26 おばさまの名前
「あの水差しにあったものは、見慣れたものだったのね、……おねがい、答えてください。重要なことなの」
コンコンと、懇々と。
おばさまは扉の前に立ち、私の応答を待っている。
その言葉の意味するところに、また暗く気が翳った。
「非道な真似をしたことを許してください」
「……」
あれを、おばさまがした?
「知っていたのですか?」
ますます教会の評価が下がる。
ここは逃亡一択だろうか。
逃亡したところで、教会があるのは険しい断崖絶壁が連なるような山奥だ。転移装置が発動しなければ、逃亡は難しい。
私に筋力があればよかったのに。今は駆け出しても、三十分で息が切れるだろう。
「……ナイフに付いた錆も、水受けのカビですか」
平坦に、問いかける。
「タオルが血で汚れていました。あれも?」
多分鳥を絞めた時の血だろうけど。
トレイの下に敷いてあるとか、頭おかしいわ。
扉の向こう、おばさまは息をのんだのが分かる。
身じろぎをして、私は息を整える。
また?
害のないと思っていた相手から攻撃を受ける。
逃げようのない環境で我慢する。
「ごめんなさい」
「それは肯定ですか」
シーツを握りしめる。
嫌がらせは、おばさまの指示?
子どもたちと協力して?
誰と誰が繋がってるの?
あなたもなの?
一度、二度、呼吸をして、整える。
身じろぎをする気配もなく、扉の向こうから声が聞こえた。
「母親との面会は、明朝食事の後となります。
貴女の母親には会わせません。謁見の間の仕切りをつけた中で、問答をおこないます。
――私が、付き添います」
「……結構です」
この状況で、一体何を言い出すんだろう。
この嫌がらせと、急に降ってわいた母親との面会の条件が結びつかない。
「状況を判断するために、強引な手段をとってしまいました。ですけれど、確認をとることができた。だから。大丈夫です。――もう、大丈夫です」
「何が分かったって言うんですか」
言わずにはいられなかった。
我慢すればいいのに。
いつもみたいに、知らないふりをしていればいい。
そして一人で立ち向かえばいい。
だって無駄だったじゃない。
最初に幽閉部屋に押し込められ、ひどい扱いを受けたその時。父親に伝えた言葉はつたなく、もう一度幽閉部屋に入れられそうになった。クランシーもコラッドもため息を吐いてさ。必死になればなるほど、相手が信用してくれない。だから、苛立ち紛れに物を投げた。ますます、相手は信用しない。癇癪持ちのお嬢様は、少しの幽閉にも耐えられない。砂糖菓子のように甘い生活では、灯火のないだけの夜さえも耐えられない。
物知り顔のため息に、私はまた物を投げ散らかす。――飛び散ったのはガラスか陶器か。拾い集めるクランシーのため息が聞こえる。知ってる。
扉越しのおばさまは、私に構わずに言葉を続けた。
「ユーフェミア様。私の名に誓います」
「名前?」
神前で、名に誓う。それは違えられない誓約の儀式ではあるけれど、そこまで重たいものなの、これ?
おばさまの声は、そんなに重大に聞こえない。笑っているように、明るい声。
その違和感がなんだか嫌で、シーツの皺を睨む。
「私の名前はマーガレット。
けれど貴方に誓うのならば、捨てた名前と共に誓いましょう。
私の昔の名前はマシュルマタ。
マーガレットとマシュルマタ・ショート・ケルテ、両方の名に誓います。
貴女の母親には会わせません。謁見の間の仕切りをつけた中で、問答をおこないます。
総司祭様にも、その旨は了承していただいています。
私が付き添います。
断じて、貴女が納得しないならば、あの家に帰すことはありません。
私の、二つの名に誓います」
マシュルマタ・ショート・ケルテ。
長いその名前。
ショートはとある貴族の名前。
ケルテは古い異国の王族の名前。
そう、系統図を何度も辿り、何度も何度も、覚えた。目隠しでも、言えるようになった。
マショマルタ。細い線の、その先の名前。特徴が書き添えられた文字が浮かび上がる。
金色の髪に、はちみつ色の瞳の少女――ええ、その名前の横に書き添えられた特徴は目の前の彼女と一致する。
「違う」
「どこがですか?」
「おばさまの目は茶色いわ……はちみつ色じゃない」
そう、透き通った琥珀みたいにキレイで、それはそれで私は好き。
この世界には、とてもきれいな色が溢れている。
景色もそうだけれど、人々は美しい色を纏う。魔法が放たれる瞬間には、言葉と共にその人独自のきれいな色が魔法陣を輝かせる。教会の精霊たちは美しい色で踊る。
息をするのと同じように、美しい色が世界を彩る。
そういうところは、好きだよ。
「そうね、あの時ははちみつ色だった」
優しい声色で、肯定する。その言葉に、私の頭は冷えていく。
もう忘れたと、宣言したはずの知識が、私の奥底に沈めた答えにたどり着く。
嫌な予感がして、拒否しようとすればするほど、一つの答えにたどり着く。
マシュルマタ・ショート・ケルテ、その名前。書き添えられた数字は十六。
目の前の、彼女は五十を過ぎていそう。
「貴女は、死んだはずなんでしょ?」
震える唇にその音が乗って。
私はベッドから飛び上がった。
他に人は居ないの?
そんな重要なこと声に出して、大丈夫なの?
慌てて扉を開ける。
おばさま――マーガレットとなったマシュルマタ・ショート・ケルテは微笑んで、そこにいた。
ただ一人で。
十数年前に「病死」した、中級貴族の息女の名前が自身を指すと、私に告げて。




