7
母親の足跡は、左はしっかりと残っていたが、右は曖昧だった。利き足を怪我しているのかもしれなかった。
二十センチ近い積雪である。体の大きくない母親が、片足を引きずって歩くには、相当に難儀したはずである。
足跡は、杉の木の疎らなほう疎らなほうへとすすんでいた。だから、まもなく辺りは暗くなったが、見失わずに追っていくことができた。
母親の足跡は、木々の疎らなほうを選びながらも、かえって奥へと入っていくらしかった。
ゆるい勾配をのぼっていた。落ちたのだから、上へいくべきだと考えたのかもしれない。これでは、道にもどれるはずがなかった。母親は、もう雪のなかで、冷たくなっているかもしれない。
人志は、白い息を吐きながら、ひたすら足跡を追いかけた。
細い月がでると、多少、歩きやすくなった。強風によって、枝から払い落とされた雪が、足跡を埋めてしまっているところが、時折あって、人志はそのたびに、立ちどまって目を凝らした。
靴のなかには雪が入りこみ、冷たさで感覚がなくなりかけていた。こういう状態がつづくと、指を切断することになるのかもしれないが、どうでもよいことだった。
そうなれば、死を選ぶ、いいきっかけになるだろう。母親もおなじように、感覚のなくなった足をひきずって歩いたのかもしれない。
視界のひらけたところにくると、雪原は強風に蹂躙され、足跡は残っていなかった。人志は、ただ、まっすぐに歩いていった。
風が、耳のなかで唸っていた。頬が、針で刺されるように痛い。なるべく頭を垂れ、その風に耐えて歩いた。
木立に入って、ほっと息をつく。
しかし、どこにも足跡がみつからず、探しまわった。
人志とおなじように、風に追い立てられたのか、杉の木々の密生したところに、ようやく、それらしいあとをみつけた。木々のなかを縫うようにのびていた。
その時点で、数キロは歩いてきたような気がしたが、実際は、もっとずっと短い距離なのかもしれなかった。
荒く白い息をつきながら、杉の木に寄りかかる。運動慣れしていない身体は、もう悲鳴をあげていた。山を歩くだけでも大変なのに、ましてや、こんな雪のなかである。
いったい、母親はどこまで歩いたのだろう。足跡は、人志のみえるかぎり、ずっとつづいているのだ。
どうして、自分は、こうして歩いているのだろうと考える。母親への復讐のために死のうとする人間が、どうして、こうまでして探しているのだろう。人志の望む復讐は、母親に死んでほしいわけではないのだった。ただ、悪いのは人志ではなく、母親のほうだったのだと理解してほしいのだった。
ああ、そうか。人志はそのとき、やっと、わかった気がした。理解してほしいのは、世の中にだった。世の中に、悪いのは人志ではないとわかってほしいのだった。だが、どうしようもなく、母親にぶつけようとしていたのだ。もしかすると、それも、甘えのひとつなのかもしれなかった。
ふたたび、木立を抜けたところで、完全に足跡を見失ってしまった。風が唸っていて、舞いあがった雪で、白い景色は、さらに白くぼやけていた。
一本の杉を目印にして、いくつかの方角へいってみたが、雪原はどこも撫でたように平らだった。
「おーい」
人志は、風に逆らい、怒鳴りつけるように叫んだ。なんどもくり返した。声は、口からでる先々から、風にさらわれていった。
風のために足跡が消されたのか、それだけでなく、すでに母親は力尽きて、どこかに埋まってしまっているのかもしれなかった。
母親は、人志の自殺体を発見し、後悔しなくてはならないのだった。人志が、母親の遺体をみつけるのでは、逆だった。
人志は叫びながら、横なぐりの風のなかをすすんだ。とにかく、留まってはいられなかった。疲労の極致に達し、ついに動けなくなるまで歩きたかった。
兄のコートのフードを深く被っていくのだが、ドローコードのついていないフードは、簡単にめくれあがってしまう。
林のなかに、なだらかに登っている狭い道がみつかった。登山道なのかもしれなかった。人志は、その道を登っていった。
喘ぎながら、杉の幹に手をつくと、皮のむけた硬い皮膚のような感触があって、思わず手をひいた。
道の左側が、すすめばすすむほど、高い斜面になっていく。
母親は、ほんとうにこんなところまで来たろうか。とうに追い越しているのかもしれなかった。ひょっとすると、埋もれた母親を踏んできたかもしれない。
「おーい」
やがて、道は水平になる。同時に、木々は厚くなった。遮られたのか、風は弱くなって、そのかわり、雪は深くなった。
雪の表面は、ずいぶんと乱れているようだった。誰かが、歩いた跡なのかもしれなかった。細い道は、木々のあいだを、どこまでもすすんでいくようだった。
ふいに、月は雲に隠れ、ほとんどなにもみえなくなる。これが、ほんとうの闇なのだと思った。街にあるのは、ただの紛いものなのだ。
雪のために仄白さはあるが、それでも歩けなくなる。闇にとり囲まれ、耳もとで風が唸っていた。顔に、硬い粒がぶつかってくる。
ふと、たくさんの黒い影が、風のなかに立っている気がした。はじめて、恐怖をおぼえる。
連れていきたいのなら連れていけ。そのほうが楽でいい。そう、人志は胸のなかで叫んだ。気配は、いつまでも去らなかった。
ただもう、手探りで歩きだした。感覚のなくなりつつある足をひきずっていった。赤ん坊のようにさまよわせた指先が、ときどき、むけた皮膚のような、杉の樹皮に触れる。
母親を勤務先である隣町のスーパーまで迎えにいったときのことをまた思いだした。
行き違いになり、母は帰ったあとだった。虚しく帰る道の、どんなに心細く、寂しかったことか。辺りは暗く、やがて、雨まで降りだした。あのときの、サアっと駆け抜けるような雨音が、今も耳の奥に残っている。
家に帰った母親は、人志がいないと知って、もしやと思い、サンダル履きで道をとって返してきたのだった。
母親をみたとき、人志は安堵のあまり泣いたのだった。どうしてか、母親も泣いていた。
「おーい、おーい」
声はかえらない。
「おーい、おーい」
何度めかのとき、風に、かすかな声が混じったような気がした。母親の声が、兄の名を呼んでいた。ほんのかすかな声で、どこからきこえてきたのかもわからない。猛々しい風のなかに、弱々しいその声が時折、混じるのだった。
「どこだ」
人志は怒鳴った。
風は、一方から吹いてくるのではなかった。ときには吹きおろし、ときには吹きあげ、なにもない雪原をいっさんに駆けてくるのだった。
「もっと、大きい声をだせ」
かたわらの闇のなかの、もっと深い闇のなかで、なにかが動いた。
強い力に腕をとられ、木々のなかに引きずりこまれそうになって、必死に抵抗した。影が、雪のなかに横倒しになった。
その姿をみて、やっと、母親とわかった。
「こんなところにいたのか」
人志は、母親の脇に手を入れて立たせようとした。足がもつれて、うまく立てないらしかった。怪我をしているのだろう。
体が強張ってもいた。いつからかわからないが、凍える雪のなかに、長いことうずくまっていたせいかもしれない。
朝、雪がやんでから歩きだしたとして、昼過ぎに、この辺についたとすると、四、五時間はうずくまっていたことになる。
「憲一」
「俺だよ」
母親は、しばらく物言わなかった。
「これ、憲一のコートじゃなかった?」
「借りたんだ」
「私は、憲一がむかえに来たと思ったんだよ」
「そうかもな」
寒さのせいで、意識が混濁しているらしかった。話し方も、譫言のようである。
「どうして、こんなところに来たの。バカね。こんな寒いところに。風邪でもひいたらどうするの」
べたべたと、人志の腕や背に触れるのだった。
「怪我しているのか」
「きっと、捻挫ね。ほとんど痛くないけど、でも、ときどきは痛むの」
額に黒いものがこびりついているらしいのが、闇を通して、ぼんやりとわかった。血が流れ、それが乾いたのかもしれない。
「こう暗くちゃ歩けないから、しばらく、じっとしているしかない。月がでるか、朝になるまで」
「人志」
母親は突然、両手で顔を覆って泣きだした。
「人志、ほんとうに人志なの。なんで、こんなところまで来たの。どうして、こんな遠くまで」
「小森美津子って、ひとが来たんだ。それで、連れてこられたんだよ」
今にも、母親が抱きついてくるのではないかと恐れながら話していた。
なにを言い、どうしたらいいか、皆目わからない。幼い日、暗い道の先に、近づいてくる母親をみつけて、泣きながら胸に抱かれた記憶は、もう深い霧のむこうだった。
「美津子ちゃんが? そう」
人志は、母親が潜んでいた木々のなかをみた。太い杉の根もとにしゃがんで、幹に凭れていたらしかった。木々が檻をつくっているとはいえ、ほとんど吹きさらしである。
暗いため、黒とも青ともつかぬが、人志の記憶では、紫のはずであるジャケットのフードを尖らせて、母親は雪ん子のようだった。
人志は、近くの枝を折りとってくると、母親が座っていた場所の雪をかいて敷きつめた。それから、まわりの雪を集め、風の来るほうに積んで簡素な壁をつくった。その程度でも、多少は、風を防ぐことができるだろう。
母親を座らせ、人志も近くに座った。嫌だったが、近くにいなければ、母親がいろいろ言ってくるだろうと思うと、それが、もっと嫌だった。
母親は、ジャケットのポケットを探って、小さな人形を差しだした。手のひらに収まるほどの人形である。
当時、流行っていたアニメのキャラクターで、たしか、ガチャガチャで手に入れたものだった。どうして、大切にしていたかもわからないような、陳腐な人形なのだった。
「やっと、探してもらったの。なにしろ、二十年以上も前だものね。残っていないかもしれないって思ったんだけど、かっちゃん、物持ちがいいのね。片方の手は、とれちゃったみたいなんだけど」
「わざわざ、こんなもん」
「母さんがいけなかったのよ。あのとき、ちゃんと話して返してもらっていたらよかったのに。母さん、弱虫だったのね」
闇を透かしてみる片腕のない、ぼろぼろになった人形は、なんだか、とても哀れなものに思えた。望まない過酷な環境から、ようやく帰還したもののように思った。
人志は思わず泣きそうになって、目を閉じた。
「俺、寝るから」
腕を組んで、フードを深く被って頭を垂れた。
「寝たら、よくないんじゃない?」
「そこまでの寒さじゃない」
「人志が来てくれるなんて、母さん、思わなかったわ。生きていれば、よいことがあるのね」
人志は眠ったふりをしていたが、母親は、一人で話しつづけていた。黙ってほしかったが、口にはしなかった。ただ、杉林を吹いてくる風の音に耳をすませていた。
それでも、母親の声は、しつこく耳にとどいてくる。時折、涙声になりながら、人志を妊娠したときのことから、中学のときのことまでを、嬉しそうに話すのだった。
「小学生のとき、母の日に、人志が描いてくれた母さんの絵、金賞をとったのよ。覚えてる? 母さんも、恵美も、憲一も、もらったことがなかったから、そのときの賞状が、うちではじめての賞状だったの」
そうして、二十年ぶりに、母親の声をききながら眠ったのだった。
薄っすらとした朝の光線に目を覚ますと、母親は、まだ眠っていた。白い顔には血の跡のある擦り傷と、いくつもの染みがあった。
母親の顔を、こんなふうに、外光のもとでみるのは、小学校以来のことである。老けたなと思う。もう六十になるのだから、当然のことだった。
節々が傷んで、立ちあがるのにも苦労した。幹にすがって立つと、体に積もっていた雪がぱらぱらと落ちた。
風はやんでいて、よく晴れ、穏やかな空気だった。
動かない母親が不安になって、人志は声をかけた。
「帰るぞ」
母は目を開けず、三度目で、やっと身じろぎした。
「朝?」
「そうだよ」
「こんなところにいたのね」
目を擦りながら、まわりをみていた。
登山道らしいところから、すこし外れた杉林のなか、一際大きな杉の根もとに、母親はぽつんと座っているのだった。
人志が、昨夜築いた雪の壁は、もう上端の一部がくずれていた。だが、これのおかげで、だいぶたすけられたように思う。風が直接当たらないだけでも、全く寒さが違う。
「夢をみたのよ。みんなで旅行にいったときの夢。あれが、最初で最後だったけれど、お父さんも、恵美も、憲一も、おまえも、みんないた」
「先、行くぞ」
人志は歩きだした。
なるべく遅く歩いたつもりだったが、しばらくして、ふり返ってみると、母親はやっと立ちあがるところだった。怪我の痛みが、強いのかもしれなかった。
人志はただ、そこで待っていた。ドラマや映画なら、おぶってやるのかもしれなかったが、そんな度胸はなかった。
母親は右足をひきずりながら、ゆっくりと歩いてくる。追いつくと言った。
「ごめんね」
人志はまた歩きだした。一歩をできるだけ、小さくした。
たまに立ちどまって、遠くへ目をやると、木々のあいだは、どこまでもどこまでも雪なのだった。切断することになるもしれないと考えていた足の指は、今朝になって、感覚がもどってきていた。
人は簡単に壊れるが、なかなか壊れないものでもあるらしい。その違いは、どこにあるのだろう。
昨夜の記憶を頼りにして歩いた。どの方角から来て、どんなところを通ったか。暗かったし、似たような風景ばかりだったはずだが、ふしぎと覚えているのだった。ところによっては、足跡も残っていた。
昨夜、風に苦しめられた雪原は、朝日に解けはじめて、きらきらとひかっていた。
人志はふり返って、なかなか追いついてこない母親を待った。足を引きずって近づいてくる母親は、しくしくと泣いていた。
「そんなに痛いのか」
母親は首をふった。
「嬉しいの。なんだか、わからないけど」
人志は黙っていた。
「憲一のコート、人志には、あなたには小さいわね。新しいの買わないと」
「ダウンジャケットが汚れてたから、これを着てきただけだ」
「人志の背中、お父さんに似てる」
母親は、泣き笑いの顔をした。
「あんなろくでなし」
「むかしは、いい人だったのよ」
そこに騙されて、金とりのいいわけでもない男の子どもを、三人も産んだのだ。結果、子どもたちは皆、不幸になった。
早々にみきりをつけてでていった姉だって、貧しくて馬鹿にされた記憶を、ずっと引きずっていくのだ。幸せのはずがなかった。
人志は、すこし足を早めた。雨戸とカーテンを閉め切った部屋のなかにいるときよりも、いくらか気持ちが軽かった。
ずっと、こんな場所にいたいと思った。なんのしがらみもない。誰の目を気にすることもない。
人志は、ポケットの人形を手にとった。汚れて、傷だらけで、片方の腕を失くし、それでも、ヒーローらしいポーズをとっている。
人志は、真っ青な空にむかって、思いっきり、人形を放った。人志の肩では、ろくに飛ばなかったが、落ちてくるところはみえなかった。青い空のなかに吸いこまれていったようにみえた。
一生懸命についてくる母親は、しきりにまぶたを拭いながら、まだ泣いていた。
やっとのことで、人志のところまで来ると、肩を大きく上下させながら、震える声をだした。
「憲一には悪いことをしたわ。あの子は、なにひとつ悪かったわけじゃないのに、あの子を責めるようなことをたくさん言ってしまった。悪いのは皆、母さんなのに。母さんが、あの子を殺したのね」
嗚咽していた。兄のコートを着た人志の背をみて歩くうち、その思いにとらわれたのかもしれなかった。
「忙しいな。喜んだり、泣いたり」
人志はまた足を早める。いろんなことを思いだしてしまいそうだった。
しばらくしてから、人志は、だんだんとまた、歩幅を小さくしていった。遠かった背後の雪を踏む音が、すこしずつ近くなってくる。
「ごめんね。母さん、遅くて」
喘ぎながらの声だった。
「俺は死なないから」
後ろの足音はとまったが、人志は足をとめなかった。
「俺が、憲一のぶんも生きるから」
どうして、そんなことを言う気になったのか、わからなかった。真っ白な雪のなかを歩いていたからかもしれない。
やっと、母親の足音と、すすり泣きとが、追いかけてきた。
杉木立のむこうに、車が走るのが小さくみえた。道が近いのである。
と思うと、人声がとどいた。幾人もが、呼ばわる声だった。
夜が明けて、捜索隊がでたのだろう。小森美津子の声も混じっているような気がした。
声は、だんだんと近づいてくる。
「おい、いたぞ」
人志がみつけるよりも早く、男の声が叫んだ。
七、八人が雪を蹴ってきて、とり囲んだ。紺色の作業衣の男たち、それから、私服もあった。
「大丈夫か」
紺色の制服にたずねられ、人志は、母親をふり返った。
「足を怪我してるみたいで」
安心したのか、母親は、その場にへたりこんでしまった。
転びそうになりながら小走りに来た大叔父が、人志にうなずきながら通りすぎ、母親に声をかけた。
彼らの背後からは、小森美津子が、息子を連れて歩いてきた。
人志が近づいていくと、耕太郎が走ってきて、足に抱きついた。邪魔でしかたなかったが、したいようにさせておいた。
人志は、彼女の前までいって、一礼した。
「おかげさまで」
「和子さん、よかった。無事で」
女が泣いているのがふしぎだった。
人志は、彼らの歩いてきた足跡をたどっていった。
これから、また、あの家に帰るのだと思った。あそこで数日を過ごすうちには、ふたたび死にたくなるのかもしれなかった。
だが、今はまだ、自分にもなにかができそうな気がしていた。雨戸と、カーテンを閉め切った部屋のなかで、うずくまる以外のことが。
耕太郎が、子犬のように足にじゃれつきながら、どこまでもついてきた。
(了)