第六話「爪痕をなぞって」 1
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冨田はうなだれ、しりもちを付いている。
覇気のない姿を他所に、如月は天狗の飛んで行った方を見やる。
山は燃えるような夕日に照らされ、木々がざわめき、うなりを上げていた。天狗の影はもう見えない。
暗くなれば、散策も難しくなる。
如月は富田の方を見向きもせず、棒のようになった足を奮い立たせるように、口を開く。
「俺は行く。富田さん。あなたに何があったか知らないけど、俺はいかなくちゃいけない」
「……あぁ。好きに、すればいい」
「あなたはそこで、じっと待っているのか」
「知らない、知るか。あの天狗だって、なにか目的があるんだろうよ。無為に人を攫うとも思えない」
「あいつがさらった人は、俺にとって恩人で、この街で最初に出来た友だちだ。絶対に見過ごせるものか。あなたはどうなんだ」
「私はもう、わからない……わからないよ。どうすればいい? 昔の私は間違ってた。だから少しでも皆のためになろうとして、でもそんな資格ないんだって、そんなの分かってた。彼女を守る資格も、何もないんだって」
「……そう。俺は夜目も効かないから、もう行くよ」
如月はポケットから伝わる声を聞いて、言われたとおりに富田の傍にスマフォを置いた。
もはや感覚のない、誰のものか分からない足を急かす。坂を遠回りが面倒になり、山に直進し始める。家路を縫い、コンクリを蹴って転びそうになりながらも、林の中に飛び込んだ。
道など分からない。この街に来てから、こんなことばかりだ。知らない街を奔走し、あるときは逃げ、ある時は追って、一寸先も見えない中を突き進む。戻れる場所などない。
奥へ奥へ行くほど視界が悪くなっていく。土の臭いも濃くなり、風の音も止む。もはや獣道ですらない斜面を登り、はがれた木の幹に服や皮膚を割かれながら、猫背でも前へ足を出した。
深く呼吸をすれば、粉のようなものが肺に入り、むせる。どこに行けばいいのか分からないが、決して止まることはしない。今こそ奉仕の時だと、拳を握りしめる。
冨田と蘭の間にある亀裂に干渉しようなど毛頭なくとも、蘭には恩義を感じている。確かに救われていたのだ。それも見ず知らずの人間に対して向けた真心に比べれば、如月の行動は善行為の足元にすら及ばない。
この行為は、如月にとって奉仕以外のなにものでもなかった。足を踏み外して、崖を転がり落ちても意地が身体を動かす。起き上がれば、そこは平地で明らかに人の手が加わったかのように、空き地が形成されていた。
地を這い、黒い羽を見つける。
「勇気のそれとは違うな。無謀、蛮勇、考えなし。して、吸血鬼はどうした?」
声が空から降ってくる。ちょうど平地に収まる大きさの翼を広げ、天狗が現れた。
天狗が地に足をつけると、翼が軋みながら折りたたまれる。
「着陸するときに羽が木に引っかかり痛くてな。そのために整地したわけだが、どういうわけか、お前ひとりで行き着いた。なに整地した場所は他にもある。しかしそれでも、お前は行き着いた。偶然か、それとも怪奇の成す業か」
天狗の面の赤い鼻をうんと伸ばし、如月を見下ろす。
「なにやら物言いたげな面だな。私ばかりでは不公平だ。言葉や対話は、人の英知の結晶に他ならない。話してみよ」
目を凝らし、霞む視界で天狗の姿を捕らえる。せめて膝を付いて、少しでも上体を起こした。
「さっき攫った、人がいるだろ。返してほしい」
「さっきの女子か。すまんがそれはできん。吸血鬼のためにもな」
「吸血鬼のため……?」
「とにもかくにも、吸血鬼にはあのままでいてもらっては困るのでな」
「二人を仲直りさせるために気ぶりたい、だから返せない、そういうわけか」
「そう捉えてもらって構わん」
「残念だけど、富田さんは来れそうになかった。だから腕づくでも俺が奪い取る」
「さっきの吸血鬼を見ていなかったのか? 人風情が私に敵うわけもない。もっとも、人であればの話だがな」
「もう聞き飽きたよ、それ」
例え骨が砕けようとも、突き進む。如月の意思は火で打った刀身のように、固く熱を持っていた。拳を振りかぶり、よろけながらいざ駆け寄る。
羽ばたきで富田が押さえつけられた様は、目の前で見ていた。狼人間の巨体を蹴り飛ばせる者を、天狗は無力化できるのだ。
知っていても食い下がらなければならなかった。喉から血が出るほど大きく叫び、鼓舞する。手足の感覚が麻痺して、足が何度も絡まりそうになっても、前進だけはやめない。
天狗までの距離は短い。ばちばちと目に火花を散らし、声にならない叫びを上げながら突っ込んでいく様は獣と呼べる。
「心意気やよし」
天狗は団扇を懐から取り出して、下から振り上げた。間をおいて前方に強風が吹き、土埃や木の葉を巻き込む。
つむじ風によく似ているが、その風は周りの木々がのけ反るほどで、如月の体も布切れ一枚のように吹き飛んでしまう。
後方の木に叩きつけられ、受け身を取ることも出来ずに地面へと落ちた。口内には鉄の味が広がる。息が詰まって咳込み、血を吐き出し、また喉奥からの出血で咳をする。
肺も痙攣してきた。視界はぼうとする。
感覚の無い手足を杖にして、闇の中、それでも立ち上がった。
「何度やっても同じこと」
天狗は走ってくる如月を同じように吹き飛ばす。地面を転がり、木にぶつかり、果ては森の奥に飛ばされても、如月は戻ってきた。
割れた唇から血を流し、片方のまぶたが大きく腫れても、繰り返し繰り返し、不格好な姿で走り続けた。片腕が逆の方向に曲がっても、目を血走らせて襲い掛かる。
「もうよせ。呆れた。見るに堪えん。なぜそこまでする」
如月が目の前で転び、動かなくなったところで、天狗もたまらず手を下ろす。
切り株のようにうずくまる如月は、低くうめいた。
「蘭とおじさんには、些細なことだったかもしれない。でも、俺は救われたんだ。確かに救われたんだ。だから、恩には、報いるだけだ」
「お前は救われなどしない。救われてはならないのだろう? 父親が何十人もの命を奪ったのだ。犠牲になった者の親族たちを思えば、お前も本来奪われる立場でなければならないはずだろう」
「母さんはそれで、首を吊ったんだ。俺は、怖くてできなかった。でもこうして、救われて、その恩に報いることができるんだから、結果的によかったんだ」
「よく言った。なれば、恨んでくれるなよ。あとは――」
如月の体が、急速に空へ上る。
天狗が前動作を一切見せることなく、その場に直立したまま、まるでボールでも蹴とばすかのようにしてみせたのだ。
雲にも届きそうな勢いで、真上へ蹴飛ばされた如月は、一切の自由を剥奪されて落ちていくのみ。
「──あとは、天運に任せるとしよう」
天狗は林の奥へと姿を隠した。
如月の体の中で混ざり合ったありとあらゆる感覚が蘇り、自由落下を受け入れる。為す術などない。上空から見える林の中の、ぽっかりと開いた空間に、吸い込まれていった。
ふいに聞こえてきた踏切の音がだんだんと大きく耳の中をこだまする。線路が無いのに幾重にも並ぶ車輪の音、地面が無いのに足を伝う振動、それらは幻などではなく、如月の体に刻まれていった。
絶賛落下中の身であり、終わることを悟ったからこそ、最後に見たかったものが見られたのかもしれない。幼い日の思い出は、母と手をつなぎ、父の仕事を見守るものだった。
地面はすぐそこだ。




