47 ドロシーの婚約者(回想)
「ユーフェミア様! お聞きになりましたか。
わたくしの婚約者、バルミーに」
「だめよ」
私はピシャリと言い放った。
その声は凍えている。
凍りついて、色を失っている。
頬を染め、相談をしてきたドロシーは、その様子を見て戸惑いを浮かべた。
「だって、……だってはユーフェミア様の領地の方でしよう。実績を重ねられて、男爵になるともお聞きいたしましたわ。近しいあの方の傍ならば、王妃になった後も、ユーフェミア様をお助けできます」
「だめ」
「ですけれど」
「あの男だけは」
そう言うと、彼女は少し背を反らせた。
次に目を合わせたときには、その目に侮蔑の色が乗っていた。
失敗した。
そう思うと同時に、向けられた悪意に、反射的に警戒態勢に入る。どれだけの人たちが、私に向けた敬意を、好意を、侮蔑に変えたことだろう。嘲笑に移ろう表情を探って、避難しなければ。
――だって、だってもう。
「何? 何かおっしゃりたいことでもありますの」
「いいえ――ユーフェミア様は……バルミー、をお好きですの? でしたら」
「誰があのような男」
吐き捨てる。本当に、お腹のそこから嫌悪感がせり上がる。
私の唯一は、ハイド様だ。他の男などどうでもいい。
ましてや、あの男は――。
「ドロシー、貴女には失望したわ」
「ゆ、ユーフェミア様!」
引き止めたのは一瞬。彼女は目をつむると、去っていく私に続くこともなくその場に立っている。
一本の線が引かれたように、私たちはすれ違う。
そして世界は切り替わる。
窓越しに感じられる日差しに、私の手の先は持ったバケツの重さに耐えられずに震えている。バケツに一杯の水を、息を切らしながら窓から流す。
下で「きゃっ」と少女の声と、追従して駆け寄る男たちの声。
「大丈夫かアリア!」
「誰がこんなことを」
「とにかく、こんな状態じゃ風邪引いちゃう! アタシと一緒に保健室に行きましょう」
「……ありがとう、皆」
一人で靴箱に仕掛けたのはバラの棘。嫌いだわ、とつぶやくと、けっきょく自分の指にその棘が刺さった。
結局彼女はそれに気がつく。――意味のない嫌がらせ。
雪の見える温室では、男女の笑い声が響く。
ああ、知ってるわ、あれはハイド様と――あの女。
ドレスにワインを引っ掛けたのに、結局はハイド様の傍にいたあの女。
苛立ちを積み重ねて、自分の足先の感覚すらもわからない。
「ユーフェミア様も、けっきょくご自身の周りに、色男をはべらせたいのだわ。
ただ、羨ましいだけなのだわ」
ドロシーが、教室の外で誰かに言った。
違う。
「だから、私とバルミー様の婚約をお祝いしてくださらなかったの」
バルミー、その頬にかかる髪が嫌い。
媚びへつらいながらも、私を嗤う口元が嫌い。
だって。
あの男はザリガの子どもなのだ。
長男なのだ。
あの、懲罰のための監禁部屋にも、何度も顔を見せた。
罰を受けた私を、ケラケラと隣の部屋で笑った。
言えない、言っても分かってもらえなかった。
それとも、と私は昏い思考を巡らせる。
あの悪意は、不出来な私だけに向くのだろうか。
ザリガにも子どもがあり、親であるのなら。父親に任されたあの町で、ザリガの信頼は厚い。功績を立て、男爵になるかもしれないと、確かに報告を聞いた。嬉しそうなお父様。私が優秀な成績をとっても、微笑みもせず目もくれなかったお父様。
――私だけ?
ドロシーは大丈夫だわ。あの子には魔法があるもの。
あんなにすごい、魔法が使えるのだもの。
それは安堵でもあり、屈辱でもあった。魔力のない私にだけ、親に借りた加護で、それだけで。そう罵るあの男の、歪んだ笑みがよぎる。同時に甘やかされたドロシーの、バルミーを想う惚けた顔を思い出す。
そしてその顔は、次に私に会った時には、侮蔑を隠すこともなくなっていた。廊下で、すれ違おうとした私を引き止めた。ああ、この子は私を引き止められるまで自信をつけたのだ。付き従う時も小声で伺ったドロシーが、少し後ろを歩くように、だけれど私はそれが嫌だから隣に並ぶように言って――言ったけれど。
「バルミーに、シュトレン家の懲罰について聞きました」
ああ、ついに知ってしまった。私は強く手を握りしめる。お腹に力を込める。これからどのような言葉が来ても、いつもどおり耐えられるように、体にいっぱい力を込める。
「前から思っていましたけれど、子どものようなのね、ユーフェミア様は。たかだか部屋に閉じ込められるだけなのに、いつも不機嫌になるって、バルミーが心配していましたわ。少々の暗闇でしょう? そんなものを怖がっては、有事の時に動くことができないわ」
たかだか、少々の、そんなもの、彼女はその度に笑みを深くする。ああ、バルミーと同じ顔をするようになったのね。同じことを、言うようになったのね。
ならば私も、立ち向かわなければならない。
「前々から思ってましたのよ、幼いのはどちらの方かしら?」
「……な」
「ドロシー、貴女頭を冷やした方がいいわ。そうすれば少々はご婚姻前に淑女に近づくのではなくて?」
ふん、と鼻で笑い扇を広げて私は歩く。
休憩用の部屋に入り、紅茶が出される。人がいないのを確認して、メイドのクランシーの前でティーカップを割った。
「ふざけないで、どこが、どこが……!」
小さくつぶやくその言葉は、きっとクランシーにも聞こえていただろう。
私のイライラとする、その表情を見るたびに、クランシーが無表情のまま、私に背を向けるのが分かる。
行かないで。
私を置いて、行かないで。
それを口に出すには、私たちは遠すぎた。
従者と、主人。
弱音を見せれば、また誰かいなくなる。
嘲りをその唇に乗せ、噂話に目線が滑る。
行かないで。
「何してるの! 早く片付けて」
その言葉の代わりに、苛立った声のままクランシーに命令した。
悲鳴のような、ヒステリックな声は、自分で分かるくらい醜かった。
誰かに聞かれていないかと、周囲を探る。怯えている、ただ――ただ追い詰められていく。
「クランシー!」
「――はい、承知しております。お嬢様」
思えばそれは、側にいてって、言う代わりに。
でもきっと、他の人から見れば、ただの我侭女だったんだろう。
悪役が、悪役たる所以だったのだろう。
お茶が跳ね返る。
同時に世界が歪み、溶けて形をなくす。
クランシーの顔も見えなくなり、自身の手のひらも認識できなくなる。
そう。
切り替わる世界。記憶。
これは夢だ。
過去の夢。
だから意味なんてない。
ここで縋っても。
叫んでも。
泣いても。
「朝だよ! 寝てるやつはいないかい!」
「いないかい!」
カンカンカンカン
金属音が鳴り響く。
ドタドタと、誰かが急いで食堂に向かう音がする。
目を開けて、目に入るのは埃がうっすらとのこる天井。横を向くと、建物とカーテンに遮られながらも朝の日差しが頬にあたっているのが分かった。
「朝」
もう、そんな時間か。
春先の布団の中はあたたかい。フカフカとはいかないのが、すこし悲しいところ。何と言っても羽毛ではなくワタとクズ布が詰めてあるので、それは仕方ない。
ザリザリとした布の感覚も、最近では慣れてきた。
「ああああ」
まあ、それを二度寝の理由にしたら、私はここにいられない。
大きく声を出して、起き上がった。
伸びをする。体はバキバキと音を立てる。折れてるのか、って思うくらい。
深呼吸をして、手を握って、開く。
朝の運動は、各部の筋を伸ばして、屈伸背筋腕回し。
腕立て伏せに――と続けようとしてやめた。やり過ぎ。




