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第四話「月下の統率」 2

2.

 如月の足は重い。

 ――そう。知らないわけがない。

 先ほどの生徒たちの話を聞いて、否が応でも思い返してしまう。家の前に居座る記者報道陣、送り付けられる怨念籠った手紙、そこかしこから聞こえる陰口。

 あらゆるものをかなぐり捨てて、新たな一歩を踏み出したはずだった。そう思っていたのは如月だけなのかもしれない。母は戻らず、父はまだ酒におぼれている。

 何食わぬ顔で接してくれているが、クラスメイトが腹に何を抱えているのか、如月に知る術も権利もないのだ。

 呆けたように口を開けて、いつのまにか家の近くまで来ていた。点滅する電灯が一つ二つ、如月ともう一人を暗闇から浮かび上がらせる。

 もう一人。その存在に、如月が気付く。

 ただスーツを着た男のサラリーマンで、特段注視することもなかった。詰まりに詰まった頭の中に無駄な情報が入るものか。

 そのためか、自分だけが歩みを進めているとは露知らず、サラリーマンが険しい顔で如月を凝視していたとも思えなかった。

 月は出ている。綺麗な円を描く月だった。

「臭う……臭うぞ……」

 サラリーマンが指先を向ける。

 如月は足を止めた。後ろには誰もおらず、明らかに如月を指さしている。

 まだ二人の間には距離が開いていた。

「お前……なのか。そうと言ってくれ。うぅ薬が、月が。おかしいおかしいこんな、あぁがあああぁ……!」

 サラリーマンは苦しむように自身の肩を抱いて震えていた。

 如月は流石に気味悪がり、足を一歩引いて、ほんの少し瞬きをする。その短い時間に先ほどまで震えていたサラリーマンの上半身が、風船のように膨張した。

 あっという間に逆三角形の体躯を作る。

 如月の頭の中が再度塗り替えられた。目の前の男の姿に目を奪われる。

 四肢からは鋭い爪が伸び、双腕は道端に立つ電柱柱のように太い。闇夜との境界線が分からないほど黒く毛深く、その巨大さも合わさり、距離感が狂う。

 闇夜に溶ける毛深い塊は、高さ十メートルにも及ぶ跳躍を披露してみせた。如月の背後に着地し、地表をひっくり返す。

 着地の衝撃で如月は宙へと放り出される。そのときに、電灯に照らされた毛深い塊の頭部を見た。頭部も毛深く、角のようにピンと生えた耳。長い筒状の口部からは牙が顔をのぞかせていた。

 鋭く光る赤い瞳と黄色い瞳孔は、獲物を狩る獣そのものである、

 逆三角の体躯は成人男性の三倍近くある。細い足にも隆々とした筋肉が張り付いていて、重量のある上半身を支えていた。

 露わになった全身の毛皮と鋭利で長い爪牙は、ヒトならざるモノであることを如実に語る。

「ウゥゥ……!」

 視線が交差した。

 サラリーマンだった者が肩と、それから太い腕を内側に丸める。

 しばらく硬直した後、勢いよく腕を解き放ち、これでもかと背を反り曲げた。

「アオオォォォォン!!!!」

 喉仏を振動させて放つ野太い遠吠えは、隣の山にまで届く。

 得物を見つけ、嬉々としいるかのようだ。

 遠吠えで怯み、指の一つも動かせなかった如月は、目だけ見開き、現れた化け物の姿をとらえる。

 その姿は、まさに狼人間そのもの。


 都市伝説がまたしても、如月の前に姿を現した。


 如月は狼人間から目を離し、走り出す。がむしゃらだった。腕を振り回し、無様な格好で少しでも遠くへ遠くへ逃げようとする。先ほどの跳躍は頭にない。襲われる心当たりがなくても、訳が分からず逃げた。

 後ろを見ず、気づけば坂を上り、ガードレールを飛び越えて暗い林の中へ駆け込む。後ろからは草木をかき分ける音がして、足を急かされる。

 小石が散乱し、木の根が飛び出す不安定な地面だ。明かりもろくに届かない林の中で、木々を避けるので手一杯で足を崩すのも時間の問題だった。つまずき転がる。

 衝撃に耐えながらでも、這いつくばって木陰に隠れた。そのまま窒息してしまうのではないかと思えるほど、肺の動きを止めて小刻みに体を震わせる。

 如月からは何も見えないが、狼人間は夜目が効く。鼻も耳も、人よりも優れている。ざっざっと土を踏み鳴らし、一度止まっては歩き出し、また止まってはを繰り返す。

 如月の肺は今にも爆ぜてしまいそうだ。自らの首に爪を立てる。必死だった。着実に近づいてくる足音に身を震わせながら、顔を青ざめる。すぐ後ろで止まったような気がした。

 勢いよく飛び出そうと首から手を離した時だ。足音がどこかへ行き、次第に遠くなった。

 如月はせき込んで、それから大きく息を吸った。吐き気を催しすぐに静かに吐いて、不整脈を少しで落ち着けようとする。

 膝をつき、朦朧とする意識が富田に襲われた時の記憶を呼び起こす。予期せぬ来訪者に対する確かな拒絶が、ここ数日で何度も続いていた。

 目を瞑り、少しでも体力を回復した後、とりあえずこの場を離れようとする。

 考えることは家でもできる。

 いつのまにか、暗い林を引き裂くように月明かりが一筋、差し込んでいた。注視すればほこりが見えるほど眩く伸びるその光は、道を照らして迷える者を導く。

 天辺には満月が見え、もう夜も更けてきた頃。

 如月は口を開けて佇む。

 光に浮かび上がるのは、黒い獣だ。四足になり牙を煌かせた狼男がそこにはいた。

 もはや眼前の距離に迫っている。飛び掛かられて、巨大な手のひらで押さえつけられるのは必至だった。幸か不幸か頭をぶつけることなく、倒れる。

「お前か、おまえかお前かお前かお前かお前かッ」

 狼人間は赤い瞳をぎらつかせながら言葉を放つ。

 手を引きはがして脱出しようと暴れながら、如月は答えた。富田のときと同じなのだ、と察しは付いた。

「違う、俺じゃない。俺は人さらいなんか、していない」

「じゃあ誰だ。お前じゃなければ誰なんだ。もう一人調べたが違うっ。お前でもない。ならお前から食ってもう一人も食って、お、オレハああああがあああああああああ!!」

 狼人間はもう片方の腕で頭を抱える。

 好機と見て、如月は思い切り足を振り上げる。手が浮き上がり、隙間から脱出してみせた。あとは走るだけだ。出来るだけ木の多い方へ駆け出した。

 狼人間も跳び出す。今度こそ、鋭い爪で体を突いてしまうほどの勢いで迫る。

 爪が軌道を変えた。狼人間でも、如月の力でもない。また違う者が空から降ってきて襲撃を阻害したのだ。

 爪をはじき、一蹴りで狼人間を林の奥に飛ばす。

 如月は振り返り足を止める。第三者の介入には驚くほど冷静でいられた。より広がった天井から差す明かりで、救援者の正体をすぐに把握できたからだ。

 赤い瞳は宝石のようで月光を返し銀色にまで見える肌。学生服の背から伸びる蝙蝠の羽を、音もなく畳んだ。

 富田伊佐美だった。普段と容姿が違うが、一度は見ている。

 トイレの化け物や狼人間のように人から外れ、学生服でありながらも妖艶さを纏う。富田は如月を一瞥する。

「やっぱり、君なのかもしれない」

 暗闇の奥で物音がした。

 狼人間が立ち上がり、明かりの下に跳んでくる。

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