第四話「月下の統率」 1
1.
言われた通り、じっとしていた。ただ立っていたのは、床が気になったからだ。
そこは紛れもないトイレであった。
鏡を通過してやってきた瓜二つの景色を冷静に受け入れる。以前はいなかった、少女を除いてだが。
少女は和装だ。まるで半世紀前からタイムスリップでもしてきたかのような姿である。
奇妙な姿には思わず目を奪われる。
「なんだ。もう少し待て」
少女の言葉で、如月は視線をよそに向ける。
「キミは、その。なんだ。人、なのか」
少女の変わった特徴といえば服装くらいで、他は何変哲もない、人間である。先ほど見たおよそ人間という枠から外れた姿のモノとは違う。
鼻息を吐き、少女は口を開く。
「人間だった、元な。逆に聞くがこんなところにいるやつが人間だと思ったのか?」
「そうじゃない。だったらなんで、助けてくれたんだ」
「そんなの決まってる。お前が襲われたら……いや、おかしいだろうお前。おかしな奴だお前。ははっ。なんで助けてくれた? それこそ、お前の胸に聞いてみることだ。それ花子が寝たぞ。お帰りだ」
少女の細い指が鏡を突いた。如月の尻を蹴り、強引に鏡を通過させる。
今度は綺麗に着地して、如月は鏡に向き直る。
鏡には、わずかにぼやけた人影が映し出されていた。
「ほら早くシロ。もう来るナよ」
如月はトイレの奥の方を見やり、誰もいないことを確認すると足早に去る。中庭の灯りを頼りに校舎から出た。グラウンドではまだ野球部が盛んに練習をしている。
とにかく影だけは出来るだけ避けて、家路を急ぐ。少女もそうだが、なにより花子という人外の存在が忘れられずにいた。地べたに尻もちをついてはいたが、その顔に着いたおそらく目玉だと言える黒々しい球体と、割けるほど開いた真っ赤な口は、おぞましいの一言に尽きる。
今日のバイトは休みだとか、父親は先に帰っているかだとか、考える余裕はなく、家の戸を素早く開閉して階段を駆け上がり、布団に飛び込む。
頭を抱え込み、必死で眠ろうとした。目をつむり、空腹すら忘れ、朝が来るのを待った。
結局一睡も出来ずに、登校の時間となる。
「なんだか、顔色が悪いね」
心配そうに顔を覗くのは、富田だった。
よどみのない青い瞳にどきりとする。
「いやちょっと、寝不足で」
「あー……うん。そっか。無理はしないようにね」
妙な気を使われる。先日の新聞とメッセージが原因だと見たようだ。
如月は苦笑いで答えた。
教室につくと他の生徒に挨拶され、それにほっとして、席に着くなり目を閉じる。
ぐるぐると考えが巡る中で、とりあえずトイレにだけはなるべく近づかないように心がけることにした。
「おっす。眠いのか?」
声をかけられ、横を向く。
背の高い船山が見下ろすように立っていた。
「うん、ちょっと」
そう言ってわざとらしくあくびをする。
釣られるように船山もあくびを返した。
「俺もゲームで夜更かししてよぉ。如月もか?」
「あといろいろやってたら、うん」
「まだ転校してきたばっかだもんな。モノの整理とかあるか。バイトもしてたんだっけ?」
「駅前近くの焼き肉屋で、ですね。なんかいきなりそこの店員に誘われちゃって」
「ふーん。まぁ無理すんなよ。暇な俺が言えた義理じゃないけどな」
船山は自分の席に戻っていく。席につくなり、どこからともなく安部がやってきて船山に元気よく話しかけた。
船山を見て、如月は昨日のことを思い出した。
――新聞の保管室。
なぜカギを持っていたのだろう、と。
ほんの少し意識して、如月は船山の後をつけた。後をつけると言っても同じ教室で同じ授業を受けて、一緒に昼食を取るのだから普段と変わらない。
昼食の最中に、船山が席を外したときに富田が言う。
「なにか気になることでも?」
心を見透かすように直視する。
バレていたようだ。
「えっ。いや大したことじゃないんですけど」
「顔怖いからねぇ船山は」
横で首をかしげる安部をよそに話は続く。
「そういうわけでもないんですけど……船山くんってなにか部活とか、あっ、生徒会役員って部活できるんですかね」
「出来なくはないけど。直接聞けばいいんじゃって、あれ? そういえば船山って部活やってたような」
安部がうんうんと頷いた。
「前はねー、やってたんだよ。りくじょー」
「だよね。クラス違ったけど、確か高一のときはやってたような記憶が私にもある」
「うん。でもね、やめちゃったんだ。なんでだろうね」
安部は無表情で手に持ったおにぎりをむさぼる。
「生徒会の仕事に集中できるなら、それに越したことはないんだろうけど。ねぇ宮子?」
「うう、この間はさぼってたんじゃないよー。忘れちゃってたんだよう」
「余計悪いっ。会長も会長でこっちに仕事持ってくるし、しゃんとしてよ生徒会」
叱咤に、安部はすっぱい梅干しでも食べたかのような顔をする。
生徒会と風紀委員の間にも色々あるようだ。
船山が戻ってきたのは丁度授業が始まるときで、結局聞きはしなかった。
放課後は忍び足で新聞の保管室に向かう。
保管室の扉は空いていた。元から昼間は生徒のために開放されていて、下校時間が過ぎたため教師が閉めたのかもしれなかった。
いけないことをしているわけでもないのに、周囲に人がいないことを確認してから如月は保管室に入った。
乱雑に積み上げられた新聞をあさる。昨日とは別のスペースに置かれた新聞の山の中から、まとめて手に取り調べていった。
いつのまにか眠っていて、日が半分沈みかけていた。勢いよく起き上がると、体制を崩して前に積まれた新聞の山に突っ込む。
幸い新聞が崩れることはなかった。
ろくに見えない暗い保管室の中から出る。手にざらざらとした感触を覚え、荷物を取りに教室へ戻ろうとする足を止めた。
一枚の新聞だった。意識を失う前か、新聞に顔を突っ込んだときか定かではないが、いつのまにか持ってきてしまったようだ。
保管室に戻る前に、手にしていた新聞を開く。
「あ……」
紙面は古く文字もかすんでしまっているが、確かにトイレの少女のことが書かれていた。
さっと読んでから新聞を保管室に戻す。
今日はもう夜の陰りが出てきてしまっているので一旦出直すことにした。これは如月の勘であったが、トイレで襲ってきた異形が暗闇から現れたためである。
教室に鞄を取りに戻るその途中。廊下を行く生徒二人がいた。
如月の知らない男子生徒だ。
「お前あの新聞見た? 昇降口の新聞」
如月は反射的に空き教室の戸の陰に隠れた。息を隠して、会話に耳を傾ける。
「見たけど。なんだったんだろうなアレ」
「なにってそんなの決まってるだろ。いるんだろウチの学校に。列車事故の関係者が」
「あー。なる。いやでも陰湿すぎるだろ」
「そうだけどよ。正体不明の新聞部がわざわざ半年も前のことを記事にするなんて、おかしいなって思って。ほら、たくさん死んだみたいじゃん。その恨みつらみとか」
「ファンなの? どうでもいいけど、そういやいたな、転校生、二年に」
声がだんだんと遠ざかっていって聞こえなくなる。それまでじっと身を潜めていた。




