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第七話「キサラギ」 3

3.

 赤黒い、どろどろとした水に浮いていた。水は流れ、どこかへと向かっている。

 目の前は暗闇で覆われ、身体は水に捕らわれ身動きが取れない、もとより動く気力などなかったわけだが。

 先ほどまで見ていた父の姿はどこにもなく、気づけば一人、水に流されていた。

 聞こえず見えず、しゃべらず思わず、空っぽのままどこかへと流される。こわれた玩具の兵隊みたいに、天に向かうわけでも地に向かうわけでもない。

 一でもあれば百でもある時間がすぎ、浮き沈みまた浮き、水と身体の境が無くなり始めたころ、天に光が差した。

 フォスフォラスのようで、ヘスペラスのような光は、眼前をあっという間に覆いつくす。



 重いまぶたを開き、目をこする。溜まっていた涙が周りに伸びてしまい、拭き取るために何度も何度も擦った。

「夢を見ていた。ここへ来る前の夢だ」

 目の周りを赤くしながら、富田と蘭の手を借りて、ふらりと立ち上がる。

 折れた足の痛みで、意識が完全に覚醒した。

「大丈夫かい?」

「あぁ。蘭も、いるのか」

「いちゃ悪いですか?」

「そういうわけじゃ……ってここは、電車の、中?」

「空飛ぶ電車に攫われたキミを追って、ここまできたの。当のキミの顔も忘れてしまったから、見つけるのも苦労したんだよ」

 富田があっかんべをする。

 舌には血がこびりついている。富田自身の血ではなく、他人の血。

「一人一人、指先からちょっと血を貰って調べたんだ。嫌でも身体は覚えてくれていたみたいで助かったよ」

「さらわれた人のことは、忘れるんだったな」

「今も朧気ではあるけどね」

 片方の腕が圧迫された。

 見れば、蘭が腕に力を込め、射抜くような眼差しを向けている。

「俺は覚えてるから」と声をかけても口をとがらせるだけだ。

 困りだした如月に助け船でも出すかのように、富田が尋ねる。

「この電車、止められるかい?」

 如月は頷いた。

「たぶん。いやきっと、そうだ。電車には必ず運転士がいる。その人に会って、止めてもらえばいい」

「てっきりキミか、キミの父親が生み出したものだとばかり思っていたから、その運転士っていうのはつまり、キミの」

「いや、もういない。父はもう。だから、きっと運転士は」

 窓から黒い影が伸び、三人に目掛けてうごめく。

 電車の揺れも激しくなり、体制が崩れた。

 如月は黒い影に足を取られ、引っぱられる。

 手すりを掴み、なんとかして堪えた。富田が影を切り裂くと鈍い音を立てて床に落ちた。咳込みながら、這ってでも前に進もうとした。

「私が影を払う。蘭、如月くんをお願い」

 立ち上がり、蘭の方を借りて、歩き出した。

 誰もいない車両に移り、また誰もいない車両へ。影は常に左右から襲い掛かり、富田が車内を跳ねて消していった。

「如月、さん?」

 蘭が真横でぼそぼそと話す。

「私、あなたのこと忘れちゃってるみたいで、すいません」

「それは、仕方ないことだ。そういう風に、運転士が作ったんだから」

「でも私はここに来た私を信じるし、あなたを信じる私を信じます。理由があったんです。思い出したら言わせてください。たくさん言いたいことがあったはずなんです」

「……俺もだ。たくさん、お礼が言いたい」

 運転室のある車両にたどり着く。


 取っ手に手をかけ、厚い扉を引く。

 運転室には小柄な運転士が一人、ハンドルを握るわけでもなく、ただじっと前を見て座っていた。肌の色は人のものではなく、薄灰色で透けていた。

 如月は運転士の隣にいき、顔の部分を一瞥してから、電車の行く先に目を向ける。

「父さんと同じになりたかったんだな。いいんだ。父さんはもう十分苦しんだ。二人とも、ゆっくり休んでくれ」

 運転士の口が、鯉のように、開閉した。

 音は聞こえないが、如月の口角が上がる。

「俺は俺で、たくさん助けられているから、その人たちのためにもがんばってみるよ」

 行く先には、十字が立つ。

 運転士は帽子を深くかぶり直して、眠るように背をもたせ掛けた。

 電車の窓の墨色が剥がれ落ち、白光に包まれたのは、十字に到着するよりも前だった。


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