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第一話「幸わう町の花々」 0 - 1

0.

 くるりくるりと車輪を回し、春の日に向かって走る電車のなかの、中年の男の声は今にも、掻き消えそうであった。

「私は小説家でもなければ、詩人でもない。シャレの一つも言えない、ただ鉄の箱を動かしていたバカな人間だ。それでも真面目に生きてきたつもりだ。母さんもそうだった」

 頬にしわを寄せ、渋い顔で髭をなぞる。

 その声を聞き取れたのは、男の対面に座る青年だけだ。元より閑散とした車内であった。

 青年は口を開かずにいる。トンネルを抜けて目的の駅に着くまで、男の鋼色の目を見続け、ずっと傍に座っていた。

 男の傍には、他に誰もいない。


1.

 二人は降車客と共に電車を降りると、端の錆びた駅名標に出迎えられた。

 掃除の行き届いたホームの隅ではハトがたむろしており、それらは客を見るなり、まるで歓迎するかのように羽を広げる。

 二人の内の片方――青年は、騒ぐハトを物珍しそうに眺めた。

 もう片方――中年の男は時刻表を確認するなり、おもむろに歩き出した。ハトを見ていた青年も口を開かず、着いていく。

 二人の面立ちは似ていた。ハトを見ていた方は若く、目元にはうっすらと、くまが浮かんでいた。もう一方は背が高く白髪混じりの頭が目立つ。



 改札口を抜けた二人の先に、待ち受けていたのは摩天楼みたいに洒落た風景ではなく、だだっ広いバス亭とタクシー乗り場、それから駐車場。

 左手先には銀行、右手先には高校がある。

 高校のグラウンドでは野球部が練習をしており、その喧騒が二人の耳に届く。

「そういえば、部活は何もしていないのか?」

 中年の男が聞くと、ようやく青年も口を開く。

「していないよ」

「そうか。父さんは昔、野球をしていたんだよ。って前に話したことあったか?」

「初耳」

「そうか。そうか」

 短い会話を終え、二人は足を止めずに、キャリーケースを転がした。



 ゆるい起伏道や細道を歩けば、新たな住まいが出迎えてくれる。小さい二階建ての一軒家で、背が高い男の実家である。

 ドアを開けたが、男は淀んだ空気に足を止めた。

「上がらないのか」

「ああ」

 青年の言葉に、動かされる。

 隅に埃が溜まっている廊下を行き、居間に着いた。

「お前がまだ幼稚園にいたころ、何度か連れてきたことがあったな」

「小学生の時もきたことあるよ」

「そうだったか。歳取ると物忘れがひどくてな」

「歳って、そんなでもないでしょ」

 荷物を置いて、それから家中の窓を開け終わった後、居間に戻ってくる。

 男は腰を下ろし、茶を飲みながら言った。青年の方を見ずに、その手はガラスのコップの水面を、ゆらゆらと揺らしている。

「やけに綺麗だね。じいちゃんばあちゃんが死んだあと、ずっとこのままだったの」

 コップの中で波立つ水の方を見ながら、青年は言った。

「貸家にしてたんだ。売ってしまうには、惜しかった」

「ふーん、そう。ガス使えるなら、いまから買い物行くんだけど」

 青年はテレビを点け、時刻を確認した。物静かだった部屋に、郷土料理を紹介する番組の軽快なBGMが響く。

「今日は外食にしよう。満、疲れてるだろう」

 居間の窓からは夕日の光が差し込んでいた。光は男の足元を照らす。



 青年――如月満は了承してから二階に上がり、空いている部屋でキャリーケースの中身を広げた。

 寝袋、衣類、本、写真立て、ケータイをざっと取り出す。

 あまり持ち物はない。新天地に向けての、意気込みのようなものだった。

 二階は一階よりも明るい。

 部屋は鮮明な茜色で彩られ、机やタンスも燃えているかのようだ。

 如月は写真立てを机の端に置いた。それからほのかに暖かい床で、しばらく横になる。暗くなれば、男――如月満の父が、起こしに来るはずだ。


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