5
フロントガラスには、雪がまだしつこく、羽虫のようにまとわりついていた。
ラジオによると、平野部では、深夜にはやむだろうと伝えていた。ただし、山沿いの地域では、明朝まで降りつづくという。
車を走らせながら、美津子は、かなり落ちこんでいた。小林と会えれば、母親のことがわかると思いこんでいたのかもしれなかった。
「和子さん、どこへいったんでしょう」
十年以上も引きこもって、ときには暴れることもある息子を、ついに見限って出ていったのだと話したところで、この女は、どうせ信じないだろうと黙っていた。
「もしかしたら、お家のほうに、警察から、なにか言ってきてるかもしれませんね」
電話は持っていず、家も空けていたから、もし、なにか連絡したいことがあれば、警察は、家にメモを残しているかもしれない。
だが、警察が、自発的に出ていったものを探しだして知らせてくることはないだろうから、そのときには、母親が事故か、事件に巻きこまれたということだろう。
もし、そんなことを伝えられても、人志には、どうしたらいいのかわからない。あたふたとする自分の姿が、容易に想像できた。そんなことになるくらいなら、いっそ、このまま消えていてくれていたほうがいい。
「お腹すいた」
耕太郎はいきなり、ティラノサウルスを投げだし、足をばたつかせる。そういえば、夕飯を食べていなかった。いつのまにか、二十時半をまわっている。
人志は、昼にもらったサンドイッチを渡そうか迷った。おまえみたいな臭いハゲのものなんかいらないと言われることを恐れたのだった。
「なにか、食べていこうか」
「クリスマスだから、ケーキがいいな」
「昨日、食べたでしょう?」
「今日が、ほんとうのクリスマスでしょう? クリスマスには、ケーキ食べるのが決まりじゃん」
「べつに決まってるわけじゃないからね。イブかクリスマス、どっちかに一回、食べたらいいのよ」
「二回、食べてもいいと思うけどね」
耕太郎は、大人のような物言いをする。
美津子は笑いをこらえていた。
「コンビニで買ってあげるわよ、小さいやつね。でも、食べるのは明日よ」
「明日は、クリスマスじゃないでしょう? 今日、食べないと、ダメだと思うけど」
「いいのよ、べつに」
「どうかな」
「じゃ、今日半分。残りは明日。約束できる?」
「できる。やったね、ブッチ」
投げだしたばかりのティラノサウルスをとりあげて話しかけた。
「夕飯は、なにが食べたい? ラーメンでいい?」
「まあ、いいよ」
「まあってなによ。幸田さんも、ラーメンでいいですか」
「もらったサンドイッチがあるから」
「私、奢りますから。付き合ってください」
答えに迷って黙ったが、美津子は承諾と受けとったようだった。
数分走ったところで、灯のみえてきた川沿いのちいさなラーメン屋の駐車場に、美津子は車を入れた。
母子につづいて、人志も車をでた。
夜空を映した黒い川が、ガードレールのすぐむこうを、おおきくうねるように流れていた。昨日から降りつづいた雪をすべて飲みこんだ、荒々しい流れだった。川面が近いからか、恐ろしいほどである。
駐車場に雪はほとんどなかったが、ガードレールの根もとや店の角には、除かれた雪が、山をつくっていた。
川面をこえてくる風は凍るようで、人志は窮屈なコートの襟のなかに、首を引きこんだ。
「川のほうに行ったらダメよ」
「わかってるって」
跳ねなくてもいいのに、いちいち跳ねるから、ずいぶん危なっかしく感じた。
飲食店に入るのも、十数年ぶりのことだった。カウンターは五席、テーブルはふたつの、小ぢんまりとした店内だった。
客は奥のテーブルに一人きりで、人志はほっとした。人は少ないにこしたことはない。
カウンターの真ん中に美津子が座って、右隣に耕太郎が、その右、カウンターの端には、人志が座った。
耕太郎は、わざわざ持ってきたティラノサウルスの人形を、カウンターに置き、高い椅子に座って、足をぶらぶらさせている。
店主は、耕太郎にむかい、愛想のいい笑顔をつくった。
「ぼく、いいな。パパとママと一緒におでかけか」
人志は一瞬、硬直した。なんでもないふりをするのに、非常な苦労がいった。
「おじさんだよ。こんなのパパじゃねえから」
口のなかに残った苦いものを、吐き捨てるような言い方だった。
「耕太郎」
美津子が叱った。
「そんな言い方したらダメって、いつも言ってるでしょう。すいません」
美津子は頭をさげていたが、人志は黙って、メニューをみていた。
「そうか。ごめんごめん。おじさん、つまらないこと言っちゃったな。すいませんね」
店主も頭をかいていた。
人志は、美津子とおなじ、チャーシュー麺を頼んだ。
美津子は、耕太郎とひとつをわけて食べるらしかった。注文が来ると、店主に小さな器を借り、息子のぶんを取り分けてやっていた。割り箸をわって、スープが熱いか確認してやり、食べはじめると、飛んだ汁を、いちいち台布巾で拭いてやっていた。
人志はなるべく、そっちをみないようにした。胸がざわざわとして、しかたなかったのだ。
黙々と、ラーメンをすすった。十数年ぶりに食べるインスタントではないラーメンは、びっくりするほど美味かった。
「私、明日、もう一度、会社で皆にきいてみます」
人志が諦めろというのも、おかしな話だと思った。
「なにか、わかるといいんですけど」
人志は、ラーメンにがっつくふりをした。
テーブル席の客が、立つ気配があった。
「ごちそうさん。お金、ここ置いておくよ」
「ありがとうございました」
客がでていき、開いた戸から、冷たい風が吹きこんだ。
美津子は、しきりに耕太郎の世話を焼いている。幼ささえ残る顔をして、母親なのだった。人志は、セックスを一度もしたこともないのに、年下のこの女はそれをして、子どもを産んだのだった。
「お肉を、もっと食べる?」
「いらない」
「たまごは?」
「食べようかな」
「あまり、甘やかさないほうがいい」
人志は、どんぶりの底の文字をみようと、わずかに残ったスープを、割り箸の先でくり返し切っていた。
美津子が驚いたようすで、自分のほうをみるのがわかった。
「ちゃんと、自立できるように育ててやらないと。もし、自分よりも先に、子どもに死なれるのが嫌だったら」
どんぶりの底には、ありがとうと書かれていた。
「ごちそうさま」
外にでて、車まで歩いた。鍵がかかっているから、なかには入れなかった。
寒いはずだが、それほど寒いとは感じなかった。後悔のほてりがある。
どうして、あんなことを言ってしまったのか。言わなければよかったと思う。これまで、すこしでも、ふつうの人にみえるように背伸びしてきたのに、全部、水の泡になった。もともと、女は、なにもかも見透かしていたのかもしれなかったが。
思えば、人志の人生は、ずっと背伸びの人生だった。流行りのゲームを持っているふりをし、父親にはボーナスがあるふりをし、家には二階があるふりをし、夕食にはたくさんのおかずがならぶふりをし、夏休みには泊りがけで旅行にいくふりをした。
車の窓にうつしてみると、やはり、異様な姿だった。こんな人間に、ふつうの人間のふりなど、できるはずがなかった。
美津子が店をでてきた。人志のほうに走ってくる。
「ごめんなさい。車のキー、渡すべきだったですね。寒かったでしょう」
後ろを跳ねてきた耕太郎が、転がっていた雪の塊に足をとられ、ティラノサウルスを握っていた手をふりまわした。
ティラノサウルスは飛んでいき、耕太郎は反射的に追った。ガードレールの根もとの雪山に乗って、必死に手を伸ばす。足を滑らせると、小さな体は簡単にガードレールを越えていった。
少年の姿はかき消え、大きな水音がした。
「耕太郎」
美津子は怖い顔をして、後ろをふり返った。その目は、息子の姿をとらえられなかったはずだ。
もう黒い水のなかに消えていたから。
「耕太郎、耕太郎」
美津子は金切り声で叫ぶ。
火葬場で火入れのとき、母親があんなふうに、兄のことを呼んでいたのを思いだす。
次の瞬間、耕太郎の影が、川面に浮かびあがった。橋の下を流れていこうとしていた。途切れ途切れの悲鳴のような声がしたが、すぐに途絶えた。
美津子は駆けていった。女は、ガードレールから見を乗りだし、今にも落ちるか、飛込みかねない様子だった。
人志は追いかけていって押さえつけた。
「放してください。放して」
「一一九番に電話して」
窮屈なコートを脱ぎ、欄干に足をかけた。どうしてだろうと考えながら飛んだ。近いうちに死ぬ人間が、どうして、ほかの命を助けなくてはならないのか。
水の冷たさは感じなかったが、心臓が鷲掴みにされたような感覚があって、一瞬、息がとまった。
想像以上の強い力に押し流されて、しばらくは、自分が、どっちの方向をむいているのかもわからなかった。身体の向きを安定させるのが精一杯で、耕太郎をなかなかみつけることができない。
人志は小学生のとき、泳ぎが得意だった。だが、あれから、何年経っているだろう。
懸命に水をかくが、ズボンがまとわりついて、足が動きにくかった。必死になって、水を蹴ると、靴が脱げ、いくらか楽になる。
上下左右が認識できてくると、ようやく流されていく耕太郎の頭がみえた。川面のうねりがしばしば隠そうとするが、なんとか、見失うことなく追っていくことができた。
流れていく頭は、まるで黒い西瓜のようにみえていた。あれが、ほんとうに西瓜で、間違ったものを追いかけてきてしまったのではないかと不安になったとき、小さな手が天をつくように伸ばされ、正しかったと安心した。
なんども、水を飲んだ。気管に入って咳きこみ、息ができなくなることもあったが、手足を動かすことだけはやめなかった。首を吊るときには、もっと、ずっと苦しいはずだった。
美津子の声がきこえていたが、どこにいるのかまではわからなかった。
どれくらいかかったか、やっと、耕太郎に追いつき、細い腕をとった。引きよせるが、少年は意識を失っているのか、動かなかった。
胸に抱え、仰向けになる。耕太郎の頭を、できるかぎり高くあげた。
だが、そうしてしまうと、流れがつよく、とても抗って進むことができないのだった。肺に、必死に空気をためこんで、人志は、その姿勢をつづけようとした。
うねりが、時折、水中に身体を引きずりこもうとし、鼻から水が入る。咳きこむと、肺の空気が逃げ、体はふっと沈んでいこうとする。水を蹴って、また、なんとか浮きあがる。大きく息を吸いこんで、肺に息をためる。このくり返しだった。
暗くて、はっきりしないが、川沿いの道を、美津子らしい影が、転びそうになりながら走っているのがわかった。他にも、数人が走っていた。なにか叫んでいるが、なにを言っているのかはわからなかった。
ふと、水が塩辛いように思った。そういえば、海が近いのだった。いくらか、浮きやすくなったように思った。
だが、流れは速さを増し、とても抗えないほどのものになっていた。
ぐいと体が沈む。誰かに、足を引っ張られたような感覚があった。怖くなって、懸命に足掻いて抜けだしたところに、水の塊がぶつかってくる。水にとりこまれ、しばらく息ができず、意識が消えそうになりながら、足をばたつかせる。
やっとのことで抜けだし、空気をむさぼる。喉がひゅーと音を立てた。
だが、すぐにまた、ふたたび、水は塊となって襲ってくるのだ。
波なのだと気づいた。波が、人志を水中に引きこもうとして、くりかえし襲ってくるのだ。
力をふり絞って、耕太郎の体を高く掲げる。そこでまた、ぐいと足を引っぱられ、沈みそうになる。
水の塊がぶつかってきて、鼻と口から、水が一気に、気管と胃袋へと流れこむ。
苦しい、苦しい。
死ぬとはこういうことなのかと思った。
もし、人志が、こどもを救って死んだとしたら、母親は喜ぶかもしれない、とぼんやりと考えた。
人志を捨てて出ていった母親は、そのときにはどんな顔をするのだろう。
そのとき、また、ぐいと引かれる。バランスをとろうと無我夢中でふりまわした右手に、なにかが触れた。
とっさに握った。
「よーし」
しわがれた男の声がきこえた。
遠くで、消防車のサイレンが鳴っているのに気づいた。
輪になっていたロープを耕太郎の体に掛けると、それでやっと、すこし安心することができた。
だんだんと岸が近づいてくる。
なぜか、そのとき、ふっと手の力がなくなった。同時に、ぐいと足を引かれ、体が沈んだ。
ふしぎと苦しさはなく、ただ眠りにつくときの甘い感じがあった。人の声が、がやがやとうるさかった。
どれくらいの時が経ったのか、人志にはわからない。力強い手で、今度は、上へと引っぱられていた。
水の向こうには、母の顔があった。
泣きだしそうな顔で、なにかを懸命に訴えていた。
以前、こんなことがあったろうかと考える。川に遊びにいったことはあった。だが、そのとき、誰も溺れたりはしていないはずである。
まもなくして、母は消え、道路に寝かされていることがわかってくる。
白いヘルメットに、オレンジ色の服の男に見おろされていた。
「わかりますか」
工事現場にあるような照明があって、白い光のなか、大勢に囲まれていた。襟や袖の擦り切れたスウェットを、恥ずかしいと思った。
「ああ」
答えると、歓声が起こった。
「名前は?」
「幸田人志」
「なにがあったかわかりますね」
「この記憶が正しいなら」
「言ってみてください」
「子どもが落ちて、飛びこんだ」
「その記憶で合っていますよ」
オレンジ色の服の男は笑った。消防士なのだろうと思った。
近くで、救急車のサイレンが鳴りはじめる。
美津子も、耕太郎もいないことに気づいた。
「子どもは」
「大丈夫です。意識がありましたから、心配ありません。念のため、救急車で病院へ搬送されたんです」
「そうか」
美津子はついていったのだろう。
人志は、体を起こした。
「河口付近は、ほんとうに海流が複雑で、波もある。離岸流も強い。引きずりこまれたり、沖まで一気に運ばれてしまったかもしれない。幸運でしたよ」
立ちあがっても、ふらつくようなことはなかった。ただ、体はひどくだるかった。
そこは、道のどん詰まりで、すぐ前は海だった。どこまでも、果てしなくひろがる黒い海である。
雲が切れて、星がみえていた。
いつのまにか、雪はやんでいた。
「あなたも、病院へいったほうがいい」
「大丈夫」
「いや、いってください。河口まで流されたんだから、海水もかなり飲んでいるかもしれない」
歩きだすと、足がもつれた。
みると、裸足なのだった。靴下も履いていない。靴が脱げたのはわかったが、いつのまにか、靴下も流れに奪われていたのだ。
加えて、濡れた服が重いから、歩き難いのだった。なによりも、炎天下のなかを延々と走らされたように体がだるかった。
道では、大勢が三々五々話していて、勇敢だとか、よくやったとか、声を掛けてくるが、人志には鬱陶しいだけだった。
勇敢だから飛びこんだわけではないのだ。ただ、無敵の人だから、失うものがないから、躊躇わなかっただけなのだ。
しかし、どう説明したところで、この人たちには、わからないことだと思った。
ひとつだけ、ふしぎだったのは、どうして、とっさに飛びこんだのかということだった。少年が落ちたとき、助けなくてはいけないと思ったのは、どうしてだったのだろう。
今日、会ったばかりの子ども一人、死んでしまってもよかったはずだ。それなのに、なぜ、とっさに飛んだのか。
女が悲しむと思ったからだろうか。しかし、それは、人志にとって、どうでもいいことのはずだった。
名誉欲だろうか。
もうすぐ死んでしまう人間に、そんなもの、あるはずがなかった。ましてや、死後のことなど、どうでもいい。
美津子が走ってきて、人志の前に立ちどまった。肩で大きく息をしていた。人志が脱ぎ捨てたコートを抱えていた。その目は、真っ赤だった。
「無事だったんですね。よかった」
美津子は深く頭を垂れる。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「子どものところにいたほうがいいよ」
「はい。耕太郎、今、救急車で病院にむかいました。私も、これからいきます」
人志はうなずいた。
「幸田さんも病院に」
「俺のことはいいから」
「でも」
「いいから、いって」
「服、どこかで着替えないと」
「いいって」
「すいません」
美津子は財布から紙幣をとると、人志の手をとって握らせた。
「これ」
その手の暖かさと、肌の艶やかさに、怯んだ。
「私、しばらく耕太郎についていないといけないと思うんです。だから、ごめんなさい。これで、タクシーで帰ってください」
一万円札が二枚あった。人志は迷った末に、受けとった。
「じゃ、借りておく」
「いいんです」
「あとで返すから」
美津子はうなずくと、人志にコートを返した。それから、もう一度深く礼をし、来た道を小走りにもどっていった。
「なにか、服を貸そうか」
年寄りが声をかけてきた。
「婆さんに言えば、息子のがみつかると思うんだが」
人志は首をふった。それだけでは悪いような気がして付け足した。
「家に帰るんで」
「近くかね」
うなずいた。
「どこだい?」
それには答えなかった。
「タクシー、呼んでもらえませんか」
「いいよ」
年寄りは携帯をだした。今は、誰でも持っているのだ。持っていないのは、人志のように、社会的な繋がりをもたない存在だけだった。
この頃になって、体が凍えてきた。裸足で、アスファルトに立っていた。
すきま風の入る家で、暖房もストーブだけだったから、寒いのには慣れているつもりでいたが、それとは質が違うのだった。
「うちで待つかね。寒いだろう」
「橋のところで」
「さすが、若いもんは大したもんだ」
年寄りは、橋のところにいるからと電話口に言うと、人志の背をたたいて去っていった。
人志は、びしょ濡れで重くなっているスウェットを脱いでしぼり、もう一度、それ着てからコートに腕を通した。濡れている服を全部脱いでしまい、肌に直接着たほうが暖かいような気もした。
見物人たちは皆、晴れ晴れとした顔で、ぞろぞろと帰っていく。花火を見物した帰路のようだった。
数分で、タクシーは来た。
運転手が訝しそうにながめたのは、当然のことだと思った。
車内は暖房が効いていて、木枯らしに吹かれて帰り、ランドセルを投げだして炬燵に飛びこんだ、子どもの頃を思いだした。
行き先をつげると、運転手はなんどか首をかしげてみせた。
「遠いですよ」
「遠いね」
「途中から深夜料金になるかもしれないし、一万円くらいになるかもしれない」
「へー」
嫌な気分だったが、腹は立たなかった。
黙っていると、運転手はしぶしぶ車をだした。
暗い窓の外をながめていると、だんだんと眠くなってくる。ぼんやりとした頭で、川で意識を失くしたとき、どうして、母親の顔がみえたのだろうと考えた。
もし、幼い人志が川に落ちることがあったら、母親は狂ったようになって、後先考えずに飛びこんだに違いないのだ。無敵の人でもないのに。
幼い人志が、いじめられたと訴えても、相手の親になにも言えず、親戚の子に大切にしていた人形を盗られても、なにも言えない女のくせに。
家出ではないのかもしれないと、はじめてそのとき、人志は思った。
時計がないからわからないが、一時間くらいは乗っていたらしかった。途中、なんどか、うとうとした。会話は、一切なかった。
家から数分のところにあるアパートの前で、タクシーを降りる。料金は一万円をすこしでた。人志が金を払っても、運転手は不機嫌な顔のままだった。
強い風が吹いていて、裸足で歩きだすと、無性に泣きたくなった。
いろいろなことがあって、心が不安定になっているのだと思った。ときどき、あるのだ。突然、叫びたくなったり、泣きたくなったりすることが。
兄のコートなんかを着たのもよくなかった。兄の惨めなきもちが、染みこんでくるような気がするのだった。
ポケットに入っていたノートの切れ端をみたのもいけなかった。
――僕には翼がない。
兄はおとなしい性格だったから、人志よりも、もっと、たくさんのものを胸にためこんでいたのではないか。だから、たった十九年しか耐えられなかったのだ。
涙が溢れそうになるのを、いつものように歯を食いしばって耐える。ポケットに両手を突っこんで、背を丸くして歩いた。
中学の教師に、顔をあげて胸を張って歩けと言われたことがあったが、人志には、これしかないのだった。世の中のすべてが怖いから。こうして歩くしかないのだった。
家々のあいだに、小さく、真っ黒な影のような家がみえてくる。
ほとんど感覚のない裸足の足を引きずって、砂利の上をこわごわと歩いた。
ポストをのぞいたが、警察からの連絡はなく、電気料金の払込用紙があるきりだった。人志は、それをそのままにして、玄関を入った。
家のなかは、恐ろしいほど寒々しかった。
母親の部屋の灯りをつけ、ストーブと炬燵のスイッチを入れた。小さな鍋に水を入れて火にかけ、買い置きのコーヒー缶を入れた。
自分の部屋にいき、そこのストーブもつける。凍えたなかで着替える気には、とてもなれなかった。かすかに、川の臭いのする半乾きの服でも、脱ぎたくはなかった。
母親の部屋にもどり、炬燵に足を入れたが、まだ、きな臭い、ぬるい風が吹いているだけだった。赤くなってきたストーブを引き寄せ、炬燵に前かがみになって、なにもせず、ただじっとしていた。
コーヒー缶が、煮立った湯のなかで揺れ動く音がして、立っていった。熱い缶を右左とかわるがわる持ちかえながら炬燵にもどる。タブを起こして口をつけると、やっと、きもちが落ちついた。
なんとはなしに、そこに出しっぱなしになっている段ボール箱を引き寄せた。蓋を開くと、埃が舞った。
古い本が入っているのだった。兄の小中学生のときの教科書や、人志が幼い頃にみた記憶のある絵本も入っていた。
べつの箱もあけてみる。アルバムが、何冊か入っていた。表紙に書かれた日付をみて、一番古いものを手にとった。
小学生のときに目にした記憶がある。父母の結婚式からはじまるアルバムである。この憐れな家族の歴史のはじまりといえるものだった。
人志が一、二歳の頃までは写真も多いが、みるみる減っていく。その後に起きたことを考えれば、当然だったろう。
兄は、いじめられて引きこもるようになり、両親の喧嘩は絶えず、やがて、兄は暴れるようになった。姉は出ていき、父は、すべてを母親のせいにして家に寄りつかなくなる。そして、兄は首を吊った。両親は離婚し、こんどは人志が引きこもった。人志の写真は、小学校の低学年のときの運動会が最後だった。
アルバムのなかに一枚だけ、ビニール袋に入れられているものがあった。ビニール袋は写真の大きさに合うように切られ、丁寧にテープでとめられていた。
両親が笑顔でならんでいて、母親の腹は大きい。母親の隣には姉がいて、兄もいる。お腹にいるのは、人志なのだった。
気になって、アルバムをもう一度見返していった。家族五人が揃った写真は、一枚もないのだった。偶然がそうしたのだろうが、その後の家族を象徴しているような気がした。唯一、五人揃っているのが、人志がお腹のなかにいる、その写真なのだった。母親も、それを知っていて、ビニールに包んだのかもしれない。
他にも収納ケースや、小物入れに使っている菓子の缶があったが、中身は、古い通帳や、もらいものの旅行土産、壊れた時計、ペンダントやネックレスだった。
部屋のなかが、ようやく暖まってきた。人志は這っていき、半分開いている押し入れをのぞきこんだ。古い布団や、壊れて買い換えたはずの古い掃除機が入っていた。
上の段には、真新しい箱がぽつんと置かれていた。ひとまわり大きな蓋を被せるタイプの箱で、包装紙と、リボンが乗せられていた。箱を開けてみると、封筒が二通、それから、男物の服が入っていた。
人志は、箱を炬燵まで持っていった。片方の封筒には、ゲームの購入に使えるプリペイドカードが一万円分、入っていた。
もう一方の封筒は、破れた便箋で、母親の文字がある。
メリークリスマス
なにを買っていいかわからないので、前に頼まれたことのあるゲームのカードと、今着ているのは袖が破れているようなので、トレーナーを買いました。気に入るかわからないけれど。
先日、人志が言っていた叔父さんとこのかっちゃんに盗られたという人形ですけど、アルバムに写真があったから、古い玩具を扱っているお店に行ってみたけれど、売っていませんでした。ごめんなさい。
母さん、あのとき、おじさんに気をつかって言えなかったのね。母さん、弱虫で
書かれていたのは、そこまでだった。そこまで書いて、破ったのだろう。
愚かな母親は、二十七歳にもなる息子に、今年も、クリスマスプレゼントを用意していたのだ。包装紙や、リボンまで買って。プリペイドカードは、以前に買わせたことがあったから、それを覚えていたのだろう。
ダメな母親だと思う。だから、息子は自立できず、自殺をするようなことになるのだ。人形なんて、そう大切にしていたわけではない。数日の間、悔しかったのは確かだが、諦めることには慣れていた。母親は、人志が怒りに任せて、口から出まかせに言ったことを、本気にしたのだ。
箱を押入れにもどし、照明と暖房を消すと、自分の部屋にもどった。風呂に入りたかったが、沸かすのは面倒だった。鍋に沸かした湯で、体を拭いた。足の裏は染みるところがあったのでみると、何箇所か傷になっていた。
髪は短いとはいえ、川の水が染みこんでいるようで嫌な感じがしたが、洗うのも億劫だった。湯で濡らしたタオルで、掻きむしるように拭った。
襟と袖の破れたスウェットから着替えたのは、やっぱり、襟と袖の破れたスウェットだった。
インターネットをする気にはなれず、疲れていたから、いつもよりも早く布団に入ったが、なかなか寝つけなかった。川に飛びこんだ興奮が残っていた。
女に手に触れられたことを思いだすと、ひさしぶりに抜きたくなったが、それをしてしまえば、つぎに会ったとき、女の顔をまともにみられないような気がして、しなかった。だが、どちらにしろ、人志には、女の顔をまともにみることなどできないのだった。
暗いなか、ふと視線をやると、壁際に黒い、兄の影が立っている気がした。そこから、じっと、人志のことを見おろしているのだった。
もし、そっちの世界が寂しいのなら、俺を連れていくといい、と人志は、心のなかで言った。そうしてくれたら、首に縄をかける瞬間の恐怖と対峙しないですむのだ。
年の離れた兄には可愛がられ、人志も好きだったが、死の一年ほど前からはそうでもなくなっていた。その頃には、兄はもう様子がおかしくなっていたのだ。被害妄想的で、怒りやすかった。人志も、なんども怒鳴りつけられた。
兄が癇癪を起こさないかと、いつもびくびくして過ごしていた。死んだと知らされたときには、驚きや悲しみよりも、やはりという思いと、安堵とがあった。
黒い影が、手を持ちあげたようにみえた。どこかを指したようだった。北の方角だったが、それがなにを意味するのか、人志にはわからなかった。影をみつめているうちに、いつしか寝入っていた。