから、こちらから話すべきでした。申し訳ない」
「止してください。ずけずけと踏み入った私が悪いんですから」
「そんなことは」
湯気を挟み頭を下げる二人。
しばらくしてから、どちらからともなく顔を上げて、笑みを交わす。
「私は平気だ、私は大丈夫だ、って思っていても、案外ダメだったりするんですね。同い年の人にこんな話、あんまりできな……で……同い年……同い……泊め……た、たははー」
歯切れの悪い物言いだった。続けざまに、蘭は目の前の食事を掻きこむ。すぐにむせて耳を赤くした。
朝食をすませる。如月はニュースを確認しながらくつろいでいた。食器くらい洗う、とは言ったが、蘭は聞く耳を持たない。
「如月くんは、引っ越してきたばかりでしたよね」
「そうですけど」
「んふふー、じゃあ知らないですよね、この街の秘密」
台所で意味深げに鼻息を鳴らす。
丁度、食器洗いも済んで、二人分のコーヒーを注いで持ってくる。
「砂糖ほしい?」
「もらいます」
如月に砂糖を渡して、それからコーヒーに口を付けて、蘭はうーんと唸る。
「勿体ぶって、どうしたんですか」
「どうしようかなあ。でも、フヨーダイに行ったら分かることなんですよね」
「フヨーダイって、フヨーダイ高校?」
「うん。フヨーダイは結構古くからある学校で、何度か改築工事もされてる学校なんですよ。秘密って言うのは……まあ、楽しみにしているといいです」
「なんすか、それは」
「きっと出会って好きになると思います。如月くんなら出会えます。そんな感じがするんです」
によによと含み笑いをする蘭を見て、如月はコーヒーを一気にあおった。
同じ境遇であるからか、それとも、いままで出会ったことのないタイプの人であるからか。そもそも女子と話をしない如月はその夜も、布団の中で蘭のことを思い返す。
それから、焼肉屋までの道のりも思い返していた。
バイトというものも、初めての経験だ。




