プロローグ
女は血に濡れたマントを翻し、潮風に傷を曝す。
女は顔をしかめた。
傷の奥深くにまで風が染み入る。
八重歯をむき出しにし、空を仰ぐ。
女は小波に耳を傾け、風上を一瞥してからその場を去る。
屋根を跨ぎ、線路を跨ぎ、ノミのように飛ぶ。それから闇の中を一人歩く男の前へ、軽い音と共に降り立った。
夜目の効く女とは違い、男の方はその容姿を完全に捉えきれない。
男は歩みを止めて緊張していたが、直に全身を脱力させて、自分の足元を見ては気の抜けるような声で言う。
「いつか来るとは思っていたよ」
女は黙ったまま、その言葉に耳を貸した。
「キミが噂のテングというやつか。いや、それとも別の、何かかい。キミがこの街を守っているんだね」
しばらく黙っていた女が口を開く。
「知っているのならば。知っているのならば、なぜ足を踏み入れた。ここはそういう土地だ。お前のような人間が来てはならない土地だ」
「察しが良い。そこまで知っているのなら、気持ちも――私の気持ちも汲んではくれないだろうか。もう少しだけがんばるという気持ちを」
「それは、さぞ辛いことだろう」
「辛いなんて当たり前だよ。むしろ、辛いことを感謝しなければならない」
「……その時になったのならまた来ます。まだアナタは、正気でいるから。その時になるまではわたしも、アナタには手は出さないと約束します」
女は闇の中に消えていく。
「キミも好きでこんなことをしているわけでもないだろうに……もう、いないか」
男が顔を上げれば、そこには闇が広がるばかり。




