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第六話「爪痕をなぞって」 2

2.

 じっと座ってどれくらいの時間が経ったのか。夜の帳が降り、月が出て、人ならざるものが活発になる時間に、富田は動けずにいた。じっと冷たい地べたにうずくまり、つかんだ腕に爪を立てる。

 天狗の発言を反芻する。時に口に出すと全身から力が抜けるものだから、爪を立てた。どろりと赤い血液が手を伝う。

 血を見れば、思い出す。最後に血を吸った人の顔が脳裏をよぎる。

 暗い夜の闇に包まれている中で、赤い血が見えたのは、傍に置いてあった発光物のおかげだった。なんだと考える暇もなく、発行物――スマートフォンから音が鳴る。

「おい吸血鬼。聞こえるか。こうして顔を合わせるのは初めてだな」

 機械的な音ではなく、肉声だと少し遅れて理解する。一腕分離れた場所に置かれたスマフォの画面には、黒髪の少女が腰に手を当てふんぞり返っていた。

 如月も珍妙な目覚まし時計を設定しているものだと、乾いた笑いを漏らす。

「なにを勘違いしてるか知らんが、トイレの花とでも言えば分かるか」

 名前を聞いて眉をひそめた。

 声と、古風な身形から勘づく。実際には声くらいしか聴いていないが、おそらく一昔前の学生であったことは想像に難くなかった。

「出て、こられたんだ」

「別に前々から出られてはいた。花子のやつが狼人間にびびって、しばらく大人しくしているみたいだから、私もこうして休暇を貰っているわけだ」

「あぁ、そういう。李さんと話してたことって、そのことなんだ。花とも接触してたなんて、不思議な人」

「別に不思議でも、特別でもない。あれはあれで不憫なやつだ。まぁやつの話はいい。吸血鬼。お前は行かないのか?」

「行くって、私には無理だ。その資格がないんだから」

「資格だァ? お前は警察じゃ無いからってひったくりを見逃すのか?」

「そんな簡単な話なら、どれだけよかっただろう。なにも考えず好き勝手に、人を襲うように、すればいいだけなんだから」

 目の奥の光が失せる。人を襲い、血を吸い、青マントと噂されていた日のことがまるで昨日の出来事のように想起される。

 腕からどろりとしたたる血は、人のものであり、同時に人を襲う吸血鬼のものでもあった。血は混ざれど、純然たる想いでその存在と向き合ってきた。時に吸血鬼として、時に人間として生きてきただけに、後悔は多い。

「面倒なやつだな」

「面倒って」

「そういや吸血鬼。お前なんで屋上に出られたんだ? 天文部は廃部になったって聞いたぞ。屋上は一部の生徒しか入れなかったが、今はそうじゃないのか」

「それは私がカギを持っているからで」

「なんだ。天文部はやっぱりなくなっていたのか」

「なくなったんだよ、私のせいで」

「あ? どういうことだ、それは」

「私が暴れていたせいで、夜間の活動が出来なくなったんだよ。そのまま縮小していって自然消滅ってわけ」

「バカを言え。星見なら夕方でも、なんなら昼にでも出来る。怠慢だ、怠慢」

「夜に見なくてなにが星見だよ。ほら、見てみなよ」

 鼻で笑いながら、虚ろな眼で天を仰いた。

「星……」

 星々は遠く彼方で点灯していた。

 明度と色合いで星が紡がれ、図絵が浮かび上がる。

 病院の窓から見るよりもずっと広い星の海でも、習ったことは忘れない。蘭の母を襲ってからは、ろくに見ようともしなかった。

 血だまりを涙が薄める。すぐに流していた血よりも、多くなる。

 泣いた。蘭の母に始めて襲い掛かった夜を思い出す。恐怖せず、受け入れられ、天文を教わり、最後には自分のためになりたいと残り僅かな命を受け取るよう、頼まれた。

「なにも泣くことはないだろ。アルコルが見えなくなったか?」

「まだ、先だけれど、天の川がよく見えるあの日、彼女の血を吸った。南十字でまた会えるって、ああ、見ることのできない星座を口にして」

 嗚咽交じりで、言葉になった。動悸が激しくなり、涙も止まらない。

「あまつさえ、様子を見に来た友だちにまで襲い掛かったんだ。もう誰の血も吸うものかと、暴れるものかと、身を改めて何が悪い」

「泣くな喚くな」

「私は、私のために、妖怪たちを鎮めていたけれど、それももう終わったんだよ。私はどうすればいい。いや、できないんだった、なにも」

「なんなんだお前は。やりたいことくらい好きにやりゃいいだろうが。少なくとも私、あいつはそういうやつだ。あんな化け物と退治して、ただで済むはずがないって分かっているはずなのに」

「彼は、如月くんは、行ったのか……なんて無謀な」

「やつにいなくなられたら困る。足がなくなるからな。なにをすればいいのか分からないなら、私が命令してやるよ」

 ふらりと自力で立ち上がった。

 はっきりとした意思は存在しない。命令されてのことだ。

 花を掴み、真っ黒な羽を広げ、飛び出した。バッタのように飛び跳ねて、木々をまたいでいく。

 飛んで跳ねて、山の奥へ奥へと身を投じ、富田は探した。自分よりも勇気ある者から聞かずにはいられなかった。

 幾度か飛び跳ねたとき、自由落下する物体を目にする。富田は一度地面に着地し、つま先から足の付け根に力を込めた。

 斜め上に目掛けて、打ち上げを失敗したロケットのように飛び出し、落下物を宙で捕まえ、胸に抱えた。羽ばたいて勢いを抑えたが、それでも木々の枝を折って、きりもみしながら地面と激突する。



 冨田は上体を起こし、着陸する際に手放した落下物を見つける。それは紛れもなく如月であった。まるで森の中を延々と引き面れでもしたかのような姿は、痛ましい。

「なんで、そんなになるまで」

 その声に反応して、如月は片方のまぶたを開いた。

 横たわったまま。頭を動かす。

「来た、のか……そうか、じゃあ、あとは任せた」

 声は掠れ、呼吸も上手くできていなかった。

 富田は這いずるようにして傍に寄る。如月の肩を掴んで、震える声で言った。

「李さんのときもそうだ。なぜ、そんな真似ができる。怖くはないの」

 如月はまぶたを閉じ、弱弱しく口を動かす。

「そうしなければならない、そう、思ったから。事故と向き合おうとして、奉仕しようとして、でも、それでも、違ったんだ。あなたに今、気づかされた。俺は、俺の存在を認めたかったし、認められたかったんだ」

 言い切ると、大きく息を吸い込んだ。乱れた呼吸を整えようとするがうまくいかないようで、顔から血の気が失せていく。

「おかしいよ。きみの言ってることとやってることは、矛盾している。そんなぼろぼろになって、生きているのが不思議なくらいで」

「矛盾は、してない。自分がそうあろうと決めたんだから、体が追い付かなくても、関係ない。あぁ、せめて彼女くらいは、俺が」

 折れていない方の腕を伸ばして、富田の手を掴む。

「あいつを倒せないというのなら、俺の血を、吸えばいい。血を吸って腹も膨れれば、天狗の鼻くらいへし折れるんだろう」

「血は力の源だけど。もう、無茶苦茶だよ。自分がいま、どんな身体なのか、理解してないの?」

「蘭は、言っていた。蘭の母は、笑ってたって。嬉しそうな顔をしていたって。蘭はずっと、あなたを……だから、頼む……」

 糸が切れた人形のように、腕が落ちる。息はしているが、意識はない。

 富田はそっとその体を横向きにして、花の入っているスマフォを傍に置く。

 涙をぬぐい、胸に手を置いた。

「あの人で最後にしたはずなのに、きみが悪いんだからね。もし、きみまでいなくなったら恨むから。だからもう少しの間だけ、がんばって」

 聞こえていなくとも、声に出した。

 如月の手を取り、すでに切り開かれている傷跡に口元を近づけ、舌を這わせた。

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